2 それぞれの夜

 伝えられた家を訪ね、招待への感謝を伝えると、早速食事の広げられた円卓に誘われた。

 家のものが椅子を引いて待っている。ふたりの間をのっそりと、毛の長い大きな犬がすり抜けていった。フリッガは、うーを連れてこなくてよかった、と思った。彼自身は犬を怖がりはしないが、だいたい犬の方が落ち着かなくなるからだ。彼が人の姿をとっているときでも。


 ふたりが腰を下ろしたとき既に卓に着いていたのはあの少年だけだった。ふたりを待ってから席に着いたのが老人と中年の女性。それから少し遅れて現れた中年の男女は少年の両親だろうか。それがこの家の全てのようだった。

 全員が席に着くと、さっきの犬は少年と老人の間に移動して、そこで行儀よく座った。


 まずは日々の糧に感謝を捧げる。老人はその口上を、畏れながら、とフリッガに頼んだ。もちろん彼女は快諾した。

 実のところ彼女自身は、普段の生活ではろくに祈りなど捧げてはいないのだが(何せ彼女の普段の食卓を彼女と一緒に囲んでいるのは感謝を捧げられる対象であるところの竜だし、並べるものの準備すらだいたい彼らがしている)、今日は彼女は一番丁寧な、正式のやり方で感謝の祈りを捧げた。

 手のひらを上に向け、食卓の端でそれを重ねて目を閉じる。その式はもっとも基本的な祈りの姿勢なので、彼女は五歳くらいのころ――まだ父が生きていたころ、当代サプレマから次期サプレマへの口伝として、直に教わった。


「額と手のひらのちょうど真ん中に、その日そのとき一番心地よい色の光が浮いているような、そんな想像をして」、そう言われたのをよく覚えている。今日のフリッガのそれは日が落ちきってしまった直後の空の色をしていた。

「朝はそれが額に、夜はそれが手のひらに、それぞれ静かにゆっくりと吸い込まれて、そこから体中の隅々まで広がっていくような感じで。深呼吸をしながら」。その時の父の、いつもより少し低くて穏やかな声が好きだったので、覚えているのに忘れたふりをして何度も教えてもらったことも、昨日のことのように思い出す。

 自然と背筋が伸びた。あのようにあらねばならない。自分はサプレマなのだから。

 それから十五年以上。今ではほかのことを考えていてすら淀みなく出てくるようになった祈りの言葉を終え、フリッガが目を開くと、向かいでは少年がぎゅっと目を閉じていた。

 終わったよ、と教えると少年は慌てて目を開いた。控えめだが温かい笑い声が食卓を包み、食事が始まった。


 フリッガの前に置かれた器の中では素朴な料理が、ほわほわと優しい湯気を立てている。大皿の料理も勧めながら、老人はふたりに――とくにフリッガに、改めて歓迎の言葉を述べた。

 この老人はアドラ首都スペクトと、それよりは隣国ファルケ寄りにある軍事都市ナハティガルとの中間に位置する小さな町の出身なのだそうだ。そこで育ち、スペクトに出て、妻となるべき女性に出会った。スペクトをはじめとしたアドラの大都市は、亡き教主ドラクマが従えた火竜と、その現在の依り代であるドラクマの末裔が今もなおその統治者として君臨し、権勢を誇っている。


 焼き尽くし、従える。アドラはドラクマの、その強い意思をしるべにして大きくなった国だ。しかし老人と妻はそんな考え方に共感できず、なんとなく居心地の悪さを抱えていたという。それでもそのころには既に、宗教は人々の生活の中での重みを失ってきていたので、信仰がどうだといってスペクトが特別暮らしにくく感じるわけでもなかった。

 老人がメーヴェに来ることを決めたのは、ナハティガルの主導でユーレに派兵がなされたときだ。その派兵の目的は、ユーレ沿岸に沈んだ海底遺跡と、そこから発掘される古代文明の遺産、その技術であり、当然軍事利用を見込んだものだった。


 当時のナハティガルの指導者は、ドラクマの末裔であるにも拘らず宗教とは距離を置いた人間だったのに、それでも「焼き尽くし、従える」という思想からは離れられなかった。老人はそれを見て、アドラという国から離れたいという思いを強くし、妻を連れてここまでやってきたのだという。ただ、国境はその戦闘のせいで封鎖され、ユーレには立ち入ることができなかった。

 ユーレは持ちこたえた。そしてナハティガルの指導者も代替わりし、アドラ軍は退いた。しかし老人はメーヴェを動くことはなかった。ここでの暮らしはそんなに悪くなかったし、何より子どもも生まれていたから、そう言って老人は食卓についている家族を見渡した。つられてフリッガもひとりずつ、その顔を眺めた。ぐるりと回って最後に見たのは隣に座っているヴィダだ。

 とうに食事を終えて話を聞くだけになっていた彼は膝に置いた自分の手を見ている。女王デュートの前で見たときと同じ、何も読み取れない顔をしていた。


 老人の妻と思しき人はいなかった。フリッガが視線を戻すと老人は「妻が旅立ったのは二年前です」と、穏やかな口調で言った。

「今日の広場を南に下った先に墓地があります。サプレマの祝福を得ることを何より望んでいた者たちが多く眠っているところです。もちろん、お時間が許すならで構いませんが」

 老人はそこで言葉を切った。


 フリッガは隣を見た。ヴィダと目が合う。ここから先はくれぐれも、慎重に話をしなければならない。

 食卓の下でフリッガはヴィダを指差した。しかしヴィダはそれに、同じく食卓の下で手を振り拒否の意を示した。彼は代わりに話してくれるつもりはないのだ。その理由は分かっている。老人が待っているのは「サプレマ」の言葉であり、その連れのではない。

 フリッガは深呼吸をした。サプレマとしてのふさわしい言葉を、ふさわしい自分を、見せなければ。目を閉じ、すう、と息を吸う。そして吐く。目を開く。それから口を。


「実はフリューゲルに行こうと思っています」

 ヴィダは思わずフリッガを見た。フリッガはそれをまったく気にすることもなく、ゆっくり瞬きをしてから続けた。

「歴代サプレマは沿革的にユーレに置かれ、そこから離れずにまいりました。しかしアドラで厚遇される火竜はわざわざユーレに見向きはしませんから、私を含めたこれまでのサプレマは誰ひとり、火竜と通じていない。それを戴く人々の思想も信念も、話に聞くだけです」

 フリッガの口調は落ち着いている。ヴィダは背を伸ばしたまま先を見守った。

「先ほどお聞かせくださったとおりで、人の信仰は薄れます。そのこと自体を批判することはできませんし、一方で衰退と嘆くばかりの宗教者にも価値はない。我々はいい加減、そのことを認めて旧態依然の態度を改め、これからの波と新しい風にふさわしい新たな航海図を描く必要があります」

「それでわざわざアドラを横断してファルケの首都まで?」

「ええ。彼の地は全ての国の、全ての風が集まるところですから」

 そう言ってフリッガは目を細めた。老人は顎を撫でながら下を向き、考え込んでいる。


 サプレマとしての立場を強く意識するとき、フリッガは思いのほかしっかりしているのだ。ヴィダはそれを知らないわけではなかったが、最近は彼女の子どもじみたところばかり見ていた気がしたからか、なんともいえない違和感を覚えた。まるで別人のようだ、と。

 老人は顔を上げ、目を細めた。

「サプレマまでもがそのようなことをなさる時代か」

 フリッガは穏やかな目で老人を見たままだ。老人はため息をついた。


 ここメーヴェからフリューゲルに向かう最短ルートは、この先のドロッセルを抜けて首都スペクトを通り、ナハティガルの脇をすり抜けていく道だと彼は言った。そしてそれはこの老人が、故郷を出てこの町に落ち延びてきたルートとほぼ一致しているという。

 ほかにもルートはあるが時間がかかる。それを伝えた上で老人は「目的に沿うならば人の多いところを通る方が望ましいのでしょうな」と括った。

 人が多ければその分、安全性は落ちる――いろいろな意味で。しかしそれは時間の前には重要な問題ではない。サプレマの言葉を老人はそう理解した。そしてその旅はあくまでも宗教者としてのものだ。少なくとも、老人が知っていい範囲では。


 通じている。十分すぎるくらいだ。ヴィダは大きな安堵の息をついた。

 老人は用意させた宿を伝えると、戸口までふたりを見送った。

 深々と頭を下げた老人が差し出す皺の寄った両手に長久と再会の祈りを残して、フリッガとヴィダとは老人の家を後にした。



 その四半刻前のことだ。

「また本読んでら。お前もちゃんと見張れよなあ」

「猫の方が人より夜目は利くでしょ」

「猫じゃねえっての。だいたいお前なあ、座り込むなよ」

「いちいち細けえな……年寄りは大切にしろって」

 そんなやり取りを延々と続ける翠嵐とうーとを、ともに見張りに出ていた町民数名が不安そうな目で見つめた。


 サプレマの連れとはいえ、年は十を少し越す程度の少年に、もうひとりも身長はあるが細身である。おまけにふたりとも見たことのない格好だ。髪や目の色は鮮やか過ぎて不自然なほど。

 彼らのような存在を目の当たりにする機会に恵まれない町民らにとってはそれでも、ふたりはその四肢がとる形のとおり人間である。その前提で考えるならふたりの外見は頼り甲斐という意味では今ひとつだった。ふと上げた顔が不審げな視線とぶつかるたび、翠嵐は苦々しげな顔で笑った。


 メーヴェは国境での戦闘のとばっちりを避けるため、町のぐるりを白い壁で取り囲んでいる。それは馬が越せない程度の高さしかないものだが、町の入り口を一応は二箇所だけに限定するものとして一定の役割は果たしていた。

 フリッガたちが通ったのはそのうち、海に近いほうだ。日中の件は、そのゲートを入ってすぐのことだった。だからそのときの連中に連れがいたとしたら、彼らが来るのもこのゲートからだろう。それで翠嵐たちはその周辺で様子を見ることにしたのだった。


 闇にまぎれた青黒い砂の上に星が無数に光っている。来た方を眺めても、ユーレの明かりはもう地平線の彼方で見えなかった。目を細める翠嵐の肩を、砂を含んだ冷たい風が撫でた。

 町民はなんのためにいるのだろう、と彼は思った。おそらくヴィダの言ったとおり、ここではあんないざこざは日常茶飯事だ。

 サプレマに尻拭いをさせたことを恥じてでもいるのかもしれないが、どうせ根本的な解決など誰も考えていない。こんな対応はおそらく今回に限ってのことだし、もし本当に連中の仲間がいて大挙して押し寄せてきたら、ここにいる人間はろくに抵抗しないだろう。

 武装を許されていない町民が持てる護身具はせいぜい棒きれくらいで、そんなものにすがりつくかのように両手で握りしめ、明かりの周りをうろついている中肉中背の男などを見ていると、翠嵐はどうにもくだらない、情けない、けれどもだからこそ愛おしい、そんな複雑な思いを抱いた。人間はいつの時代だってそうだ。


 その中背の男がおどおどしながら寒くないか聞いてきたので、翠嵐は大丈夫だと答えた。彼が「それより何か上を羽織ってきたらどうか」と言うと、男は少しだけ笑顔になって手にしていた棒を彼に託し、ゲート脇の小さな建物に消えた。

 受け取った棒は案外長く、肩口くらいまである。明かりの近くで翠嵐は、それを腰掛けたままの脚の間に挟んで肩に立てかけ、姿勢を改めて手元の本をもう一度開いた。

 ネコはそんなふうに周囲への警戒をまったく行わない翠嵐を睨みつけ、むやみやたらとゲートの左右を行き来していたが、ふと立ち止まった。翠嵐が顔を上げる。

「何?」

「なんか今、変な匂いがした。一瞬だけど」

 そう言って彼は背負っていたリュックを下ろし、その中からごそごそと銃を取り出した。風に紛れるものに彼は特に敏感なのだ。それは風竜たる彼の力によるところが大きく、猫であることには関係がない――と、彼は言うけれども。

 後ろで焚かれている火が、少し強くなった風に煽られて揺れる。

 風に乗って転がる砂を黙って目で追っていた翠嵐は、面倒臭そうな様子を隠しもせず、大きなため息をつき空を仰いだ。

「あーあ。大当たり」

 揺れた炎が台ごと倒れ、消えた。



 金属のようなものが擦れる音がする。でも、刃物ではない。それが腰の左脇をかすめていき、翠嵐はいまいましげに舌打ちをした。

「人数は」

「たぶんひとりだ」

 銃を構えたうーが答えた。彼は既に迎撃態勢に入っている。

「そっかあ。うーん、仲良くなれそうにないなあ」

 そう呟いて翠嵐は預かったままの棒を構えた。

「お前そんなのでまともに戦えるのかよ」

「まあ見てろって。ほら来たぞ」


 淡く発光する鎖が闇に浮かぶ。この時代では翠嵐が見たことのないものだ。

 物陰に潜んでいたうーは、狙いをつけやすいその光をまずは狙撃した。圧縮空気を弾丸とする銃は彼の能力なくしては扱えない珍しいものだ。どういう仕組みかも、入手経緯も明らかではないが、体の小さい彼には必須の武器になっている。鎖が弾き飛ばされて砂に落ちる軽い音がした。

 間髪を入れずに金色の目を見開いたうーの足元から、風に煽られた砂が舞い上がる。それは相手に届く頃には小さな砂嵐となって、落ちた鎖を地に埋めた。もう簡単には拾えない。


 後ろで町民が火を焚き直したその光で相手の影がうっすらと浮かんだ。それは炎と、その先のゲートにまっすぐ向かってくる。

 人間にしてははやすぎる。翠嵐はうーに向かって、行け、と顎で示した。行って、知らせろ。残念ながら今晩の相手は当たりだ。

 かがり火と相手、その中間を阻む位置に立った翠嵐に、うーはわかった、と大きな声で応えて後ろに走って行った。


 避ける様子もなく向かってくる相手を、翠嵐は棒を横に構え、見据えた。

 ややくすんだ色に発光していた武器はおそらく、発掘量の多い量産品のほうだろう。ユーレ王家が独占しているウルティマ=ラティオでは、たぶんない。そしてそれはもう相手の手を離れた。

 体格は――彼よりは背は低い。割と細身だ。あの距離からにしては良い線の攻撃を仕掛けて来たように思う。それなりの手練てだれと評価しておく。それが今度は金属製の刃物を構えて向かってきている。鉈に似た大型のナイフだ。

 彼は舌舐めずりをし、目を細めた。距離はあっという間に狭まる。


 炎に照らされて赤く閃くナイフも、それだけならば防御は難しくない。ところが相手は後腰に回し、左手にも同じタイプの刃を握った。

 首をかすめるのを翠嵐は顔を左にひねってかわした。耳のすぐそばで空気を裂く音がはっきりと聞き取れた。構えた棒を左手の中で滑らせ、一気にリーチを長く取ると翠嵐は大きく踏み込み、右手をついて斜め下から薙ぎ払った。とっさに相手は飛び退いて避けたが、砂をつかんだ翠嵐はそれで追い打ちをかけた。目潰しはフェアではないかもしれないが、彼にそういう美学はないのである。

 敵が手の甲で目を抑えよろめく隙をみすみす逃すはずもなく、さして悪びれもせずに詫びの言葉を投げながら、相手が目に添えた手に握るナイフを彼は後ろ足に蹴り飛ばした。しかし刃が砂に刺さる音を確認する間もなく、体勢を整え直した相手が再び構えて向かってくるのが見える。

 敵ながらしつこさと敏捷性はあっぱれだ。近くで見れば女性的な容姿だった。実際女性かもしれないが、だったとしても何も関係ない。


 大きく身体を後ろに逸らして宙を滑る刃をかわす。その体勢のまま重心を移して、翠嵐は棒を手にしたままの両手を地につき後方転回した。間髪入れず高く足を上げる。頭を狙っている。

 相手は距離を空けるより腕を構えて防御することを選んだ。しかし翠嵐が上げた脚はただのおとりだ。彼の手にした棒の先は、相手のがら空きのみぞおちを狙いすまして突いた。


 うめき声が聞こえた。そして地面に倒れる音。翠嵐は、はあ、と大きなため息をついた。

 動かなくなった相手をつま先で蹴っていた彼のところに、うーに伴われたそあらが歩いてきていた。

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