1 国境を越えて

 半島を領有するユーレは、大陸と接続する辺境部に乾いた大地を抱えている。国境線はそのただ中に横たわるものだ。

 その荒野自体はそれほど広いものではなく、ところどころ小さな緑地や低木もあるのだが、かつてアドラ軍が展開していたころの残骸もちらほら見られ、荒涼とした雰囲気をたたえていた。先王イスタエフの治世では、アドラの軍事都市ナハティガルが音頭を取り、ユーレ沿岸の資源を狙った派兵がなされて、そこそこ規模の大きい戦闘も続いたという。その名残だ。

 当時のサプレマ、テルト・フェンサリルの協力もあり、ユーレは国境を後退させることなく死守した。そしてナハティガルの首班も代替わりした。

 今はアドラ軍も奥に退いてしまい、国境に迫って駐留まではしていない。しかし軍を離れ半ば賊化したものが跋扈ばっこし、またそのようなもののふりをした数人規模の偵察隊もうろついているから、お世辞にもあまり安全とはいえない地帯であることは、今でも変わらない。


 砂漠と呼んでも差しつかえはないそのエリアを海沿いのルートを選んで越えると、アドラ領内で最初に入る町がこのメーヴェだ。

 本来多神教であるサンフト教にありつつ火竜を唯一神と崇める、「正派」に対する「異端」――ドラクマ派を国教とするアドラで古い時代、弾圧を受け逃げ延びた正派サンフト教徒が、正派の総本山ユーレに寄り添うように作った小さな集落に端を発する。原則と例外の入れ替わったアドラでは、こここそが異端者の町だ。

 アドラ中心部からすればその位置は田舎も田舎である。そのうえ宗教の重み付けも薄れてきている昨今の同国で、異端の同胞という認識すらされているか怪しいその町には、今は弾圧の歴史を物語る暗い雰囲気はほとんどない。

 ただ青空と広い海が広がり、石葺きの坂と白い建物にコバルトブルーの建築装飾が映える美しい都市だと――

「……聞いてたんだけどな」と、フリッガはぼそぼそと呟いた。彼女のその知識は、国を出る前にゼーレが仕入れてきたものだ。



 フリッガとヴィダとは一見、ふたり(と一匹)旅だ。足元に黒い猫(もちろん、ただの猫ではない)をまとわりつかせたヴィダは旅装。フリッガはいつもの衣装ではあるが、それを隠すように丈の長いグレーのケープを羽織っている。敬虔な信徒の多いこの町で聖職者だと知られることは、現状、必ずしも都合のよいことばかりでもないからだ。教主ドラクマやその末裔と同じ紫の目となれば、なおのこと。

 フリッガの竜たちは、彼ら自身が望まない限り姿を現さない。それは彼らが主に同行していないという意味ではない。もともと実体を持たない彼らは契約が続いている間であっても、移動の労を厭うなどの理由があれば自由に主に身を寄せることができる。だから今もそうしているというだけだ。

 フリッガは水源地の留守居に浮虫うきむしを数匹置いてきた。竜の使い魔のようなものだ。 


 日はとうに天頂を過ぎてはいるものの、それでも抜けるような青空の下、町は静まり返っている。

 隠密性という意味なら人目がないのは好都合は好都合なのだが、メインストリートと思しきこの通りでこの静けさは気味が悪かった。さして人の多い町ではないのも知っているが、さすがにここまで人の気配がないのは不自然というほかない。

 とはいえ様子を見ていても仕方がない。突っ切るか、迂回するか。通りの奥を指差して、どうする、と左を向きかけたフリッガに、右の坂の上から突然大きな物音と罵声、それから許しを請う声が届いた。思わず音の出どころを探し、もう一度左を見る。

 ヴィダはその坂の上を指差した。行こう、ではない。行くの? という顔。フリッガは少し考え、頷いた。ヴィダは肩をすくめ、いそいそ坂を登っていくフリッガと、その後を小走りでついていくネコを追った。



 坂の上はひらけて見晴らしが良かった。

 向こう側には柵と、遠くの水平線が見えた。登りきってすぐの建物のそばには、つる性の花木をひさしのように仕立てた木陰と、海の方を向いたベンチが設えられている。その横は建物に沿って屋根だけのテントがいくつか並べて張られ、木製の台に所狭しとさまざまな品が置かれていた。

 四角く切り出した石を敷きつめた地べたに広げられた布やむしろの上にも品物が並べられている。簡易な市場といった風情だ。けれども今その広場の中央付近には、海辺の小さな町には似つかわしくない武装した男たちがいた。


 こちらに背を向けている。見たところ五人。がなりたてる彼らを、丸腰の男性が両膝をついて見上げていた。周りに野次馬はちらほらいるが、誰も動こうとしない。並んだテントの商店主も陳列台の奥から見守るだけだ。

 フリッガは物陰から、あれ何、と指差しながらヴィダを見上げた。その指を下ろさせながらヴィダはフリッガに耳打ちをした。少し腰を屈めることになる。

「ここで店を出したいなら連中に金を払えってことだよ」

「みかじめ料? ここは警備の人、いないの?」

 フリッガは周りを見回した。しかし坂の下から子どもと、それを追う老人が肩で息をしながら上ってくるのが見えただけで、それ以外にここに向かってきている者はいない。

 待っていれば来るだろうか。フリッガは返事を促したが、ヴィダの答えは否だった。

「連中の装備、確かアドラの正規軍のやつだよ。見た感じとっくに軍籍は離れてそうだけど、相手があれじゃあ警備はいても袖の下もらってるんじゃないかな……」

「じゃあ助けは来ない? あの人あのままなの?」

「たぶんそれがここの普通なんだろ。元気な自警団でもいりゃ別なんだろうけど」

 それがいる気配はない。今この場所にたどり着いたのは、老人を先導して走ってきた少年だけだった。


 見たところ十歳程度のその少年が勢いを落とさずに横を通り過ぎ、まっすぐ広場の真ん中まで走ろうとしていたので、ヴィダは思わず手を伸ばし、彼の襟首を後ろからつかんで引き寄せた。少年が、うわ、と声を上げた。

 背を向けていた男が振り返る。ヴィダは少年を両脇から抱え、それと向き合った。

 そのまま黙っていれば野次馬のひとりと見てもらえたかもしれないが、少年は心意気だけは立派に元気な自警団であった。彼は浮いた両脚をばたつかせ、ヴィダを振り切って尻もちで着地すると、そのまま振り返り大声を放った。

「おまえもあいつらの仲間かよ!」


 ネコが背毛せなげを逆立てた。その場の全員がしんとしてふたりのほうを見ている。

 これはさすがに慎重な対応を要する。しかしフリッガはあっさりと「違うよ」と答えながら少年に手を差し出し、勢いよく引き上げて立たせた。

「全然違う。一緒にしないで」

 フリッガは軍装の数人を横目で睨み、そちらに向き直ると羽織っていたケープを肩から滑らせた。持ってて、と少年に押し付ける。

 彼女は挑発に、大人気おとなげないほど耐性がないのだ。数度の経験を経てそれを(そしてその末路も)知っているヴィダは肩を落とした――さようなら、隠密性。フリッガに「見張り」が要ると言った彼の上司総司令、クラヴィト・キュルビスの指示は、案外的を射ていたのかもしれない。


 いつもより大股でずかずかと男たちに寄っていくフリッガを前にヴィダは、丸めたケープを抱きしめたまま呆気にとられている少年を下がらせてから野次馬整理に向かった。



 見るからにバランスの取れていない組み合わせであった。せいぜい「女性のうちでは小さくはない」という程度の体格でしかないフリッガと、いかついと言うだけでは控えめな男である。

 その男は目の前で立ち止まるやいなや、顔をずいと上げたフリッガに目をすがめた。降り注ぐ日差しは強く、男自身の影を濃くフリッガに落とす。だから男から彼女の目の色は、よくは見えないはずだ。

 侮りも明らかな顔で彼はフリッガを押しのけようとしたが、彼女はその手をつかんで制止した。体躯からはとても想像できない力でぎりぎりと締め上げる。男が驚きの混じった顔で見下ろしながら腕を振りほどこうとする後ろで、連れの数人が耳打ちをした。その視線の先には野次馬をできるだけ奥に下がらせていたヴィダがいる。

 彼は傷跡の残る右頬をぼりぼりと掻いた。彼が出る幕ではないとは思っていたが、このまま場外からの観覧を許してもらえそうな雰囲気でもない。もしかしたらあの連中とは以前会ったことがあるのだろうか。あり得る話だ、覚えてはいないけれども。


 フリッガは男の腕をつかんだまま、一度後ろを振り向いた。ヴィダが投げやりな顔で首を振る。今更なかったことになどならないだろう。

 フリッガは「見張り」のお墨付きを得た。彼女は男の腕を離し、突然自由になった男は勢い余ってよろめいた。囲まれていた男性が隙をついて立ち上がり、逃げた。そのとき彼の足元の小石が蹴り転がされ、筵の上に並べられていた缶に当たって音を立てた。


 左足を引いて姿勢を整えた男が、さっきまでつかまれていた腕をぶんと振る。片膝と手を地面についてそれを避け、フリッガは小さく息を吸って地を蹴った。するりと男の股の間を抜けて、あっという間に背後を取る。

 男は背に無骨な剣を負っている。そんなものを振り回されてはたまらない。男を膝裏から蹴り倒し、斜めがけされた鞘をベルトごと奪い去ると、フリッガはそれをヴィダに向かって投げ上げた。腕を伸ばしてベルトを捕まえた彼の後ろで鞘の先が弧を描き、波のように野次馬が後ずさった。後ろから、おお、と声が漏れる。

 幸運なことに飛び道具を持っている様子はない。ならば周囲の人間も、このまま散らさなくても自分で身を守れるだろう。


 ヴィダは受け取った剣をとりあえず肩にひっかけ、一応の名目である「護衛」の任務を果たすために踏み出した。

 ギャラリーとの距離は十分。さあ、こっちを見てもらわなければ困る。とくに武器を構え、フリッガの周りで間合いを窺っているさっきの三人。倒れた男から別の男に狙いを移したフリッガに斬りかかる前に、彼らにはこちらに釣られてもらわなければ。そのための餌が必要だ。

 ヴィダの手元には、この辺では相場すら形成されていない貴重品がある。しかもふたつだ。ユーレ軍と戦ったことがあるならば話くらいは聞いたことがあるはず。かの国の王が勲を認めた一部の軍人のみに貸与するという古代の文明の遺産である。ヴィダは太腿のホルスターに目をやった。そのすぐ下にネコがいる。金色の目が爛々と輝いていた。


 二振り下げられた内の一振りだけを抜いた。これを使うときには不思議と風が凪ぐのだ。そして光の刃が伸びて、それに喚ばれたように疾風はやてが走る。

 こういう伝説めいた演出があるのはヴィダが知る限りでは彼の得物だけだ。ネコがばちんと片目をつぶって見せた。

 潮の香りを含んだ重たい風のお陰で、狙った相手を引きつけるのは簡単だった。右手にその翡翠色の光を従えた剣を下げたヴィダは、左手を目の高さに上げた。三人のうち最も体格のいい手前の男をひたと見据え、まず三つ指を示す。それから二本指で招く。最後にゆっくり親指を立て、ぐいと手を返して地面を指した。


 手前の男が大声を上げながら向かってきた。その針路は最短距離をとる直線的なものだ。ヴィダは下を指していた手を解きながら肩にやり、先ほどかけたベルトをずらした。それを勢いづけて振れば、鞘は男の顔をきれいに捉えた。

 当たった衝撃で剣の柄が鞘から飛び出てくる。ベルトを手放し剣を抜いた。鞘は地面に落ちた。右手には慣れたもの。左手には借り物を構える。

 倒れた男の手から落ちたものは、その「借り物」の剣よりは短く、弯曲している。確かアドラでも軍では採用されていない、鉈に近い形の大ぶりのナイフだ。使い込まれた様子のそれを見て、やはり軍を離れて短くはない連中なのだな、とヴィダは思った。

 倒れた男の肩に足をかける。あとふたり。交互に視線だけで威圧しながら、足元の男の喉笛に左手で借り物の剣を突きつけたまま、ヴィダは右の男から片付けることにした。切っ先を示す。薄緑の光が弧を描くが、飛び出してきたのは左の男だった。


 ヴィダは足元の男にかけていた足をずらして落ちていたナイフを跳ね上げ、借り物の剣を滑らせて弾き飛ばした。仰向けのまま身じろいだ男の首にすらりと線が引かれる。刃物と刃物が当たる高い音がした。

 はじき飛ばされたナイフは左の男に当たって、落ちた。武器を提供したことになるがヴィダは気にも留めない。動きが止まりさえすれば十分だからだ。

 馴染みのない光に指し示されたままの右の男は、武器を握りしめて周りを見回している。この男は人質を取られれば狼狽える程度。

 そろそろ頃合いだ。足元で倒れている男。ナイフを拾おうと腰を屈めた男。フリッガが蹴り倒した、立ち上がりかけている男。その奥、フリッガの前でナイフを握り直した男。ヴィダは左手の剣を放り捨てながらフリッガを呼んだ。


 彼の手放した剣が石畳の上を滑っていった。フリッガが振り向くと、ヴィダは人差し指を左から右に滑らせた。

 彼の足元で伸びている男以外は全て、彼が今フリッガからほぼ同距離に並べた。ああそうか、とフリッガは呟いた。彼女は最初に蹴り倒した男が戻ってきた自分の剣に手を伸ばすのを確認し、一歩下がると乾いた音を立てて両手の平を合わせた。彼女の詠唱は至極簡単だ。呼んだのは雷竜だが、本当は詠唱など一言もいらない。


 地面に彼女を中心とした円が浮かぶ。瞬間、その真上から金属製の刃をめがけて稲妻が走った。

 四本。閃光に目を背け、男たちが倒れて沈黙するのを待ってから、ヴィダは伸びたままの足元の男を引き起こし、後ろの野次馬に引き渡した。



 さっき坂を上ってきていた老人が、今は広場の中心にいる。

 彼の足元には五人、男が捕縛されている。これから彼らがどうなるのか、フリッガには分からない。警備に引き渡しても意味はないかもと思ったが、その先のことは彼女が関与することではない。老人はテントの商店主らを呼び、二言三言の協議を済ませた。商店主は各々の役割を果たしに散っていく。


 満面の笑顔で走り寄ってきた少年からフリッガはケープを受け取り、羽織り直した。その様子を見ていた老人は彼女の足元から上に向かってその姿を眺め、最後にその目を見て、味わうように瞼を閉じた。

 この老人は目の前の人間がサプレマであることを知っている。この年になるまで、アドラの異端として正派を信仰してきただろう人だ。それを前にしたフリッガはなんとなく襟を正されたような気がして、今更身分を隠そうという気にはならなかった。

 老人は深々と頭を下げた。少年が老人の隣に並ぶ。老人は自分の辞儀が済むと、少年にも同じように頭を下げさせた。


 結局、捕縛された男たちは、押っ取り刀で駆けつけた警備の者が連行していった。

 彼らがどう通じているかは分からないが、このような引き渡し方をされればさすがにその場で解放するわけにはいかないだろう。そうして人間が片付いた後は石畳に散らばった品物の整理を始める。

 散乱した金属製のカトラリーや容器はまだ帯電していて、集まってきた子どもたちが手を近づけては、笑いながら火花放電を試していた。


 老人と話をしながら、その様子を眺める。片付けを終えた者からその場を去っていき、だんだん紫に染まっていく空の下では窓に明かりが灯り始めた。

 そのさまを眺めていると、先ほどの騒ぎは嘘のようだ。日常に戻るのがあまりに早い。こういうこともきっとこの町の「普通」なのだ――そう思うとフリッガは少し悲しくなった。


 彼女は気を取り直して翠嵐を呼んだ。

 彼は主たるフリッガが命を落とせば、間際に契約を切りでもしない限り自分もまた死んでしまうというのに、助太刀する気配を微塵も見せなかった。まったく心配していなかったということだ。

 いかにも面倒くさげに立っている彼の後ろにネコが回りこみ、もぞもぞしていたかと思うと少年の姿で出てくる。用を頼まれるなら人の姿の方がいい。ヴィダの得物に似た薄緑の髪と金色の目をした彼は、猫の姿を持った竜である。


「一応さ、念のため。頼んでいいかな」

 フリッガは顔の前で手を合わせながらふたりに頭を下げた。体裁上は主であるはずが、潰れる面目もないらしい。

 さっきの五人組があれで完結しているのかはわからない。仲間が様子を見にこないとも限らなかった。だから彼女はせめて自分が逗留している間くらいはこの町に平穏をもたらしたいと思った。騒がせてしまった罪滅ぼしでもある。

 意外なことにふたつ返事で翠嵐は了解し、場違いに楽しげに背伸びをしてから坂を下りていった。うーはその後ろを文句を垂れながらついていく。

 ふたりの姿が見えなくなると、フリッガは老人のほうを振り向いた。ヴィダと話を続けながら広場の片付く様子を眺めていた老人は、それに気がつき再び頭を下げた。


 老人は去りしな自分の家の位置を示し、ふたりを夕食に誘った。寝床も手配するという。とくにあてもなかったので、フリッガはその申し出をありがたく受けた。

 少年は老人の孫だといった。ふたりは準備をするからと、先にその場を離れた。


 今一度広場を見る。柵の向こうの水平線は、その境だけがわずかに明るい。普段山奥にいるフリッガには馴染みのない光景だった。

 もうすぐ空も海も、紫に溶ける。

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