5 出立

 言われたとおり台所で洗い物をして、しまう場所が分からないので食卓の上に器を重ね、それからフリッガは髪をまとめ直して表に出た。

 鍵を預かっていなかったのは玄関を出てから思い出した。仕方ないので彼女はきょろきょろとあたりを見、誰もいないのを確認してから、扉に手を当て小声で祝福を与えた。家人の留守の間もこの家が平穏であらんことを。



 四柱が昨晩何を話し、どう決めたのか、まったく気にならないわけでもなかった。だが彼女は無理にそれを探ろうとすることもしなかった。それは信頼を損ねることだ。そあらはそう言っていたから、しない。

 ただその集まりから彼女が外されたのはきっと、あの晩現れた男のせいなのだろうと思う。


 黒い鋼の鱗に覆われた長い尾を引きずる音。思い出すだけで気が滅入ってくる。

 あののことを彼らはプレトと呼んでいるのだそうだ。それだけは昨晩フリッガが、隣のテーブルの話題に聞き耳を立てていたときに突然頭に放り込まれた。おそらく四柱の中の誰かが、忘れまいと何度も頭の中で反芻したに違いない。そういうことをするのが誰かは目に見えている。ここについてきたがったネコだ。

 竜には自己を識別する名称としての名を自称するものも、新たな主を得るたび名付けを許すものもある。翠嵐にしろゼーレにしろ、「うー」と名乗るネコにしろ、そあら以外の竜は皆フリッガとの契約前から名を持っていた。

 それは過去彼らがほかの誰かからもらったものなのだろうし、その経緯をフリッガは聞かない。彼らの生きてきた時間は人の手には余るほど長大で、そこにはきっと数え切れない出会いと別れがあり、そしてそれを知られることを彼らは必ずしも望まないからだ。


 プレトと呼ばれているその竜にも、その名で識別されるようになった経緯があるのだとは思う。けれどもフリッガは、それも知りたくはなかった。

 あの男の顔は、ヴィダに似ているのだ。あまりにも、似ている。


 ふたりを並べて考えたくなかった。

 ヴィダのことはいいやつだと思う。あの黒い竜にフリッガが手を伸ばしたばかりに起きた惨事を乗り越えて、今は会えば話もしてくれるし、昨晩のようなときには頼まなくても面倒も見てくれる。

 不機嫌そうにしていたことも、彼が重傷を負って収容されていた病院での一度しか見たことがない——それも、彼が誰もいないと勘違いしてのことだった。それはそあらによれば、彼が己の機嫌の取り方を弁えているだけで、およそ愉快な生活ばかりしているわけではないはずだというのだが、そうであろうとなかろうと安心できる相手だとの認識は変わらない。 

 だからそれと同じ顔で、値踏みするような目でフリッガを見てきたあの男を、フリッガは思い出したくなかった。彼がそんな顔をするようになったらと想像すると、怖くてたまらなかった。


 あの男は十五年前のその日フリッガが契った、まごうことなき彼女の竜だ。彼女が認めたくないだけで、実際には存在する第五の竜。六歳の彼女は、三双の翼を持つ彼には間口が狭すぎた。なのに無責任にも彼女は、素朴な好奇心だけでそれを受け入れた。だからあんなことが起きた。

 それ以来彼が表に出てこないばかりに、そしてフリッガも彼を起こそうとしないばかりに、その契約は破棄もされず連綿と続いている。そんなことは分かっている。分かっているが、蓋をしておきたかった。表に出てこないのならば、いないのと同じだ。そのまま眠っていてくれればよかったのに、どうして。



 木立の下で浴びる朝の光にばかり慣れていたから、街に降り注ぐそれは強く眩しくて、フリッガは思わず手をかざした。

 階段を下りて川沿いに歩いていると、星室庁はほどなくして見えてきた。思った以上に近かった。


 王宮のゲートを越した直後にあるそれは、国防をはじめとするユーレの警備や軍務を全て掌握する機関だ。鈍角に角ばったその建物を先に眺めながら川の上を抜ける湿った風と並んで歩を進めると、桟橋で荷物の積み下ろしをしている夫婦が見えた。

 十五年前ヴィダの眼前で突然命を奪われた彼の両親も、この辺りでそんな仕事をしていたはずだ。彼女は彼らを正視してはならない気がして足元に目を移した。踏み固められた砂敷きの道。昨日は少し前を、ヴィダが歩いていた。


 ゲートの警備をしていた士官にひとこと挨拶をする。フリッガは今日は呼ばれていないので、本来は何か書くべき書類があるはずだったが、その日の当番はたまたま彼女の顔を覚えてくれていて、彼女は何の手続もせずに中に入ることができた。

 ちょうど星室庁から出て来たヴィダが目に留まる。彼はすぐにこちらに気付いたので、フリッガはいつもの歩調で近寄りながら尋ねた。

「もう挨拶済んだ?」

「いや、あんまりしてない」

「なんで?」

「秘密だから」

 そうなんだ、と呟きながらフリッガは王宮正面玄関の大階段に向かった。



 女王に返事をする必要があるのはひとりだけのはずだった。ヴィダは女王から命を受けたわけではないからだ。しかし外で待とうとした彼を女王は敢えて中に入れた。

 今日はふたりを揃えて話をするつもりらしい。やはり彼女の私室でだ。昨日は所用でヴィダに話をすることができなかったというが、それを一緒にしてしまうのだろうか。


 頂上にガラスの温室を王冠の如く頂く塔の中腹に、女王の私室はある。

 歪みのない大きなガラス窓を背に立つ女王デュートは、色の薄い髪と肌をした華奢な女性である。その髪と緑がかった金の目は父王譲りだという。フリッガもヴィダも十年前に没した先王を目にしたことはないので本当かは分からなかったが、皆がそう言うならそうなのだろう。王族の証だ。

 軽い会釈だけのフリッガとは対照的に片膝をついて頭を下げるヴィダに、女王は目を細め「顔を上げて」と言った。フリッガからは、彼が立ち上がるのは少し間を置いてからに見えた。国王とナイトという間柄ではそれが普通なのかもしれないが、フリッガには何が普通なのかを判断するための材料がない。

 まあ、そういうものなのだろうな、と思う。


「返事は承諾と伺ってよろしいですか」

 女王はフリッガの方を向き、尋ねる。それにフリッガは頷いた。女王デュートは長い睫毛を伏せ、わずかに頭を下げた。

「筋違いの頼みとはわかっていますが、よろしくお願いします」

「いえ、今更ですし……」

 続けるべき言葉を選び損ねて口ごもったフリッガに、デュートは控えめな笑みを返した。国境に呼ばれたサプレマが何をしているかくらい彼女も知っている。


 デュートは窓のほうに向き直り、ふたりに背を向けた。市街がよく見える。

 王宮に向かい、その脇をかすめて海に流れ込んでいく水の流れは今日も澄んで穏やかだ。その上の空はよく晴れ、遠くに薄い織物のような透けた雲が流れていた。

 ガラスにはデュートの顔が映っている。それを背後のふたりに見られないように、女王は一歩歩み出て窓との距離を詰めてから口を開いた。

「すぐ決めていただいて助かりました。昨日ああ言った手前心苦しくはあるのですが、できるだけ早く進めて欲しいのです。追加の情報がありました。アドラの各市庁舎で高度秘匿通信が頻繁に行き来するようになっているそうです。内容は分かりませんが、本格派兵に向けた調整を行っている可能性があります」

 先日も小規模な戦闘が国境で起きたことを告げ、デュートは続けた。

あなたがたに指示するのは、行き先だけです」

 背をむけたままのデュートの後ろでフリッガは怪訝な顔をしている。行き先「だけ」とはどういうことだろうか。大事なのはその先で何をするかということではなかったか?

 女王の言葉には含みがある。今朝聞いた話、ヴィダがフリッガの「見張り」として同行するという話と何か関係があるのだろうか。

 フリッガはヴィダに目配せをしたが、左に立っていた彼との距離は近くて、フリッガからはその表情は見えなかった。彼女はそれで、ただ「分かりました」とだけ答えた。


 了承の返事を確認し、デュートはふたりに向き直った。では、と呟きながら視線をフリッガから隣に移す。

 昨日呼ばれていたその用だろうかと、フリッガも隣を見た。今度は顔を上げることも憚られなかったので、表情がちゃんと見える。

 右頬に十五年前からの傷が残ったままの彼の横顔は、その内心を何も物語らなかった。穏やかでも不穏でもないその顔を見ていると不安になり、フリッガは思わず目を前に戻した。けれども女王はなんの淀みもなく先を続けた。

シュッツ守護の名が、あなた方ふたりとこの国に安寧をもたらしますよう。サプレマを無事にお連れして。ナイト・コンベルサティオ卿」

 ヴィダは頷いただけだった。



 事務仕事の片付けがあるからと星室庁に消えたヴィダと別れ、フリッガはゲートを出ると、横を海に向かって流れていく運河を眺めた。

 十五年前、このすぐそばでのことだ。両手を見る。グローブに覆われて手のひらは見えない。フリッガは後ろを振り返った。誰もいない。瞬きをする。


 ヴィダはあんなあっけらかんとした態度のくせに、案外考えていることは分かりにくい男だ。

 普段の付き合いがああなので、嘘はついていないのだろうと思う。いや、思いたかった。けれども不意に彼が無表情になるたびフリッガは不安にかられた。きっと自分は彼の本音など何ひとつ分かっていないのだ。 

 列騎されたその日から、彼は単なる職業軍人という立場を超え、各々が国を守る砦たることを国王に誓い、その命を負ったまま死んでゆくことを運命付けられた。彼女のように、立ち向かい乗り越えるべき困難に目を背けることは、彼には許されていない。


 そういう強さを求められ、またそれに応えられると踏まれたからこそナイトに任ぜられた彼が何を考えているかなど、フリッガには分かるはずもないのだ。ただでさえ人間との交流の少ない彼女だ。その表情から読み取れるものが真実か演技か、はたまた期待から来る幻想か。見抜く力のない彼女には分からなかった。

 彼の言葉はナイトとしてのものか、多数の部下を抱える軍人としてのものか、それともそんな立場を離れた個人としてのものか。彼女には区別がつかなかった。

 それでもフリッガは、今朝出掛けに彼が彼女に見せた笑顔がただ本心からのものであればいいと、そう思った。足元を、蟻が横切っていった。

 

 数日の後、国王の特命を帯びたサプレマとその護衛は、グライトをひっそりと離れた。

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