4 赤と黒

 とっぷり日の暮れた山奥の水源地付近では四柱の竜が額を集めている。


 主と竜とは、相手が五感で直接認識したものをそのまま知ることはできなくても、思考はある程度トレースすることができる。竜は紫の目を持つ人間の思考作用に寄生して、形も時間もない彼らの世界と主の住まうこの世界とを繋いでいるから、主の思考作用は彼らのそれとリンクし時にシンクロする、ということらしい。

 その主たる資格を生まれ持ち、それを当然として生きてきたフリッガにとって、そのリンクは当たり前のことである。自分の考えていることも、相手の考えていることも、往々にして筒抜けで、だからこそ誤解は原則、生じない。

 ただ、そんなふうに相手の考えが分かるというのは一般的には異常なことなのだ――そあらはフリッガに何度も言い聞かせた。だから、相手の本当の思いを受け取ることは決して簡単なことではないし、知られたくなくて隠していることを暴くことは信頼を損ねると。

 それでフリッガはその日、帰ってくるなとの言葉のとおり、彼らの考えを覗くこともやめた。



 大股ではありながらもひょいひょいと軽い足取りで木製の橋を渡っていくヴィダの後ろをついていきながら、彼女はその先の、少し黄色がかった明かりが並ぶ路地を眺めた。運河沿いの開けたところより人通りが多く見える。道が狭いからというのもあるのだろうが、たぶん実際に人も多いのだ。

 まったく物怖じすることもなくその中に踏み入っていくヴィダの背は、男性のなかでもそれなりに高いほうだし、格好もさっき王宮を訪ねたときの軍装のままだ。だからフリッガは慣れない人混みに翻弄されかかりながらも彼を見失わずに済んだ。

 

 少し奥まったところにある扉の前でヴィダが待っている。小走りで追いついたフリッガの足元を彼が見るので、フリッガは何、と尋ねた。

「あ? いや歩きにくい靴履いてたかなって。踵が高いやつとか。そしたら悪かったなって思って」

「いつものだよ。人が多くて進めなかっただけ。ありがと」

 ヴィダはふうんと呟きながら扉を引いた。中から、外より重たい空気が扉に引っ張られるようにぬるりと流れ出てきた。フリッガは一瞬身構えたが、ヴィダはまったく気にすることなく足を踏み入れた。

 フリッガに馴染みがないだけで、それはただの熱気と酒臭である。


 間口の狭さは店内でもそのままで、客や給仕でがやがや混み合う通路の奥はどこまであるのかよく分からなかった。換気はどうにかしているのだろうが、窓は見える範囲にはない。フリッガが所望した「狭くて暗い、穴蔵みたいなやつ」に明かりを灯してみた、といった風情の店である。

 その明かりは赤に近い黄色で、周りの誰もの衣を同じような色に染め、一般に着ている人はほとんどいないフリッガの赤い衣装を目立たなくさせてくれた。

 さっきここに来るまでも、何人もの人が振り返った。そういう視線を向けられることをフリッガはあまり好んでいなかったので、ヴィダを追って店内を奥まで進んでいく中でも誰もこちらを振り向かないことに彼女は少し、浮き立つような気持ちになった。

 ただ、客の中には、フリッガではなく先導者のほうを目で追っていたものはいる。ヴィダの軍装は役職を表すラインの刻まれたものだから、ある程度知識があれば顔を知らずとも、彼の立場など簡単に推測ができるのだ。そして彼はそれを意に介するふうもない。気がついていないとは思えないのに、だ。


 空きテーブルを見つけて席に着くと、フリッガは向かいで裾を捌いてから椅子を引いたヴィダに、少し身を乗り出して耳打ちをした。

「お前さ。その格好でこういうところ来るの、普通なの?」

 賑やかな店内で、その声はかなり聞き取りづらい。案の定聞き取れなかった彼は少し首を傾げ、寄ってきた給仕から渡されたメニューをほとんど見ずにフリッガに渡しながら、なんて? と聞き返した。

「その格好で、よく来るの? って」

「別に珍しくないよ。とりあえず先に決めて」

 彼はフリッガが両手で持ったままのメニューを指差した。ああそうか、と呟いてフリッガは手元に目を落とした。空気が淀んでいるからか、下を向くと少し頭が重くなる気がした。

 そこに書かれている聞いたことのない名前のものを読み上げると、それはどういうものだと解説が即座に飛んでくる。フリッガが今読み上げた三つはいずれも、ある種の蒸留酒に果汁や何やを混ぜて作るものらしい。へえ詳しいね、などと気の抜けた声で感心しているフリッガにヴィダは、飲むの? と尋ねた。

「お酒? 飲んだことない」

「本当に? 一回も?」

 そう聞きながらヴィダは通路のほうに向かって手を上げた。

 ないよ、と答えたフリッガの隣の空きテーブルに客が案内された。見上げるとそれはヴィダとほぼ同じ装備の三人組で、ヴィダがさっき手をあげたのは給仕を呼ぶためではなく、彼らにテーブルの空きを教えるためらしかった。

 フリッガは彼らに会釈をし、彼らからは少しかしこまった挨拶が返ってくる。それとは対照的にくだけた言葉で彼らと話すヴィダをフリッガはぼんやり眺めていたが、それに気がついたヴィダは眉間に皺を寄せて彼女の手元を指差した。

「見とれるのは後にして。隣にそれ回すから」

「え? あ、ごめん、ちょっと待って」


 見とれて、というのにはひっかかったが、フリッガは慌ててメニューをひっくり返し、裏側に書かれていたいくつもの料理を上から順に見ていった。そうしているうちに早くも隣のテーブルは注文を始めている。メニューを見なくても注文できる、とりあえずなんとやらというやつである。あっという間に酒盛りが始まった。

 メニューの中から知っているものを見つけて注文を終え、先に運ばれてきたグラスを真正面に置いて、フリッガはその中身を覗き込み、それから前を見た。

 知らないものに手を出さない彼女の目の前に置かれたのは水だ。対してヴィダの手元には琥珀のような色をした、フリッガよりは一回り小さいグラスが置かれている。氷も入ったそのグラスの縁を上からかぶせるように持って、口をつけたヴィダは下を向き、えも言われぬ笑顔を見せた。フリッガはそれをなんとなく、少年のようだ、と思った。

 グラスを持つ手は大人の男のそれだ。フリッガの手より一回りは大きく、痩せているわけではないのに骨と筋と血管が目立つ手。だけれどもそんな顔で彼が友だちと笑っているのを十五年以上前に見た気がする。少し遠くから。


「ほんとに全然飲んだことないの?」

 半ば夢心地でそんなことを考えていたフリッガに、ヴィダはさっきの続きを問うた。フリッガは一瞬戸惑ってから答えた。

「ないよ。うち、飲む人いないし」

「意外だなあ」

 隣のテーブルは食事が運ばれてくるのを待たず、すでに二杯目に突入している。



 水のグラスを両手で持って、フリッガは隣にちらと目をやった。給仕の行き来があるので聞こえる話は途切れがちだが、軍装の三人組は国境警備の任務中に判明した仲間のプライベートなトラブルの話で盛り上がっていて、こちらの話を聞いている様子はない。それを確認し、フリッガは言葉を選びながら口を開いた。

「陛下、わざわざ来てくれたのにごめんねって」

「陛下が? わざわざ来てくれたのにごめんねって?」

「いや、本当は、ご足労願ったのにごめんなさいねって言ってた」

 ああそう、とヴィダは答えながらフォークでタマネギを避けた。

 さっき給仕がふたりの前にそれぞれ置いていった小ぶりの器の中には、薄切りにされた茹で蛸とタマネギ、それからトマトがマリネされたもの。彼は蛸を選んで二枚重ねでフォークを刺し、それを口に運んでからしばらく沈黙した。じっとフリッガを見たまま、噛むことに集中している。そうして見られている間フリッガは目を逸らすのも気がひけて、自分の分が目の前にあるにも拘らず、それにはほとんど手をつけられなかった。

 ようやく蛸を飲み込んで、ヴィダは口を開いた。

「俺はねえ。今日の話には反対なんだよなあ」

「え? 聞いたの?」

「関連事項だから連んで来いって言われた、つったでしょ」

「そういえばそっか」

 隣のテーブルを見る。相変わらずこちらに気を向けている様子はない。話題はさっきのままだ。彼らの同僚はどうやら既婚者に、そうとは知らずに結婚を申し込んだらしい。


「反対ってなんで?」

「だって本来お前が出る幕じゃないじゃん」

「でもさ、適任だって考えたから頼むんだって言ってた」

「その間留守にするわけでしょ」

 フリッガは眉を顰めた。

 彼が言っている「留守」は、単に水源地の管理のことや聖職者としての職務のことだけを言っているわけではない。それに関しては対応のしようもあるし、代役も立てられる。

 フリッガが事実上行っている仕事の中で替えの効かないのは、国境への派遣だ。彼女はそこに弔いに行っているのではない。

 彼女がそこでしていることは、竜と契っている者だからこそ使える「神の御業」をもって弔いの対象を増やす行為だ。彼女が喚べば、国境の荒地には砂嵐と雷とが人の超えられぬ線を引く。


 技術力も規模も隣国に大きく引けを取るユーレで、彼女のその力は少なからず頼みとされている。現在国境を窺っている連中はまだ隣国アドラの正規軍として動いているわけではないが、ひとたびユーレの防衛が緩んだならば、アドラがどう動くかは分からなかった。

 もっとも、彼女自身は好んでそういう行為を行わない。それは宗教者としての矜持というよりもっと素朴な「人を傷つけたくない」という理由からだ。だから、留守の間そういった行為に手を染めなくていいのであれば――そんな単純な理由から、彼女は実のところ、その話には割に乗り気だった。しかしヴィダは反対だという。彼女が留守になるべきではないというのだろう。


 軍人である彼には、職務だからといって敵対者を実力排除することをよしとする彼には、たぶんこの気持ちが分からないのだ。フリッガはそう思って少しがっかりし、そして、内心かなり腹を立てた。

「それ、ちょうだい」

 フリッガはむくれた顔で、ヴィダの手元のグラスを指差した。

 彼のペースは隣に比べれば相当にのんびりで、まだ二杯目だ。一口目で少年のように嬉しそうな顔をした彼を思い出すととにかく癇に障って、フリッガは半ば奪い取るようにグラスを受け取ると、半分くらいは残っていたその中身をほとんど一気に飲み干した。

 氷だけ残ったグラスをふたりのちょうど真ん中にどんと置き、あのさあ、と彼女は切り出したが、続きまで言うことはできなかった。彼女は急に下を向くと、頭が痛いと呟いてテーブルに突っ伏してしまったのである。



 二本の運河の合流地にある王宮を囲むユーレの首都グライトは、坂と曲がり道の連続で半ば迷路になりかけている。運河の水面とフラットな層にあるのはほとんどが商店で、その他の住宅は坂や階段を上がらねばならない。

 広くはない土地に建造物を集中させた結果、都市自体がひとつの集合住宅のようになっている。乾いた荒野を思わせる黄色をしたレンガ積みの曲がり角に、真直ぐな朝の光が差し込んだ。そこを曲がって、階段を上がったところ。


 慣れない強い光に閉じた瞼の裏が赤く見えた。いつもは木々の間を抜けてきた柔らかな朝日しか目にしないだけに、その光は強くて痛いくらいだ。

 フリッガは横になったまま腕を伸ばし、思い切り背伸びしてからやっと目を開いて、ひやりと冷たい床に足をつけた。

 昨日一度目が覚めたときは暗くてよく見えなかった部屋を一周、眺め回してみる。特に変わったところはない部屋だ。ただ書類の山が床の真ん中で豪快に崩れ散らばっているさまは、そあらなら許さないだろう。人影はなかった。

 することもなく紙を拾い集めてまとめていると家主が戻ってきた。手で押さえたタオルの間に見える黒い髪から水滴が落ちる。それを無言で見上げていると、家主は眉を寄せながら催促するように顎をしゃくった。

「俺になんか言うことないの」

「ええと、あの……ごめん」

「違うよ。おはよ」

 ああそうか、と呟いてフリッガも挨拶を返した。


 手慣れた様子の朝食の準備を後ろで見ながら、フリッガはヴィダが話すのを聞いた。真正面で向かい合って話すよりも、すんなり腹に落ちる気がした。

「あの話さあ。なんか変なんだよ。確かにお前が適任だっていう理屈は立たないわけじゃないと思うんだけど」

「留守にするの、やっぱり反対?」

「ああいや。国境はつと思う、っていうかなんとかするだろ軍が。余裕とはいかなかろうけど、それができなかったらプロの名折れでしょ」

 フリッガは瞬きをした。ヴィダは彼女にその仕事を期待していたわけではなかったのだ。改めて理由を問う声が心なしか上ずってしまった気がして、フリッガは椅子の上で少し居住まいを正して返事を待った。

「俺も呼ばれたでしょ昨日。星室庁にさ。お前についていけって言われたんだよ」

「え? なんで?」

「お前の見張り。名目上は護衛」

 ざく、と音がする。ヴィダの手元。葉物野菜を重ねて切る音だ。


 フリッガが女王と謁見している間、ヴィダには軍本部からその任が下されていた。サインはユーレ軍総司令、クラヴィト・キュルビスによる。その一声でユーレから一時的であれ師団長ゾディアックがひとり、欠ける。

 そして単なる軍人としての下命であればそれで済むはずなのに、彼にはその後、女王への拝謁も予定されていた。それは結局女王の所用で延期となったのだが、軍から新たな下命はなされていない。だから女王の彼への用は急ぎではないか、もしくは軍を通して伝えることは適切でない内容ということになる。

 つまりそれは女王が、軍人としてではなくナイトとしての彼、「ヴィダ=シュッツ・コンベルサティオ卿」としての彼にこそ伝えるべき内容だ。


 女王がそこで何を伝えようとしていたのかは分からない。しかしフリッガに、わざわざ必要もない自分への詫びをことづけるのだから、きっと女王はフリッガのことを悪く思っているわけではないのだろうとヴィダは思った。

 だとすれば女王がわざわざ自分に伝えようとしていた内容も自ずと知れる。賢い女性だ、あの人は。ただでさえ不公正な列騎だとそしられたこともあるのに、それでもなお「急ぎではない用」を表に出すような、愚かな人ではない。


 彼個人はといえば実のところ、同道することに異存はない。

 再会から三年、フリッガに会うことは年に両手で数えるほどもなかったけれど、そのたび解きほぐれていく彼女の態度を見ているのはまあまあ楽しかった——たぶん、達成感のようなもので。

 ただ、立場ある人間としての冷静な判断となると話は別だ。自分を追い払いたい人間がいるのかもしれない、と思った。敵側も含めた死傷者を最小限に収めようとし、だからこそ「分かりやすい」勝利にこだわらないヴィダの指揮を、あるいはその考え方そのものを、軍の一部が――具体的にはキュルビスやその一派が、好いていないことは知っている。

 キュルビスは栄誉へのこだわりは人一倍強いのにナイトの叙位を受けることはできない。武官ではないからだ。彼のいる総司令というポストには、建国後いつからか、軍の暴走を抑えるという目的で文官が配されるようになっている。彼もそうだ。


 ヴィダはこの国で初めて二十代前半の若さで列騎された。彼自身はそれを身の丈に合わない評価だと考えてはいるが、それはそれ、キュルビスには嫌われている自覚がある。しかしそんな私情で動く男でもないはずだ。

 ヴィダは自分の上官たるその男に、軍事とは関わりのないところで財をなした一族の長子たるその男に、そして国民の信を得て文官としての地位を獲得したその男に、その程度の信用は置いていた。だからきっとこの采配は、彼ひとりが強権的に行ったものではない。なによりサプレマを派遣することは、議会の多数の賛成を得たというではないか。

 あまりに、あまりにも、判断材料が少なすぎた。だから彼も、腹を決めた。



 フリッガからヴィダの顔は見えない。しかしヴィダからはフリッガの顔は手に取るように分かった。彼女はきっと不機嫌な顔をしている。そして声を聞く限り、その予想は正解だった。

「見張りって何? そんなの俺に言っていいの?」

「よくないから、ばらさないでね」

「分かったけど、なんで?」

「お偉方の考えることはぺーぺーの俺には分かんないよ」

 振り向いてヴィダはテーブルの上に器を置いた。フリッガは天板に両手を置いたまま、彼が向かいに座るのを顔ごと目で追い、尋ね重ねた。

「俺なんか疑われるようなことしたかな。揉めたくないから言うこと聞いてきたつもりだったのに」

「国境に呼ばれたときに報告さぼってたからじゃないの。俺は知らんふりして代わりに報告書書いてやってたけど、他のやつが担当のときはたぶんそんなことしてないぞ」

「報告なんかしないといけなかったの? 今知った」


 まじかよと呟いたヴィダは、先を続けようとするフリッガを遮るように、その目の前でぱんと音を響かせ、両手を合わせた。

「海と空と風と大地に感謝。はい食べる、そして俺は出勤。アナタは陛下にお返事なさい」

「行くって返事してもいいの?」

「いいよ」

 呆気にとられた顔のフリッガの前でヴィダは朝食をあっという間に掻き込むと、片付けを彼女に任せ、身支度を整えて家を出ていってしまったのだった。

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