2 夢と闇のあいだ

 十五年前にフリッガが追いやられた山深い住まいには、この時間では木々の隙間を抜けた窓越しの寒々しい月の光と、木立と遊んだ風だけが届く。

 気候としては温暖というより暑いと言った方が適切なこの国も、日が落ちれば風は冷たい。空気が乾いているからだ。


 なんとなく寝付けなくて、フリッガは布団の中でしきりに寝返りを打った。中途半端にまどろんでしまうのが嫌いだった。そんなときに見る夢が怖かったからだ。

 運河沿いの開けたところで、しゃがみ込んで蟻の行列を見ている自分。頭上を照らしていた日が不意にかげり、なんだろうと思って空を見上げる。でも、何もない。よく見ようと思って上を向いたまま立ち上がる。そして後ろにいたはずの父を呼ぼうと振り返る。

 生成りの布を張り出した軒先で、店主が商品に向かって屈んでいる。じっと動かない。その近くにいる女性は、店主の目線の先を指差したままやはり動かない。変だな、と感じる。

 父の姿を探すが見つからない。周りの人間は立ち止まったものばかり。瞬きすらせず、踏み出した足もそのままだ。水面の波も、船から伸びる繋留索も、動かなかった。

 急に不安が湧き上がり、大声で父を呼ぼうと息を吸う。そのとき初めて、目の前にいたに気がつく。


 黒い金属のような鱗と、赤い膜の張った大きな三双の翼。ゆっくりと羽搏はばたきながら、自分を見ている。その翼は風を起こさないし、揺れる長い尾から鱗の擦れ合う音もしない。地を捉えていない足元には影すら落ちていない。悠然と自分を見下ろしている。大人の背丈も軽く超える大きさだ。

 なのに、怖いと思わなかった。

 怖いと思わなかったから。

 ああ、本当に嫌な夢だ。今日もそう思いながら、眠りに落ちた。



 明くる朝はすっきり晴れて、光が眩しかった。起き抜けの頭を掻いたフリッガは、太腿まである長い髪を慣れた手つきでひとつにまとめながら出てきた。

 彼女の部屋よりひと回り以上、この建物の中でも一番広いこの部屋には、四方に椅子を従えた食卓が置かれている。古めかしいが木製の堅牢な、装飾もないものだ。開いたまま伏せられた本がその上に二冊。しかしフリッガはあまり読書はしない。そしてここに住んでいるのは彼女だけだ。ただし「人間」は、である。

 あとの住人は全て、彼女と契っている竜だ。青い髪と目の女性も。映像だけの少女も。椅子の上で丸まっている黒猫も。それからその向かいで「あれ。マスター今日は早いじゃん」と能天気な口をきいた赤髪の男もだ。


 彼は食卓に足を投げ出して、それとは別の本を読んでいた。紙をめくるたび揺れる前髪はそこだけなぜか金色をしている。彼曰く地毛だそうで、フリッガも特に追及はしなかったが、生来定められた人としての外見などありはしない彼に地毛という表現は本当はそぐわない。

 とにかくその時フリッガは彼の言葉には応えず、辺りを見回しながら口を開いた。彼の方も無視はされ慣れたもので嫌そうな顔も見せなかった。

 見た目は二十代半ばで、まあ背の高い方という程度だ。鮮やかな緑の瞳を持っている。彼はフリッガと縁を結ぶ前から、すでに翠嵐すいらんという呼称を、自分を特定するものとして使っていた。


 フリッガは黒猫をひと撫でし、その隣の椅子を引きながら翠嵐に聞いた。

「次ヴィダ来るのいつ?」

「知らねえよ。なんか用でもあんの」

「いや、別に。なんとなく」

 あの夢を見た後は決まって不安になって、そうして彼に会いたくなるのだ。無事を確認できればよくて、特に話をしたいわけでもないのだけれど——そう思う理由を彼女は考えたくなかったから、この夢の話は誰にもしたこともなかった。

「そういやお手入れしばらく来てねえな」

 本を閉じた翠嵐は、フリッガが席に着くのを待って頬杖をついた。


 翠嵐の言う「お手入れ」は、ヴィダが王室から貸与を受けている彼の得物ウルティマ=ラティオのメンテナンスのことだ。

 似たような仕組みのものはサプレマも代々引き継いでいる。とはいえ翠嵐がその手入れを行っているのは特に依頼されているわけではない。この国の、どの人間よりも何倍も長く生きている彼の、ただの趣味である。

 そうなんだ、と肩を落としたフリッガに、翠嵐は呆れ顔で言った。

「会いたいなら行くか呼ぶかすれば?」

「そこまでするほどのことでもないよ」

「用もないのに会いたいって時点で俺としては結構なもんだと思うよ」

 フリッガは眉間に皺を寄せた。


 隣の炊事場から女性が手を拭きながら現れた。「からかうのはよしなさいな」と翠嵐の背中を小突いた女性は濃い青の髪と目をしているが、もともとは魚のヒレを備えた大きな蛇のような姿の竜である。

 彼女が今名乗っている名前は、彼女によればフリッガが小さい頃に選んだのだという。ただフリッガ自身は彼女に「そあら」と名付けたのが自分なのかも、そしてその理由も、もうよく覚えていない。彼女はもともとフリッガの父が存命であったときに、娘に引き継いだ竜だ。

「からかってないって」

 そあらは翠嵐をそれ以上相手にせず、フリッガに何かありましたかと尋ねた。でも、フリッガは彼女にもその夢の話をしたことはなかったし、これからもするつもりはない。


「別に何もない。なんか顔見たくなっただけ」

「よく分かりませんが、心配なさらずとも。何かあればすぐに知れ渡る方です」

「うん、そうなんだけど。そう……」

 フリッガの言葉はだんだんとしおれていく。

 彼女のもやもやした気分はそあらにも理解できた。なんせ竜と主とは、竜が主の精神を足がかりに現界するという手段で存在しているために常に繋がり、お互いの頭の中も簡単に覗けるからだ——特に抵抗されない限り。

 ただ、フリッガはいつもこれ以上を考えない。分析するのを嫌がる。だからそあらに分かるのも単にフリッガが「なんとなく顔を見たい」と思っている、その理由は元気なのを確認したいから、その程度でしかなかった。でも元気なのはほぼ確実なのだ。なら一体何なのだろう。


 解決するつもりもないのにグズグズしている主を見、そあらは大きなため息をついた。それから彼女は部屋の隅に向かってゼーレ、と呼びかけた。床に置かれたプロジェクターが光を放ち、褐色の肌の少女が現れた。

 少女の足元にあるその道具も、少女が身にまとっている山吹色のジャケットも、この国の文明水準や一般風俗とはかけ離れている。そあら、翠嵐に続いて彼女が三柱目の竜であり、四柱目はそこにいる猫だ。彼にも人の姿がある。光の加減によっては湖の色にも空の色にも見える、彼自身は翡翠色と呼ぶ色の髪と金の目を持った十歳前後の少年で、言動も見た目通りのものだが、決して生まれてから短いわけではない。

 それが今、サプレマとしてのフリッガが把握している彼女の竜の全て。もっとも「サプレマ」の竜だなどということを意識して襟を正すようなことは、彼らはしない。彼らとの契約で得たものに何かしら期待をされているのは人間たるフリッガだけで、彼ら自身は契約関係もない人間には、何も応える義務はないからだ。

 彼らはしたいことを、したいようにする。だからそあらもそうした。

「じゃあ私はヴィダに連絡をとればいいの?」

 そあらの耳打ちを受けたゼーレは窓の外を指差した。彼女は慌てて止めに入るフリッガのことは気にも留めなかった。むしろ楽しんでいるかのようだ。


 ゼーレはもとはといえば、今は海底遺跡くらいにしかその気配を感じることのできない、古く高度な文明の中で生まれた竜である。

 人間が作り出した知能であった彼女はもともと一切の体を持たず、契約を交わして現界した後も実体を得ないので、ものに触れることはできない。その代わり彼女には物理的な移動の負担はない。

 彼女は水面や鏡を利用して姿を見せ、それを目にした者と意思疎通を図ることができるのだが、今真下にあるプロジェクターはそういったものよりもずっと鮮明な映像を結ぶので、彼女はこれをお気に入りにして翠嵐にメンテナンスを頼んでいる。これもまた、ウルティマ=ラティオをはじめとする古代の進んだ機器と同様、沿海の海底遺跡から掘り出されたものだ。

 ゼーレは上機嫌にプロジェクターの上で一回りした。彼女の行動は早かった。

「ちょっと待って。すぐ繋ぐね」



 今のところ独身のヴィダは、三年前に士官養成所シューレの寮を出た後はずっと、もともと彼の自宅のあった市内の中心部に住んでいる。そのため彼とフリッガの住まいとの間はあまり気楽に行き来のできる距離ではないのだが、ゼーレにとってそれはなんの障害にもならない。

 とにかく像を結べるものがあればいいので、彼女はやすやすとヴィダの自宅を覗き、彼がいるのを確認するとひとまず「おーい」と声をかけた。

 もっとも、ヴィダからしてもそんな事情は知ったことではないのである。これから出勤しようかというところだった彼は呼び声に気づいて首をひねった。

 窓の外を覗き込んでも人の姿はなく、向かいの家の壁が見えるだけだ。窓の下に子どもが潜んでいる様子もない。しかしそうして窓に背を向けたとき、窓から入った光が突然意味を持つ姿に変わるのも初めてではない。これを最初にやられたときは今よりずっとタイミングが——詳しくは述べないが——悪かったので、彼は今更驚きもしなかった。変わった人間と知り合ってしまったがゆえの、異常ではあるが想定内のことである。


 その犯人であるゼーレは今回も、初めての時と同じく明るい口調で(そのために本当に反省しているとは思えない様子で)謝り、そあらを呼んだ。

 相変わらず冷たいほどにさらりとした、そあらの声だけが聞こえる。ヴィダはひょいと頭を下げた。

「朝からどうもご苦労さんです。なんか用あった?」

「いいえ。顔を見たかっただけです」

「何それ」

「誤解なきよう。私が言っているのではありませんよ」


 はあ? と呆れた返事をしたヴィダにも表情を崩さなかったそあらの後ろで、翠嵐が額に手を当て肩を震わせて笑っている。

 ゼーレを介して行われるのは双方の音声交換だけだ。蚊帳の外のフリッガは何がなんだかという顔で、部屋の隅まで引いた椅子の上で膝を抱えて成り行きを見守っていた。

 そあらは「ではこれで」と話を切り上げてしまおうとしたが、それにヴィダは急に思い出したように、待って待ってと制止した。

「お宅のお嬢さんに陛下直々にお呼び出しがかかってるよ。今日中にでもそっちにハトがいくはずだ。用意できたら俺も一緒に出頭するよう言われてるんだけど。いつ来られる?」

 そあらはフリッガと顔を見合わせ、日時の指定を聞き出してから、それをヴィダに伝えて別れを告げた。



「陛下が、って言った?」

 フリッガは眉を顰め、聞き返した。

「だそうですけれど」

「軍の人じゃなくて陛下が? 珍しい」

 ほんとに珍しい、とフリッガは繰り返した。その口調は少し吐き捨てるようだった。

「お嫌いなようですね」

「そうじゃないよ。あれ、いや、どうだろ。そうかも。嫌いと苦手って違う?」

 肩をすくめてみせたそあらにフリッガは、嫌いか分かるほど付き合いもないし、と言い訳をした。

「あの人はとにかく政治と切り離せないから、なんか、まとめて苦手。できればそういうの、関わり合いになりたくないし」

 そう言い終えたものの、フリッガはため息をついてから続けた。

「でもまあ、呼ばれたら仕方ないよねえ……」


 フリッガはいつも、不満に思えばそれを隠さない。言葉に出すのを遠慮していたとしても、表情はそれ以上に雄弁である。彼女が親を失ってからの十五年、その保護者を自負してきたそあらはいつもそう感じては、これでよかったのだろうかと思うのだが今更仕方がなかった。

 これに限らずあらゆる面で彼女の行動は幼いのだ。三年前ヴィダに会いに行った時の様子を、訪ねて来られた本人から後で聞いたときには、さすがのそあらも肝を冷やしたものだった。とはいえ最近は、ほぼ唯一の個人的なつきあいがある人間であるヴィダやそあらたちに対するときとは違い「サプレマ」として誰かに会うときにはそれなりにきちんとやっているようだったから、最低限程度の弁えはできているのだろう。それだけが慰めである。

「では、明日は夜明け前に出ますね」

「うん、そうする」


 フリッガは飲み込むように答え、椅子の上でもぞもぞと姿勢を変えると、テーブルに手をついて台所のほうに目をやった。

 卵が熱された鉄板に落ちる、うれしくなるような音がする。そあらが一時中断していた朝食の調理は、いつの間にか席を立った翠嵐が引き継いだようだった。



 その夜フリッガは、いつもよりかなり早く床に就いた。翌朝は日の出る前に出立しなければならないからというだけの理由だったが、彼女が次に目を覚ましたのはそれでもまだ起きなければならない時間よりもだいぶ早かった。

 ああ、いやだな、と彼女は思った。まだ真っ暗だ。もう少し寝られる。あの夢はたぶん見ない。見るのはだいたい明るみ始めた明け方だからだ。

 こんな時間に目を覚ましてしまうと、あの黒い竜の見たこともない背中を思い出す。そしてまるでその尾が、自分の足元を這い回っているような気配を感じる。


 あの竜はなんなのだろうと、思わないわけでもない。けれどもそのことを彼女は突き詰めようとはしなかった。

 答えを出してしまうことが、それに行き着いてしまうことがとにかく怖くて、這い回る尾が立てる音を聞きたくなくて、そんな音は本当はしていないことも知っていたのに、耳を塞いで体を丸めた。


 不意に体が浮き上がるように軽くなり、彼女は両手を耳から外した。

 布団の上で少し顔を上げると、窓から入る月明かりが向かいの壁を四角に照らしていた。カーテンを引いていなかったのだ。

 フリッガは体を起こした。そしてそのとき初めて、部屋の扉のちょうど向かいに、もたれるように腕を組んで立っている人影に気がついた。


 侵入者だ。フリッガは弾かれるように枕元の護身具に手を伸ばし、ベッドから飛び降りた。その道具が室内で振り回すのに適切なものではないことは知っているが、とりあえず身を守るものが必要だった。一振りするとそれは両手で構える程度の長さに伸びた。 

「名乗れ」

 腹の底から空気を抜かれるような、ひやりとした不安感がよぎった。

 相手は返事をしない。フリッガは手元のものを薙ぎ払うように振った。紅色の光が円弧を描いて現れる。命を刈り取る大きな鎌の形をしたものだが、相手は身じろぎもしない。その態度は彼女を観察しているようですらあった。

 紅い光に照らされて、少しだけその輪郭が、顔立ちが、フリッガにも見えた。赤い目。黒い髪。彼女を値踏みするような冷たい眼差し。見たことのある顔。


 フリッガは一瞬で戦意を喪った。思ったことはひとつだけ――ああ、やっぱり。それだけだ。

 思わず手を下ろした。相手はゆらと、もたれていた背を壁から離した。

 その刹那、フリッガの背から脇をかすめ、何かが壁にまっすぐ投げつけられた。乾いた音を立て、壁を打つ。振り向くと、開かれた扉の向こうに翠嵐の明るい緑の目が見えた。

 目を離してしまった向かいの壁をすぐに振り返る。もう客の姿はなかった。


「マスター。あれ誰?」

 翠嵐はそう言いながら、自分の投げつけたものを拾いにすたすたと部屋を横断し、立ち止まって腰を屈めた。

 彼はベッドの端にへたり込んだフリッガに、催促するように顎をしゃくった。彼女は不機嫌そうに口を尖らせて答えた。

「知らないよ」

「ほんとに?」

「似てたけど……」

 翠嵐は大袈裟に肩をすくめてみせた。

「似てた。けど何?」

 フリッガは先を続けられず黙り込んでしまった。しばらく待ったが彼女は続きを言おうとしない。先に翠嵐が折れて、口を開いた。

「けど、別人?」

「うん」

「残念だったな」

 フリッガは呆気に取られた顔をし、気を取り直すように頭を振ると噛みついた。

「何が? 全然残念じゃないよ」

「ええ? 俺知らね」


 その日そあらは結局、フリッガを起こす必要がなかった。

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