1 幕開け、ある再会とふたりのこと
彼女は目を逸らさないまま、まっすぐ顔を上げた。それからぐいと顎を反らしたので、ちょうど喉を晒すような格好になる。
十歳を越したばかりだったヴィダが、自分に起きたことがうまく整理できないままシューレに放り込まれたのが十二年前だ。
事件の起きたそのとき彼は、一緒に生き残った少女――今目の前にいる人間の父親に命を救われた。彼の咄嗟の機転でヴィダは川に突き落とされ、水面に顔を出すとそこには惨状が広がっていた。
少女の父親はある理由により、聖地を離れてグライトで暮らしていた当時のサプレマである。赤い衣は聖職者のものだ。
ヴィダに残ったのは右頬の、桟橋の破片がつけていった大きな傷だけだ。それは今でも目立つものだが、それ以外には背中の痣を除いて大した外傷はなかったし、何よりこうして生きている。しかし彼の両親は、そして少女の父親も他の犠牲者も死んだ。その多くが特定も難しい遺体となってである。それをたかだか五、六歳の少女が? 何を言っている?
当時、あの惨事の原因が彼女だという噂がまことしやかに流れていたのは事実だ。しかしその「原因」というのが具体的にどういうことなのかは分からなかったし、そんな噂は確認のしようもないのでしばらくうちに消えていった。でも、彼女の中では生き残っていたのかもしれない。自分が原因である、だから自分が生き残った。
生存者は自責の念を消化するためにとかく理由を求めがちだ。そしてそれは大抵の場合、「自分が悪い」というものであればあるほど受け入れやすく、好都合。
彼は少し思案して、それからため息をついた。
もともと、いつかは自分から彼女を訪ねるつもりだったのである。彼女の父親のことを、その最期のことと感謝とを彼女に伝えなければならないと思っていたから。こうなってしまった以上、その話は今日するか、後回しにするかしか選べない。
後回しにするメリットがないな、と彼は思った。となれば選択肢はひとつだ。そこまでをほとんど瞬時に考え、あのさ、とヴィダは言葉を選びながら口を開いた。
「俺は真相は知らないけど、誰のせいだとかは今更追及するつもりはないんだよ」
だからそういうのやめてくれる、と。彼は手招きするように彼女の顔を下ろさせた。それに応じて彼女は顎を引いたが、表情は固いままだった。
最初は随分子どもっぽく見えたが意外に頑固なのかもしれない。彼は少し首をひねってから続けた。
「俺はあんたに会いに行くのをいつにしようかなって、実は昨日まで結構悩んで結局、今のところはやめとくことにした。まあ俺なりに色々考えてさ。そしたら今日そっちから来た。ぶっちゃけ不意打ちだと思ってるけど、この際いい機会だから言っとこうと思う」
「何を?」
「知ってるかもしれないんだけどさ。俺があそこにいなければ、あんたの親父は今もピンピンしてたかもしれないんだよ。俺は俺がサプレマを殺したとは思ってないけど、自分の命と引き換えに俺を助けてくれたわけだから、礼を言いたい」
そう言って彼は深々と頭を下げながら、彼女の手がだらりと降ろされたままなのをずっと見ていた。一度指先が動いて、それだけだった。彼は頭を上げた。
少女は眉を寄せている。たぶん、知らなかったのだ。でも彼女は何も行動を起こさなかった。じっと無言で彼を見ている。彼はそれ以上を言い淀み、一度下を見てから顔を上げた。
「あー……あと話すことが思いつかない」
少女は彼を睨んだが、父親譲りの垂れ目の顔は年齢以上に幼く見え、凄みはなかった。
「自分で考えてよ」
「いやいや、自分の親父のことでしょ、むしろあんたから聞きたいことないの?」
げんなりした顔を見せた彼女は、ため息をついてから少しずつ自分のことを話し始めた。
事件後、亡き父を継いでサプレマに任命されたこと。水源地の管理も任されていること。それがサプレマの抱える水の竜の加護を期待してのものであること——サプレマを始めとする
この地に根付いた宗教は、あらゆる自然要素に神性を認める多神教だ。だからこそそのサンフト教の教義において種々の自然現象の名代である竜は神と同視されるし、その依り代たり得る彼らのような存在が、神と人を繋ぐものとして聖職者の地位を世襲している。そしてユーレにいるのはその頂点に位置付けられるサプレマだけだ。
しかし技術発展のめざましい隣国などの影響を受け、人々の拠りどころとしてのサプレマの存在意義は、以前に比べれば薄れている。だから竜だの依り代だのといった話は知識として語られることはあっても、そしてサプレマやプライアが何か特別な術を使うのだということは知られていても、竜そのものの存在は一般には今はもう、どこかおとぎ話のような扱いになっているのが現実である。実際シューレで教養としてそのことを聞き知っていたヴィダ、先代サプレマとわずかばかりとはいえ交流のあった彼ですら、先代サプレマが連れていたという「竜」を見たという認識はなかった。
現サプレマである彼女も、ぱっと見特別なところと言えば紫色の瞳くらいだ。特に悪気もない顔で眉唾だと言わんばかりに首をひねったヴィダに、「お前、見たことあるじゃん」と彼女は言った。
「何を?」
「竜。前さあ、俺がこの辺住んでた時に。お前、荷物持ってきたでしょ、うちに。そのとき俺が一緒に留守番してた」
思わず目を泳がせたヴィダは、思い当たったことに驚嘆の声を漏らした。
少女だかその父だかをマスターと呼んでいた女性がいたのを覚えている。
「あの頭も目も青い、ほっそい美人のお姉さん? あのひと人間じゃないの?」
「そうだよ」
道理で、と心からの感嘆を漏らしながら頷いたヴィダが前に顔を戻すのを待った彼女は、これまでは自分が契約した竜に育ててもらったのだ、と続けた。
「偉そうに出てくるときの形のせいで竜って呼ばれたりするんだろうけど、なんかよく分かんないんだよね、連中。家が狭いとか言ってずっと人の格好してたりするし、あと、ネコの形になるやつもいるし。毎日普通にごはん食べて、寝てるから」
彼女は不意に笑顔を漏らした。初めてのものだ。ヴィダはきっとその竜が、彼女にとっては一番信頼できる家族のようなものなのだろうと思った。彼女に感じていた得体の知れなさが、ほんの少しだけ溶けた気がした。
そして。彼女はここで一息つくと、少し言い淀んでから続けた。
「今日会いに来たらお前、俺が親の仇なわけだし何されるだろって怖さはあったんだけどさ。でもそれでもやっぱりけじめつけないといけないと思って、それで勇気出して来た」
ヴィダは半分呆れてため息をついた。
「何されるだろうって……どんだけ俺のことやばい奴と思ってるの。なかなか失礼だな」
「そんなじゃないよ。そうなるのが普通だと思うし」
「あんたの普通は俺の普通とはだいぶずれてる」
「そうかなあ」
彼は大きなため息をついて言葉を続けようとし、そこでようやく相手の名前を聞いていないことに気がついて、何だっけ? と彼女の鼻先を指差した。近所のよしみで姓だけは知っているはずだったが、なんせ小さい時の知識なので薄れている。
「フリッガ」
名だけしか名乗らなかった彼女に、ああそう、と短く答えたヴィダは、子供を
「とにかく俺は何もする気はないの。分かった?」
話の内容にそぐわない打ち解けた顔をしていたフリッガは、急に表情を固くした。
「わけがわからない」
何が? と聞き返したヴィダに、彼女は先を続けた。
「俺はお父さんを死なせた自分のこと許せないと思った。なんでお前がそう思わないのか分からない」
かつて彼に彼女のことを「固い」と説明した人間がいる。ヴィダは彼女の言葉を聞いてその意味を理解し、なるほどとは思ったが、それでも腹は立つものである。
「お前の自己満足を俺に押し付けんなよ。夢見が悪くなるし、第一俺は犯罪者になりたくない」
彼女は顔を上げた。どうやら今度は効いたようだ。少し申し訳なくなるくらい泣きそうな顔をしている。
よく表情が変わる子だな、とヴィダは思った。言葉に窮する相手を見ながら彼は、次の言葉を考えるのに少し目を泳がせてから視線を戻した。
「俺に聞きたいことがないなら、もうこの話終わってくれないかな」
フリッガは返事をしなかったが、ヴィダは気に留めなかった。それでこっちからもひとつ聞きたいことがあるんだけど、と続けると、そこで彼は押し黙った。
どう見ても女性なのである。なのにその口調も行動も少年のようだ。ただ、それがかなりデリケートな話題であるという自覚はあった。だから彼は結局、聞かないことにした。
「いや、やっぱりいい。代わりに別のこと聞くけど」
怪訝な顔をしたフリッガに、ヴィダは右手を差し出した。その手と彼の顔とを交互に見比べるフリッガに彼は努めて柔らかく笑い、そしてその質問を口にした。
「俺の名前知ってる?」
「ごめん。知らない」
それから三年が経った。
現在、月暦五五三年。正派サンフト教サプレマ、フリッガ・フェンサリルは就任から十五年を経、二十一歳。ヴィダ・コンベルサティオは女王デュートからミドルネームとナイトの称号、そして異例の抜擢による師団長の役職を賜り、今年二十五を迎えた。
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