1 ユーレ:砂と水と、始まりの都

0 ある男の退場と、その次の幕について

 その出来事の直後、少女はその中で命を落とした彼女の父親を世襲する形で最高神官サプレマに任命され、同時に首都グライトを離れて山奥に居を移した。

 そこは水源地であり聖域ともされていたが、たかだか六歳の少女が自分で居場所を定められるはずもない。サプレマたる少女にその地の守りを委ねるという議会の決定は実質、彼女を隔離するための口実であった。


 議会でそのような決定がなされた背景には、事件と彼女との間に何らかの関わりがあるのではないかと疑われたことがある。そしてそれは、彼女をグライトから引き離すという対応も含め、彼女の保護者の判断とも一致していた。

 彼女はそうして社会、少なくとも事故の現場である、彼女がそれまで住んでいたシュナベル朝ユーレの首都から十二年間ほとんど完全に切り離され、枯れることのない水と緑とに守られて育った。

 グライトに刻み込まれた事件の記憶も、そうして経過していく時間がやわやわと薄くしていた。もっとも今、彼女を見て事件と結びつける者がほとんどいないのはそれとはほぼ関係がない。存命の目撃者がほとんどいないからだ。大半が即死であった。


 その少女にあてがわれたのは、もともとは水源地の管理のためだけに建てられた、木立に隠れるように控えめに作られた質素な建物である。砂色のレンガと石と、それから増築分だろうか、一部は木でできていた。

 今、薄暗いその一室で、間仕切り代わりの目の粗い麻布を手でけてくぐり、細身の女性が立ち止まって捜しものをするように周囲を見渡した。彼女の青い髪も、はっきりした藍色の瞳もまったく自然な色合いではないのに、雰囲気は落ち着き払っている。

 彼女の隣には、光に照らされた人影があった。浅黒い肌に金色の髪をした十六、七歳の少女であったが、その足元には天井に向かって光を投げかける円形の投影機プロジェクターが置かれており、足は地に着いていない。火を焚いて明かりを取るのを一般としているこの国の技術力とは到底相容れない代物であるが、映像の少女はしゃべりすらした。

「見つかった?」

「いいえ」

「熱反応もないよ。マスターが勝手に出かけたの久しぶりだね」

 映像の少女は能天気に笑ったが、女性は答えなかった。少女はわずかに眉間に皺を寄せながら女性に尋ねた。

「そあら?」

「たぶん、会いに行ったのよ」

「誰に?」

 もう問いかけには答えず、女性は食卓の椅子を引いて腰掛けると、組んだ手に額をあてて深いため息をついた。


 今グライトで盛大に執り行われている春の祭りは例年、新米士官の配属の式典を期間最後のイベントとして幕を閉じる。おのおの多少の違いはあれど、十年近くの教育を終えた士官養成所シューレ卒業者はこうして春の祭りが終わると、全寮制の養成課程から抜け出し正式に一人前の軍人として迎え入れられる仕組みだ。

 そして今年のその日は、十二年前の事故のほぼ唯一の生存者が、養成所での教育を終えて社会に戻ってくる日でもある。でも少年はきっと、その年月を経ても全てを覚えているに違いない。

 それまで容易には会えなかった彼は、今日、自由になった。



 午前の早いうちに王宮で新米士官の任命式が済むと、七日間に及ぶ春の祭りも残すところ、日暮れとともに終わりを迎えるだけになる。

 賑わう市街地では運河を挟んで両岸に露店が軒を連ねている。その前を童謡を口ずさみながら歩いていく親子連れを、かつての少年は赤い瞳で追った。彼らが視界の端に消えてしまうのを待ち、彼は頭を掻いて歩き出した。この国では珍しい、黒い髪をしている。

 今から十二年前にこのすぐ近くで起きた事件で両親を失った彼は、その直後保護を兼ねてシューレに入所した。それから昨日までのシューレ生活の中で頭角を現した彼は、抜群の成績を修めて今年正式に君主配下の士官として承認された新米の軍人である。

 全寮制のシューレを卒業したあとは、彼の生活の本拠は自宅になる。そこへ立ち入るのは十歳の時に入寮して以来だから、実に十二年ぶりの帰宅であった。


 玄関の横、今の彼の目の高さには少し低い位置にひとつだけ色の違うレンガがある。この家を建てた彼の祖父が彫り込んだ文字は表札代わりだ。前回これを見たときは、その祖父の字は彼の頭より上にあったはずだった。

 家人の長い留守のため、すっかり砂で目詰まりしてしまったそれを撫で、彼は腰の後ろに手を回すと鍵を取り出した。鍵穴に差し込んだそれはきしきし音を立てたが、なんとか役目を果たしてくれた。

 開けた扉の向こうで思わず渋い顔をした彼は、手の甲を鼻に当てて下を向いた。

 近所の住民がだいぶ前に空気の入れ替えをしてくれたとは言っていたが、それでも長らく人気ひとけのなかった家にはかびの匂いが充満している。一度外を向いてため息をつき、彼は意を決したように前を向くと大きく息を吸ってから、ずかずかと中に踏み込んで窓を開けた。

 外には燃えるような夕焼け空が広がり、黄色い砂で覆われた町を赤く染めている。わずかに目を細めてそれを眺め、ゆっくりと瞬きをした彼は、たった今開けたばかりの窓を半分だけ閉めた。


 掃除は始めてしまえば途中で日が落ちるのは確実だったので、明日しよう、と決めた。そうして前のめりに倒れこんだベッドから埃が舞い上がった。

 布の手触りが固くて彼は手をついて起き上がった。引き剥がしたカバーを畳みもせずに床に放り投げると柔らかい布団が出てきたが、それには飛び込まずにベッドの端に腰掛けた。さすが十二年放っておかれただけあって、カバーの下も埃っぽい気がした。

 彼は足元に放り出した荷物を探ると、貸与を受けた彼の得物を手に取った。シンプルとしか言いようのない、円筒形のつかふたつ。黒くさらりとした手触りの金属に銀色のラインが走り、滑り止めの異素材もあしらわれたそれらにはつばも刃もなかった。それぞれが過去、名の知れた軍人の手にあったものだ。ひとりは存命だが、彼に与えるため自らそれを手放した。ふたりとも彼にとっては恩人である。



 この国沿岸の海底遺跡から発掘される遺物は様々であるが、その中に含まれる武器の中には、一定の条件を満たした使用者の意思に応じて刃を発生させる装置が含まれている。ユーレの今の技術水準ではとても作れない複雑精緻な構造を持つものだから、それらはある種の敬意を込めて「ラティオ」と呼ばれていた。中でも特に発掘量が少なく発動条件もシビアなものには「ウルティマ」の語も冠される。

 ウルティマ=ラティオには、それぞれ古代の言語で何がしかの色を意味する銘がどこかしらに刻まれており、それらが作られた頃においても何らかの意味で特別視されるものであったらしい。彼の手にあるものもそうだ。


 彼が預かっている二振りには、その刃の色と同じ翡翠の名が織り込まれていた。閃翡せんぴ閃翠せんすいという銘は、分解しなければ見えない内部にそれぞれ刻まれていたものだという。

 彼は神妙な面持ちで交互に眺めた後それらを無表情のまま空に投げあげ、目の高さでふたつを片手に捉えた。それから腕を伸ばして天にかざし、瞬きをしてから膝下に置く。まだ、自分のものだという感覚が薄い。

 窓の外では空が紫に染まるのに合わせ喧騒が次第に収まりつつあった。暗闇が町に、その営みごと帳を下ろしたようだった。



 空は青いのに、地も水面も赤い。

 それは明るい赤ではない。白や黄色の入り混じる、嫌悪を覚える匂いをも乗せた色だ。

 放り込まれた川から浮き上がり、そこに見えた母の腕を掴んだら、その先の体はなかった。そして父は、遺体の一部さえ。


 柔らかい夕焼け前の光が差し込む部屋で、ヴィダは目を開いた。

 別にうなされたわけではない。ただ久しぶりだなと思いながら彼は無意識に右手で頬を触った。そこに残った傷はその日木っ端でできたものだ。もう十二年消えないから、きっと死ぬまで一緒なのだろう。

 黴の匂いに慣れ始めてしまっている。彼は部屋中のあらゆる場所を開けて回った。昨日半分だけ閉めた窓はそのままで、そこからも光が差し込んでいた。

 川に沿って谷を構成するような黄色っぽいレンガの建物群の一角、階段を少し上がったところにある彼の家は、その内外を運河の上を通った水の匂いのする風が通り抜ける。全ての窓を開ききり、最後に玄関を開けて外を眺めると、ドアノブに手をかけたままの彼の目の前を子連れの母親が前を通った。


 寝過ぎたな、と思いながら手を離した。何時間寝たか数えながら下を見る。開け放たれたままの位置で止まった玄関扉から差し込む夕陽が彼の足元に日だまりを作っていた。その中に不意にひとつ影が落ちた。彼は顔を上げた。

 その人物は、暗い赤と黒との衣装をまとっている。逆光で顔は見えないが、出で立ちから一般市民でないことは分かった。それが身に付けている色は、通常ある宗教上の理由から敬遠される色だからだ。

 彼もその衣装を見たことがあった。最後に見たのは十二年前だ。この突然の来訪者が誰であるか、そこに行き着くまではすぐであった。

 ああ、と思わず彼は呟いた。彼はそれが誰かを知っている。


 相手の背丈は、傾きかけた日の作った長い影から想像したよりは小さかった。士官候補生連中の間でも比較的身長のあった彼とは頭ひとつ分は軽く違う。体つきもどちらかと言えば細身だ。体の線に沿う衣装ではないが、指が細い。女性だ。

 その女性が後ろ頭の低い位置で無造作に束ねた長い髪は薄茶色で、この国では彼の黒髪よりもよく見るものである。しかし彼女の双眸は青みがかった紫で、単に珍しいだけのヴィダのような赤い瞳とは違い、この国ではある役職を世襲する家系にしか出ない。その前任者は十二年前に死んだ。

 だから前に立っているのは当代のサプレマだ。彼は確信した。十二年前事故の起きたとき、その場にいた少女だ。彼女は彼に、会いにきた。


 ヴィダは彼女をしげしげと眺め、それから目を離さないまま、ゆっくりと眉を寄せながら腕を組んだ。気づかれないように足で背後を探る。護身のための道具を探して。

 突然玄関先に現れた相手である。今のところ沈黙しているが、早い話が不審者だ。

 ただ彼が彼女を警戒する理由はそんなことではない。彼女の父親は十二年前のあのとき死んだ。それは彼が、自分の身を守るよりもヴィダを生かすことを優先したからだ。娘である彼女がそれを知っているのか、また仮に知っているとしてどう思っているかは彼には分からなかったけれども——娘が、自分の父を犠牲にして生き延びた男に会いに来るなど穏やかな理由だとは思えない。

 彼としてはいつか礼を述べに行こうという気持ちはあったが、しかしあくまで時期を見ての話であって、この来訪はまったく僥倖ではない。恨まれている可能性のほうが高いのだ。

 沈黙を保っている彼女が何をしようとしているのか読めない。後ろを探っていたつま先に目当てのものが触れ、ヴィダはそれをそろそろと引き寄せようとした。


 ところがそのとき彼の危惧を裏切るように、彼女はふいと首を伸ばすといぶかる彼をまったく気にする様子もなく部屋の中を見回した。

 そうして見えた彼女の表情には、害意どころか何の緊張感もなく、ヴィダは思わず肩を落とした。自分が迷っていることに気付いていない迷子のようだ、と彼は思った。十二年前に五歳程度に見えた彼女だから、今は十七、八のはずだが。


「あのね。人ん覗くなら、挨拶とかないの? ごめんください的なやつ」

 後ろのものを探るのをやめ、組んでいた両手を腰に置いてため息をついたヴィダに、彼女はきょとんとした顔を上げ、問うた。

「あのさ、ひとり?」

 怪訝な顔をしたままの彼に、彼女は少し困った顔をして聞き直した。

「ひとりでここに住んでるの、って聞いてるんだけど」

「そうだよ。あんたなら知ってんだろ」

 彼女は意を決したように口を開いた。


「ご両親死なせたのは俺です」

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