月色相冠

藤井 環

 この世界には、「竜」がいる。

 それはとても曖昧模糊とした、手を触れられぬ領域の、生き物ともそうでないともしれない、何か。

 時代によって異なる名で呼ばれ、強大な力を誇るそれは、操ろうとするものを足がかりに、人の世に現れる。



 海に三方を囲まれた、小さな国である。緑深い水源地から首都を目指し、中州に王宮を抱いて大洋にそそぐ運河が、この国の生命線であるとともに象徴、中心であった。

 その河畔は谷を描き、両脇に従えた斜面には二、三層建の建物が狭い路地を空けて敷き詰められている。河面の高さには少し広い通路に並んで商店が、その上には住宅が。砂がちの地面には日の光が軒先の影を落とし、その下ではいつも通りの朝の光景が広がっていた。河岸には船に荷を積み込む夫婦の姿。店先には食材を選ぶ母子と店主の笑顔。

 慎ましやかながらも穏やかで、豊か。そういう、普通の場所であった。

 

 そこに鎧のような鱗に覆われた黒い竜が落ちてきたのは、今から十数年前、月暦五三八年のことである。

 不意に上空に現れたその竜は、音もなく滑ってきて地に届く前に消えた。

 そこにあったいくつもの日常を、そこに根付いた生活を巻き込み、それらをあっけなく破壊して、それは瞬く間も与えずに姿を消した。

 

 その行く先は、彼らだけが知っている。

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