つきとあるいて
行宮見月
つきとあるいて
日が沈んだ。よるの藍が街に色づくころ、私はようやく深く、息をすることができる。
くたびれたジャージを脱いで、みずいろのワンピースの裾をひらり揺らして。真っ黒な髪は丁寧に梳かして結って、お化粧も、まだ練習中だけどごくうすく。
てきぱきとそこまでの支度をしたら鏡のなかの私は別人みたいで。魔法がかかったみたい、なんて浮ついたことを思って赤面した。
自室を出て足取りも軽く階段を下りる。荷物はすくないほうがいい。
靴を棚から下ろしたところで気がついた母に、ほどほどにね、といつもの声掛けをされて頷いた。
夜のお散歩。ほかの高校生の女の子ならあまり、親に良い顔はされないだろう。遊びに行くのは昼間にしなさいと。
だけど私が、外の世界を大胆に闊歩するのはこの、夜の青色のなかだけなのだ。炎天の熱が緩くさめるころやっと、刺さるように感じる目線を気にせず歩ける。ちょっと照れてしまうくらいのお洒落も出来る。
随分長い間、学校に行かなくなってしまったままだった。こどもは教室にいなきゃいけない真昼の街は少しうろつけば怪訝な目で見られて。居場所などもう、無いように思った。日に日に外を歩くことは減った。夕方を越えれば。その一念で家のなかで過ごして夜が来て、私はどうにか ふつう に歩き出す。
白いストラップが華奢で可愛いサンダルはお気に入りだ。日に焼けていない足にすっと馴染む。ドアを開けて、外へ一歩。
「きょうは… 満ち潮。」
呟いた。
肌に柔らかな夏の夜風は、海の匂いがする。玄関先の段を降りればそこはもう、
揺らめく水の中だった。
月が私の影を水底にうつす。くっきりと、そうやけにくっきりと。
仰いだ天に輝く月はクレーターの一つひとつまで露わに空を埋めて、押しつぶされそうに感じる程ひどく、近い。
いつ頃からだったろうか。
月はじわじわと、地球にその距離を詰め接近した。その引力は海岸線を高く、引き寄せた。海のそばのこの街はいま、浅い水の底にある。
僅かにふるのは月の砂とか呼ばれていたっけか、あまり吸い込まないようにとくどいほど言い聞かされたそれは水面に散り、さやさや光を受けて。もう慣れた景色のはずなのだけれど、私は今宵もその異様な美しさにほんのひと時、息を呑む。
足首の数センチ上に寄せる波のリズムが心地よい。深呼吸をすると夏の暮れの、甘く湿った匂いがした。きょうはどこまで行こうか。
かしいだ街灯の落とす灯りを恋うさかなの蒼い鱗。アスファルトのひび割れに咲く藻の花。それぞれに私は立ち止まりかがみこみ、頷いて歩く。黙々と歩いていく。闇に沈む海を渡る風は涼しい。一日ぶりに触れる世界の広がりが、目にまぶしい。
住宅街の外れは交差点。青信号の点滅が水に反射し、足元に滲む。この辺りから徐々に深くなった水深に、私は膝のあたりにまとわりつくワンピースの裾をつまんで水をかき分けて進む。
白く浮き立つ横断歩道を踏んで、ぽわり漂ってきた海月をかわして道を渡る。そうしながら私はここで初めて顔を上げ、今までになくキョロキョロと周りを見渡してしまう。道路標識に錆びた看板ばかりの景色に動くもの、人間の気配を探す。
_「そのカメラ、何を撮っているの」
「街を、撮っている」
「月でも魚でもなく」
「そう。夏じゅうこの、沈むまちを撮っている。」
男の子にしてはちょっと高いような声だった。
交差点を渡って角を曲がるとばったり立っていた、カメラを構える姿にふと、そんな風に声をかけてしまったあれは何日前のことか。大して驚きもしない様子で飄々と返事をしてすぐにまた構える真っ直ぐな横顔は、なんとなく心落ち着くもので、そのまま暫し眺めていた。関節の目立つ指が慣れた調子で取り回す、ずっしりと黒い機械。私は写真をよく知らないけれど、硝子細工にも似た月の顔にもヒレを躍らせるいきものたちにも向けられない、そのレンズに映る街には少し興味を惹かれた。閉じたままの店のシャッター、微かに宙に走る電線や藻に覆われた歩道、そんなものばかりを撮っている様子だった。
「水位がまた急に上がっているから」
絞りをいじる手元に目を落としたまま、彼は呟いた。長い睫毛が頰に陰を置いていた。
「今歩けているこの辺もぜんぶ、海の底になるよ近いうちに。
俺はどっちにしろ来年の夏にはここに居ないけれど、でも」
返事は求められていない気がして、ただうん、と小声で言ってみた。
ひとと言葉を交わすことは久しぶりで、あんまり緊張しないで居られたのは多分、水音とシャッターを切る音が優しく耳に届いたからだと思う。
そこまで思い返して、あの時と同じ角を曲がってみる。
人影は、なかった。
無意識に気を張っていたのかふっと、肩が軽くなった。ちゃぷちゃぷつま先で水を蹴ってみた。残念、を押し殺してせっかくだからこの道を奥まで行ってみよう、と決める。
気温が漸く下がってきた。
どこもここも店じまいした中、自動販売機がひとつ、煌々と羽虫を呼んでいた。
海風は喉を塩味に荒らす。ちょっぴり贅沢をする気持ちで、ポケットからビーズのがま口を取り出しボタンを押した。
サイダーの缶を持って電柱にもたれる。ひえた水滴が手首まで伝い、その鮮烈な冷たさにハッとしてぷしゅ、勢い良くプルトップを開けてひと口呷った。
遠く海鳴りが聞こえる。その音が響くほどに、静けさは色濃くなる。月はあいも変わらずひどく明るく、脈を打つかのようにつよく淡く光り魅入られてしまいそうだ。
月光はいつでも頭の奥まで射すから、余計な記憶まで蘇る。どうして私は昼間に歩けない。どうして私はまだ、たったひとり夜を。思い出そうとすると動悸が酷く、慌てて深く息を吸って吐いた。
私が写真を撮るのなら、振り切ってそう考えた。私がこの夜を切り取るのならば、やはり凛とつめたいあの月をうつすだろう。ありきたりな構図だろう、それでもここの主役はどうしても月なのだ。海を誘うのも、灯りの絶えていく街に視界をくれるのも、月なのだ。
炭酸の刺激がちりちりと喉をつつき、ぼんやりと誰かと話がしたい、そう思った。もう何度目かわからない夜に縋るくらいには怖いものは多くて、それでも。
散歩を始めてから、夜が更けるほどに月影は濃く、あかるいのだと知った。つめたいあかるさは、人恋しさを呼んだ。胸が熱を持つような人恋しさだった。いつか抱えてていたぬいぐるみを私は何処にやったのか、あいつをぎゅうぎゅうに抱きしめるみたいにそれは、途方もなく熱く心を埋めつくした。
残りのサイダーをきゅっと飲み干すと体温はすっと下がる。なんとなく滲んだ視界に、眠くなってきたから引き返そう、と言い聞かせる。するり足の間を小魚が去る。
静か、は耳について鳴るのだ。歌でもうたって帰ろうかと息を吸い込み出てきた音が掠れていて笑ってしまった。声の出し方も、もう下手くそだ。
どうせ聞くものもいないからと歌う。何故かぽんと思い出した童謡を口ずさんだ。クジラ、クジラ、いまなんじ。
いま9時、いま9時!
くだらなすぎる歌詞に空元気。水をかき分け大きな声で。クジラ、クジラ、そういえば私は鯨をみたことがない。
交差点に戻ってきた。鯨がやってくればいいのに、水の藍を見渡す。
「クジラは、まちには来ない。」
びくり、飛び跳ねた。
それくらい驚いて、声のする方を見上げる。ついさっきくぐった青ペンキの剥げた歩道橋、その上に人の影。
「浅すぎて、帰れなくなってしまうから。防波堤だったあたりまで行けば、遊びに来ているところを時々見られるけれど」
かつ、かつ。鉄の階段踏みしめて降りてくる。首から提げたカメラを大切そうに両手で抱えて。
「ん、前にも会ったような。」
初めて目が合った、私はただ、沢山頷く。ばかみたいに大声あげていたことを今更、頭が真っ白になりそうに恥ずかしく後悔しながら。
「クジラすきなの」
「みたことない。」
「この通りをずっと行って、沖の方。たまに見かける」
「いつか、行ってみる」
やっとのことで返事を絞り出す。
恐るおそる様子を伺えばうんうん、と元々切れ長な印象だった目をさらに可笑しそうに細める顔。
「歌はすきなんだ」
「たまたま、です」
明るい月を恨んだ。
いい声だったのに、とかなんとか言うのを放っておいて、通りの果てに目を凝らした。鯨のいるところ。
もうすぐ世間は夏休みだ。そうしたら朝方にでも、目指してみようか。歩いていこうか。
海の匂いが密度を上げる。凄くはずかしくて、だけど逃げだそうとは思わなかった。隣、というほど近くもない温度が心地よかった。と、
「クジラ、?」
信じられない、という声。なんだろうかと思った途端視界の端に、ぼんやりと白い、ひかり。私も振り返る。
それはたしかに、鯨だった。
花びらみたいに光を零しながらゆったりと、よるを泳ぐ。たった一頭。
あんまりびっくりして、私は何も言えなかった。うごけなかった。息を飲む道連れの気配をただ、はっきりと聴いていた。
「嘘だろ…、」
なんて呟いて、こんな時こそファインダー越しに覗けばいいのに、と妙に冷静にそんなこと考えて微笑んでしまった。
「嘘じゃない、夢でしょう。」
そう、からかってみる。
「そうだな。多分、ゆめ。」
つきとあるいて 行宮見月 @kamitsure
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