トモシ火
伊勢早クロロ
約束
指切り拳万、嘘ついたら針千本呑ます、指切った。
−−約束よ。私はあなたの物。あなただけを愛しているわ。
「なんて薄っぺらな愛」
私は吐き捨てるように呟き、溜息をついた。
肘をつくテーブルの上には、空になった発泡酒の缶が三本並んでいる。わざわざ銘柄を自分に向けて置いてあるあたりが私らしい。私らしくて笑けてくる。こんな時まで神経質にならなくていいのにと、半分怒りにも似た感情が込み上げて、そしてその感情は次いで瞼の裏を熱くした。
駄目、泣いてはいけない。
だって悪いのは彼だけじゃない。私も同罪だ。
わかっているのに、瞼の裏に灯り始めた熱は収まるどころか勢いを増すばかりだ。このままでは睫毛が焦げついてしまう。
鎮火しなければと湧き上がってくる水を無理に押さえ込めば、ぐずっと鼻が鳴った。
浮気をした。
それは出来心だった。いつまでも陽の目を見ない私を持て囃してくれる言葉の数々に、これまで微動だにしなかった足は完全に浮き足立っていた。
その人は私に甘い。なんの才能もない私にさも才能があるかのように甘過ぎる言葉を囁いてくる。
いつのまにかちょっと強い風が吹けば、首を傾げるくらいの柔軟さを私は手に入れていた。それは次第に首から腰に変わり、次に膝が折れ曲り、ついには足を地面から離してしまった。
彼への愛が薄らいでいたとかそういうことではない。愛はあった。ただ当たり前すぎて、その大切さに気づけていなかったのだ。
あぁなんて嘘くさい。吐き気がする。
違うのだ。私は二つの愛を手に入れたいと欲に溺れていた。だから失ってしまった。わかりやすいくらいに単純な構図。
はじめてその人からメールが来たのは開催していたグループ展の最終日だった。その人は一緒に展示していたメンバーの一人と知り合いで、展覧会を見に来てくれたのだという。
名刺交換をして当たり障りのない会話を重ねた。芸術には疎くてねと照れたように頭を掻く姿が、少し可愛いと思った。
私は自分の分野の話を、多分理解していないだろうことはわかっていたが、これが私の役割なので作品を見ながら掻い摘んで説明して回った。
その人は相槌を打つのがうまく、実際の解釈がどうであれ、気持ちよく話をすることができた。だから本来なら私の方からお礼の連絡をするべきだったのに、その人からメールが来てしまったのだ。
お世話になっております。
お決まりの文句。味気ない文面。でも最後に付け加えたように添えられたひとことに私の心はぐっと持っていかれてしまった。
『貴女の作品に触れて、知らない分野のことをもっと知りたいと思いました』
社交辞令だとわかってはいる。けれどまるでもっと私のことを知りたいと言われているようで、このところ感じることのなかった興奮にも似たトキメキが沸き立つのを感じた。
けれど私も大人だ。こんなトキメキは一過性のものとよく知っている。
私は心を落ち着かせて定型文のような文面を送り返した。これでこの人とは終わり。こんなことはよくあることだ。もしかしたらまた展覧会で会うかもしれない。でもその時はご無沙汰すておりますとにこやかに会話すればいい。
しかし次の日、まるで当たり前のことのように再びメールが送られてきた。
『何か僕にお手伝いできることはないでしょうか。分野が違うことを活かして出来ることがあったらいいのですが』
もちろんパッと思いつく限りでその人に出来ることなどない。けれどその気持ちが嬉しい。有難いことだ。
そのお気持ちだけありがたく頂戴いたします。
手紙だったら少しは感謝の思いが伝わるのだろうか。口元が綻ぶのを抑えようともせず、パソコンに整然と並ぶ癖のない文字を私はぼんやりと眺めた。
「どうかした?」
彼が探るように私を見ている。ハッとした。テレビの音が急に大きくなって耳に届く。
「何が?」
私は出来るだけ素っ気なく答えた。動揺を見破られてはならない。
彼と私は一緒に暮らしている。もうかれこれ4年目だ。学生の頃から付き合い出し、彼の就職が決まって同棲することを決めた。
結婚を考えたことがなかったわけではない。ただタイミングがことごとく合わないのだ。彼の勤務地が変わったり私の展覧会が決まったり、そうこうしているうちに今の関係が一番落ち着くようになってしまった。
始めはうるさく言っていた母も、もう何も言ってこない。周囲の避難の篭った視線には私も彼も本能的に目を瞑るようになっていた。勿論心の内では今だって母は結婚してほしいと思っているに違いなかったが、その言葉を私が口に出来る空気はもうこの家にはなかった。
「なんか変」
「どこが?」
どきりとした。今日は午後に仕事の打ち合わせがあるからと外出していて、日付を跨ぐ直前に帰ってきたのだ。普段家で仕事をしている私が外出するのは珍しい。いつもは帰宅が遅い彼も今夜は早く終われたのか、すでにシャワーを浴びて私の帰りを待っていた。
「表情が硬い。何か仕事で嫌なことでもあった?」
「え、そう?」
言って胸がチクリとした。表情が硬いのは嫌なことがあったからではなく、やましいことを隠しているからだ。私は咄嗟に嘘をついた。
「あ、うん。ちょっとね。面白い話だと思ったんだけど、ただいいように使われて終わる感じがして、断ろうかなって」
「そっか。前にもそんなこと言ってたよね。利己主義だとそうなっちゃうもんなのかね。もっと作品自体を見てほしいのにね」
「……うん」
溜息が漏れる。見破られなかった安堵と、嘘をついたことの心苦しさ。二つが相まった不快な溜息。
「ごめん」
「なんで謝るの?」
「なんかちょっと疲れちゃって。もう寝ようかな」
彼の目が見れない。でもそんな私に彼は優しく言葉をかけてくれる。
「おやすみ。明日になったらきっと気分も変わるよ」
私はありがとうと口を開きかけて、静かに噤んだ。スマートフォンを手に取り、泣きそうなのをぐっと堪えて黙って頷いた。
確かにアルコールは入っていた。お酒に強くない私はたった一杯だというのにいい気分だった。けれどあれは酔った勢いじゃない。私は自分の意思でその人と寝た。
二度目に会ったその人は以前会ったよりも爽やかに見えた。それはきっとメールのやり取りがあったからだろう。私はすっかり気を許して、仕事ではないプライベートなことまでペラペラと話していた。
でもこれはもっと自分を知ってほしいとかそういったことではなく、左手の薬指にリングをはめているその人に対する憤りのようなものだった。
あれだけ甘い言葉を吐いておきながら予防線を張ってくるその態度が気に入らなかった。今だってちょっとフラついた私の肩を紳士のごとくスマートに抱いてくる。
「少し休みますか?あ、でもあまり遅いと彼氏さんが心配しますね」
自分は結婚しているけれどあなた達はまだ法律で保証されたカップルではないんですよね、と優越感に浸られているようで気に入らない。結婚がなんだ。結婚してれば偉いのか?
気に入らない。気に入らない。何が気に入らないかって、こんな風に振り回されてしまっている自分が一番気に入らない。
「気持ち……悪い」
「あの、嫌だったら無理にとは言わないですが、よかったら僕のホテルに来ますか」
「ホテル、取ってるんですか」
その人は大袈裟に慌ててみせた。
「変な風に捉えないでくださいよ。よくするんです。仕事が遅い時とか。ちょっと家が遠いので」
「そうなんですか……あ、駄目だ。やっぱり気持ち悪い」
これは嘘だ。その人がホテルを取っていることじゃない。私が気持ち悪いという状況がだ。
快くベッドを貸してくれたその人に下心があるだろうことは、いくら鈍感な私でも察することができた。わかった上でその人を招き入れた。
私は久し振りに自分の中に女を感じることができた。
あの人はどんな気持ちで私を抱いたのだろう。下着を身につける私に息子の話をし出したあの人は、あの人なりに罪悪感を覚えていたのだろうか。
「息子さんがいるんですね」
もはや怒りは感じなかった。お幸せに。元彼が結婚したと聞いた時のようなモヤモヤに息が詰まりそうになったが、私は笑顔で部屋を出た。
「何、これ」
私は驚愕というにはちっぽけな声をこぼした。私が浮気をしたひと月後のことだ。
目の前に広がる光景に、次に言うべき言葉が出てこない。
立ち尽くす私に彼のバツの悪そうな声が返ってくる。
「あ、いやっこれは……こんなに早く帰ってくると思わなくて」
違う。そうじゃない。私が訊いているのはそんなことじゃないのだ。
ねえ、今はそんな言い訳をする場面じゃないでしょ?わからないの?あなたがしていることの重大さに気づいていないの?
次から次へと湧き起こる疑問は彼に伝わることはない。私が口にしない限り彼には理解さえされないだろう。
この一年、私にキスもしなかった。そんな彼が私のいない隙を狙って知らない女と裸でいることの衝撃。これをどう言葉にしたらいいのか。文才のない私には想像することすら難しかった。
「ねえ、殺していい?殺していいよね」
だからやっとのことで出てきた言葉はこんな稚拙な単語だった。
頭の中でイメージする。台所から持ち出した包丁はいつもよりも鈍い光を放っているだろう。人を刺す感覚は豚肉を切る感覚と似ているだろうか。
「いいわけないだろ!なんだよ。作品づくりだ仕事だって、同じ家にいるのに一緒にろくすっぽご飯も食べてない。先に距離を置いたのはお前だろ」
「違う!」
いや、違わない。もう一人の私が頷く。だってようやく軌道に乗り始めていたのだ。
「応援してくれるって言った」
「言ったよ?言ったけど俺は昔のお前の方が好きだった」
「は?なにそれ」
好きとかそうじゃないとか。その程度の関係だったの?私たちって。一気に熱を帯びた塊が足の裏から地面に吸い込まれていくのを感じた。
「だからいつまで経っても私たち結婚できなかったんだ」
私は脳内で包丁を二人が交わるには狭すぎるシングルベッドに思いっきり突き立てた。情けなくて笑けてくる。
「指切りしたの覚えてる?」
裸の女はいつのまにか部屋から姿を消していた。よくよく顔を見なかったが、私の方が絶対に可愛いに違いなかった。そうじゃなければやり切れない。ただ胸は女の方があったかもしれない。私は誰がどう見たって貧乳だからだ。
「指切り……?」
「うん。覚えてないならいいの。私もあなたも所詮はおままごとだったのよ。そして据え膳は残さず食べてしまう肉欲には逆らえないただの動物。セックスって気持ちいいものね」
そうだ、自分だって同じことをしたんじゃないか。結局は罪悪感よりも充足感を取った。同類だ。彼を責める資格は私にはない。
「言っている意味がわからないな。ただ俺たちはもう駄目だと思うんだ」
「そうね、おままごとにしてはよくやった方よ」
「決まりだな。終わりにしよう」
涙は出なかった。泣いたら負けだと思ったのもあるが、あまりにチープな出来事に感情が追いついていなかったのだ。
こうして私たちの6年という月日は一瞬にして白紙に帰すこととなった。
「浮気をしたら正直に話すこと」
真剣な顔をして彼は言った。
「え、なんで?」
「だって浮気って互いに非があると思うんだ。だからちゃんと腹を割って話せば逆に愛は深まるんだよ」
「なにその理屈」
「俺はお前以上に好きになる人はいない。自信がある」
「私だって」
彼の汗ばんだ胸に私は甘えたように擦り寄った。彼の体温を感じる。同時に鼓動がトキメキへと変化した。
「お前が浮気しても絶対に手離さない。そいつから取り返してみせる」
力強く言い切る彼を羨望の眼差しで仰ぎ見た。この人についていけば大丈夫。二人でいれば苦労だって難なく乗り越えていける。
「じゃあ指切りしましょ」
私は小指をそっと彼の前に差し出した。
「懐かしいな」
彼の、私よりもしっかりとした小指がきつく絡まる。私は離すまいとその小指を握り返した。
「指切り拳万、嘘ついたら針千本のーます、指切った、ロウソク一本きーえた」
名残惜しそうに指が解けると、代わりに彼の舌が私の唇を割って入ってきた。愛されている実感が甘い痺れとなって全身を包みこむ。至福の時だった。
愛し合った後は手を繋いで横になるのが習慣となっていた。
呼吸を整えながら、「ね、ロウソク一本消えたって何?」と彼はキョトンと小首を傾げた。まるで少年に返ったような無垢な表情が面白くって、私は大袈裟に驚いてみせた。
「知らないの?死んだら御免ってことだよ。死なない限りは有効な約束」
「ロウソクって命のこと?怖いなぁ。あれ?でもロウソク一本って、隠れんぼする人この指とまれってやつじゃなかったっけ?」
「ん、そうだっけ?確かにあの歌にもロウソク一本って出てきた気がするけど」
「ごっちゃになっちゃったんじゃない?」
私と彼はどちらからともなく顔を見合わせるとくすりと笑った。
「じゃあ俺たちの指切りは死なない限りは有効ってことで。俺はお前とずっと一緒にいたいから隠し事をしない」
「私もしない。浮気をしたらちゃんと言う」
「浮気は前提なのか。それも怖いな」
「冗談だよ。浮気なんてするわけないじゃない」
再び熱い視線が交差する。涙が出そうなほど幸せだった。
「これからもよろしくな」
「よろしくお願いします」
段ボールが積まれた狭い部屋で、産まれたばかりの姿の私たちは、どこまでも果てしないほどに笑顔だった。
安らかな日々を夢見たのは、二人での新生活が始まった日のことだ。
4缶目にもなると頭が痛くなり、酔いというよりも気持ち悪さが先にきた。これ以上は危険だと身体が告げている。
「生きてる限りは有効なんでしょ」
吐き出した言葉は虚しく全て自分に返ってきた。
新しく越してきたこの部屋にはどこにも彼の匂いはない。体温も感じない。あるのは仕事道具とうず高く積まれた空き缶だけ。
もちろんひと缶ひと缶律儀に洗ってラベルを表に向けている。そういう性分なのだ。だってその方が美しいじゃないか。
私は生きている。だけど約束は果たされなかった。最初に破ったのはどっちだったのだろうか。いや、そんなことはどうだっていい。
昔から遊女は指切りをしておきながら模造の指を相手に送っていたというではないか。結局こんなことは気休めの騙し合いでしかないのだ。
私はバタンと、一人だと大分広く感じるシングルベッドにダイブした。
明日になったって気分が変わることがないことは自分がよく知っている。けれど今はもう眠ろう。もしかしたら明日になれば新しい模造の指を送る相手が見つかるかもしれない。
ロウソクの火はまだ灯っている。私は強く生きていく。
完
トモシ火 伊勢早クロロ @kurohige
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