キリンのいる生活

大家一元

麒麟児の煩悶

 芦屋侘助あしやわびすけは哲学的な少年だった。

 父は、一流製菓企業である芦屋健康食品会長・芦屋太郎たろう

 母は、太郎が長年連れ添った妻を亡くし、傷心の中出掛けた台湾旅行にて知り合い、後妻に迎えたタイヤルの女性・芦屋ルオシュエン。


 侘助はそんな両親の元、腹違いの長男から見れば三十歳年下の末っ子として誕生した。

 母に似て天使のような美貌を持ち、六麓荘の中腹にある豪邸に育った彼に、日常の生活における障壁など皆無に等しかった。

 太郎が絶大な影響力を持つ政財界、社交界、球界、角界、パチンコ界の人々は一様に、侘助を『芦屋家の麒麟児』と囃し立てた。


 しかし彼は悩んだ。悩みに悩んだ。一体何に、と聞かれても困る。それはきっと彼にしか解らない、高尚で哲学的な悩みに違いないのだ。


 彼は暇さえあれば、窓の外を眺めて思索に耽る。

 考えあぐねると小さな頭に全身の血が逆流して、胴体は縮み頭は膨張し頭身は1.5ほどになり、窓枠に嵌って身動きが取れなくなる。

 太郎をはじめ家人たちはその度に、皆一様に激しく狼狽する。

「侘助おぼっちゃまが耽っていらっしゃる! 窓枠から救って差し上げろ!」という怒号が六麓荘中に響き渡る。

 そうして一時間ほど経つと決まって、侘助の二歳年上の幼馴染で許嫁でもあり、2.5メートルの長身から『甲子園の八尺様』と称される西宮酒造にしのみやしゅぞうの令嬢・西宮一子いちこが何処からか現れ、侘助が嵌る窓枠の下を通る細く美しい道路を悠然と歩きながら、「あら、また侘助さんが『頭でっかちモード』になっていらっしゃるわ」と艶やかな微笑を浮かべつつ言う。

 すると侘助の頭は縮んだ。そして貧血により、英国王室御用達スランバーランド製高級ベッドの上で、最低三日三晩は生死の境を彷徨うのだ。


 この『思索の行き詰まり』は決まって閉所で起こる。

 ある日、いつも通り「授業についていけない」という哲学的理由で、地元の偏差値47程度の進学高校を欠席し、思索に耽りながら音楽家・寺田浩志てらだこうし邸の前を散歩していると、現実への注意を怠り蓋の外れていたマンホールに落下した

(余談だが、この時偶然寺田邸のベッドルームにて寺田を含む複数のロック・ミュージシャンと一夜を共にしていた母・ルオシュエンは窓から愛する息子の勇姿を見届け、「それでこそ真の哲学者よ」と全裸で絶叫した)。


 ここまでは良かった。あろうことか侘助は、このタイミングで『行き詰った』。侘助、絶体絶命の窮地であった。

 一子が樺太旅行からいつも通り一時間ほどで帰って来て、振り乱した髪もそのままに艶やかな微笑を浮かべ、「あら、また侘助さんが『頭でっかちモード』に以下同文」と言っていなければ手遅れだった。


 父・太郎は、我が身より、祖国より、世界よりも愛しい末っ子の将来を、ルオシュエンとの離婚調停を進める片手間に憂えた。


 しかし、この『マンホールの行き詰まり』が侘助にとって大いなる転機となったのは、後の侘助を知る者にとっては常識である。

 この時の侘助の貧血は三日三晩では済まず、四日目の午前11時まで続いた。学校はやはり、大事をとって欠席せざるを得なかった。

 スランバーランド製ベッドより身を起こした侘助は、突然こう呟いた。


「キリンのいる生活……」


 三日三晩と数時間、片時も離れることなくその枕元に結跏趺坐けっかふざしていた一子は鸚鵡返しに聞いた。


「キリンのいる生活?」


 侘助は調停が済めば母ではなくなるルオシュエンそっくりの目を爛々と輝かせながら、再度言った。


「キリンのいる生活だ!!」


 虚弱体質の侘助の絶叫は六麓荘中には響かなかったが、すぐ側の一子を軽く苛立たせることには成功した。


 父・太郎は遂に完全に正気を失ったと見える愛息子・侘助の寝起きの一言を聞くと、自身もまた気も狂わんばかりに悩んだ。

 そして一分間悩み抜いた末にこう決断した。隔離病棟へ入れよう、と。


 しかし侘助と対面し、その真意を聞いた太郎は、雷に打たれたような衝撃を受けた。

 この時の親子の会話をすぐ隣で(十露盤板そろばんいたの上で背に石を乗せられ全裸で土下座させられつつ)聞いていた母・ルオシュエンはこう記している。



侘助

「父上、キリンを飼育させて下さい」


太郎

「ならん。お前は何を言っておる。遂に狂ったかこの出来損ないの穀潰しめが。色情狂いろきちがいの母共々どこぞで野垂れ死ぬが似合いよ、フハハハハ……」


侘助

「キリンと共に暮らせば、きっと僕の疑問は氷解します」


太郎

「な、何、本当か……? しかし、キリンの飼育は法律上禁じられておる(※1)。日本は法治国家だ。如何に『抜け穴潜りの芦屋太郎』と雖も、キリンを通すとなると至難の業ぞ。どうすると言うのだ」


侘助

「父上の寝業になどハナから期待しておりません。僕が期待するのは要するに、その無駄にある金です」


太郎

「何と、金……? 金、と申すか……。しかし金を使ってどうすると言うのだ?」


侘助

「子曰く、『金は力、金は正義、金は命よりも重い』(※2)……。カナダ・オンタリオ州ではキリンの飼育が特別に認可されております(※3)。そこに僕専用の別荘を建てて頂ければ宜しい。但し、ただの別荘ではございません。キリンの飼育が可能な規模の庭園付きの邸宅です。そして二階に書斎を作って頂き、その窓から常にキリンのいる庭を眺められるようにしておく……名付けて」


太郎

(生唾を飲み込み、侘助の言葉を待つ)


侘助

「『キリンのいる生活』です、父上」


太郎

「……侘助」


侘助

「はっ」


太郎

「しかと果たせ」


侘助

「御意」


わたし

「侘助、気をつけてね」


太郎

「口を開くな、薄汚いアバズレめが」



 かくして、侘助のカナダ・オンタリオ州への移住が決定した。


 伊丹空港にて、オンタリオ行きの搭乗券を手に故郷へ別れを告げる侘助の見送りには、父・太郎が神戸に本部を置く『実業家仲間』の放免祝いに参加する為来られず、代わってタイヤル出身・尼崎在住の風俗嬢が来てくれた。


 慣れない飛行機旅行の最中に、数百通りの墜落のシチュエーションについて哲学的に思索し『行き詰まった』時には、さしもの豪傑・侘助も「最早これまでか。是非も無し」と膨張した顔面に不敵な笑みを浮かべつつ覚悟したが、いつも通り一時間ほど経って現れた一子が窓の外から艶やかに微笑みながら、「あら、また侘助さんが以下同文」と言ってくれたお陰で一命を取り留めた。


 艱難辛苦を乗り越えて遂にオンタリオの空港に辿り着いた侘助は倒れ込み、三日三晩貧血で生死の境を彷徨った後、別邸書斎のベッドで目覚めた。


 書斎に並んだ本棚には、「ニーチェ」、「カント」、「サルトル」などといった、侘助の知らない哲学者たちの書が大量に敷き詰められているが、特に興味を示さず窓の外を見た。

 そこにいるのは、キリン。自然公園さながらの広大な庭を悠然と闊歩するキリンが、そこにはいたのだ!


 心底どうでも良かった。頭が膨張し始める。侘助は『行き詰まり』を感じていた。

 よく知らない西洋哲学の思想書と特に興味のないキリンに囲まれ、非生産的な思索に耽る侘助の新たな生活が、これから始まるのだ。


 この一年後、侘助は「曰く、『不可解』」との書き出しにて始まる遺書を残し、ナイアガラの滝にて哲学的自殺未遂を遂げるのだが、それはまた別のお話……



※1:実際は出来る

※2:大嘘

※3:実際どうか知らん

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