ホールに負けないピース

中 真

ホールに負けないピース

 首を伝う汗を拭い、私は舞台袖で水を仰ぐ。観客四万人のアンコールを求める声が地面を震わせる。

 七年前、私は「きみちゃん」になった。ミリオンも出したし、海外のステージでも歌った。

 それも今日で終わり。

 マイクを握り直し、満面の笑みでステージに躍り出る。盛り上がる声援。時折きみちゃーんと呼ばれ、目と胸の奥が熱くなる。俯き、必死に泣くのを堪えた。

 大好きな皆。この曲でお別れだ。

 息を整え、顔を上げるとデビュー曲が流れる。不意に六年前に大先輩と交わした会話を思い出した。


「きみちゃん。ファンの愛と惚れた奴の愛の違い、分かるか?」

 食事の席でベテラン歌手に問われた。他者には無い味わい深い歌声を出せる彼を、私はずっと前から尊敬していた。

「愛の深さでしょう」

 断言する私に彼は微笑み、首を横に振った。

「ファンの中には人生かけてうちらを愛してくれてる人もおる。きみちゃん、彼らの愛の深さ、疑ったらあかんで」

 再び私に考えさせているのか、彼は黙り込む。しかし私は言葉を詰まらせていた。

「答えはな、個に応えるか、全に応えるかや」

 手元のガラスの氷がからんと大きく響いた。

「惚れた奴一人想う事は簡単や。けどファンには全員いっぺんにステージから応えるやろ? どうしても一人一人には応えられん」

 体が幾つあっても足りんと、彼は呟いた。

「でもそれは切ないやろ? 自分が惚れた奴からもらうケーキが、いっつもホールや無くてピースなんや。どんなに小さくとも、やっぱり丸ごとホールもらいたいもんや」

 すっかり聞き入っていた私と目を合わせ、彼は目尻の皺を一層深めて笑った。

「だからな、きみちゃん。ファンにあげる愛は、惚れた奴にくれてやるのより深くて、でっかくなきゃあかんのや。ホールに負けないピースにせなあかんのや」

 まるで私の答えが、ファンに向ける愛の深さが恋人のそれに及ばないという意味だと見抜いた口振りだった。


 曲の中盤に差し掛かり、マイクを観客席に向けた。四万人の大合唱が夜空を突き抜ける。

 今の私は誰よりも、何よりも、深く、大きく、皆を愛している。

 伴奏が止み、私は皆を想って歌った。終わるのが名残惜しくて、寂しくて、息が続く限り音を伸ばす。伸ばして伸ばして、消え入るように手放した。

 終わる。終わってしまう。

 湧き上がる拍手。泣き声。歓声。気力をかき集め笑い、両手を大きく振る。

「ありがとう!」

 全身全霊で向かってくる皆。応える私。

「ありがとう皆!」

 沢山の人達に愛されている光景に感動し、我慢していた涙が頬を伝う。

「さようなら」


 気付けば私は舞台袖で大声で泣いていた。体が信じられない程軽い。肩から重荷が下りた安堵と、胸に風穴が開いた喪失感。口から出るのは嗚咽と謝罪の言葉ばかり。

 アンコールを求められても、私には応えられない。

 「きみちゃん」はもうどこにもいない。残されたのは、泣いている私の許に駆け寄る男性を愛してやまない、希実枝きみえという一人の女だけだった。

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ホールに負けないピース 中 真 @NakaMakoto

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