第5話

 先生からの手紙が届いたのは学年末試験の折だった。

 小賢しい「教育方法論」のテストにさんざん悩まされて、むしゃくしゃしながら下宿へと戻ると、ポストに挿してある分厚い封書が目についた。

 何かの懸賞に当たるような覚えなんかさらさらないぞと思いながら、押し込まれていた封書をやっと抜き出し、差出人の名を見た。

 ……こんなに厚い封書が先生からの返事?──僕は暫し理解に苦しんだが、つまらないことを頭の隅で思い出すと、急に不安に駆られてしまった。

 ……いや、まさかそんなことはないよな──僕はこの時夏目漱石の『こころ』のことを考えていた。

 僕はこの長篇に対する前に、うがいのあとコーヒーをいれてひと息ついた。

 それでも期待と不安が絡みあって変に上ずった気持ちはなくならない。僕は意を決して封を切った。

 神経質そうな細かい字は薄手の便箋にびっしりと十数枚はあった。

 僕が訊いたほんのひとことの質問に、これ程長い答えが返ってくるなんて……レポート試験なら文句なしで「A」がついてくる量だと思った。

 彼は学生時代そういう人だったのかもしれない。

 ……嫌な予感を外れる方向へと思考を運ぶのだが、どうも反作用の意識ばかり強くなる。

 ……『葬送行進曲』とか『告別』なんて書いてあったら大笑いしてやる、そう思い込んで、僕は先生のペン字に視線を移した。


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 酔った勢いで請け負ってはみたものの、きみの質問は私に大きな波紋を投げかけてきた。きみに「何か泣けるような名曲はないか」と訊かれて、私はすぐにある曲の旋律を思い浮かべていた。その時さっさと答えてしまえばよかったのだが、きみには役員の仕事があったし、私と言えばその旋律の為に瞬時言葉を失くしていたのだ。危うく我に返ると、どうにかきみの住所を教えてもらった。

 という次第だ。

 きみと別れた後私は居ても立ってもいられなくなり、早々と自室に帰った。何故かと言えば、すべて私が思い出した曲の仕業で――私は長いことこの曲のことを忘れかけていたから――一刻も早くこの耳で確かめてみないことには落ちつけなかったからなのだ。会場を後にした私にはもうアノ曲の旋律だけしか聞こえず、それと共にどんどん溢れてくる思い出にどうにもならなくなっていた。だから自分がどの道を通ってあそこから自室まで戻って来たか、全然分からない。

 返事が遅れたことに対しての言い訳になってしまうが、私はあの日からずうっと動揺していた。授業に出ても大部分は生徒にプリント問題をやってもらう日が続いた。空き時間でも職員室だと落ちつけず、実験準備室の小さな机にしがみつくようにして、何とか時間をやり過ごすという具合だった。そして、漸く昨日の午後に目的を達成(と書くと大袈裟かもしれないが)することができ、きみへの手紙もこうして書き始めるまでに至ったのだ。どういうことかと言うと、実は私はすっかり母親の命日を忘れていたのだ。きみの質問が、私の母親の代名詞とも言えるあの曲を 思い出させてくれたことで、一ヵ月近く過ぎてしまったとはいうものの、どうにか墓参を済ませることができた。

 その意味で、きみにはとても感謝している。

 そこで、長くなってしまうが、その曲に関する私の思い出を記すことで、質問の答えとしたい。


 さて、きみの質問に対して、私はすぐにある曲の旋律を思い浮かべた訳だが、私が音楽を聴いて涙を流してしまったのは、その一曲だけしかないのだ。例えば「好きな曲」とすれば、一曲だけ挙げよ、なんて言われてもとてもじゃないが無理だ。私の尊敬するラヴェルの音楽だって、『ラ・ヴァルス』と『ダフニスとクロエ』のどちらがいいかなんて比べることが既におかしい。だが不思議なことに、そうした大好きな曲をじっくり聴き込んでみても、涙を流すようなことは私にはない。喚起されるのはもっと別のたぐいの感動なのである。

 だいたい、赤ん坊の時代は除くとして、私は泣いた覚えというものがわずかしかない。

 私は知ってのとおりの武骨漢だし、幼い頃にしても、ケンカをして負けたことはない。いくら殴られて劣勢になっても、私は全く泣くような素振りを見せなかったから、そのうちに優勢だった相手の方が怖がって泣き出してしまうのである。子供のケンカには「泣いたら負け」という暗黙のルールがあるということは、きみも知っているだろう。

 また、悪さをしでかして、父親にケツを存分にひっぱたかれたり、押入れの暗がりに半日以上閉じ込められても、私は泣かなかった。母親は私のこうした強さを認めてくれていたようだが、父親はそんな私が癪にさわるらしかった。

 私の父という人は、よく言えば亭主関白と言えないこともないが、裏を返せば、外では威張れないからせめて家の中ではでかいつらをしていようという内弁慶な人だった。自分の弱さの為か、父は(こんなことをきみに伝えるのはどうかとも思うのだが)、酒に浸り、女にルーズな、私に言わせれば最低な野郎で、私にも母にも平気で暴力を振るった。何にも悪いことをしてなくとも、訳の分からないままに私は殴られた。そして私を庇う母はもっと殴られる。少しでも逆らえば、「ここは誰の家だと思ってるんだ」か、「誰に食わせてもらってるんだ」という決まり文句と平手打ちが飛んできたものだった。でも私は、母が父に内緒にして繕いものなどの内職をしていたことを知っていた。「おとうさんには秘密ですよ」と人差指を鼻にあてて見せた母の顔は、おぼろげながらも今も印象に残っている。

 そんな父ではあったが、素面しらふの時はおとなしい、音楽好きな人だった。歌謡曲ばかりだったが、ドーナツ盤もLP盤もたくさん持っていた。レコードの価値がまだ相当にあった頃のことだから、かなりの贅沢だったことだろう。もちろん幼い私には触れることもできない代物なのだが、父は機嫌のよい時によく私をプレーヤーのある部屋に呼んで、一緒にフランク永井だとか、和田弘とマヒナスターズなんかの歌(きみにはピンと来ないだろうな)を聴かせてくれた。父に唯一感謝するとしたら、付合でカラオケに行っても困らずにすむことだろう。私はかなりナツメロに詳しい人になっていたから。

 母が音楽を聴かない訳ではなかった。が、父は母にさえ当時の高級品のプレーヤーを自由には使わせなかったらしい。母が音楽を聴くのは、いつも父がいない時。それは母が自ら手に入れることができたたった一枚のLPであり、同時に我が家でたった一枚のクラシック音楽のレコードであった。曲は「アダージョ」。


 朝、父が仕事に出かけてから、または夜、父がどこかの呑屋に行ってしまってから、母の姿が見当たらないなという時、いつも母はプレーヤーの前に座っていた。「アダージョ」を聴きながら。私が何も分からぬまま傍に寄ると、母はわずかに顔を隠す。

 母は泣いていたのだ。

 私が物心ついた時には、母はもう「アダージョ」を聴いていた。母がいつも聴いている曲を「アダージョ」だと教えてくれた時も、素晴らしい音楽を聴くと感動のあまりに涙がこぼれてしまうものだと母に言われた時も、私には何がなんだかよく分からなかった。

 母にそう言われてから、私もその気で母と一緒に「アダージョ」を聴いたことがあったと思うが、私は聴いているうちに眠りこんだような気がする。それに、「アダージョ」とは、「(アンダンテよりも)更に遅く、ゆるやかに」という意味の楽語であるということも、中学の音楽の授業で習うまでは知らなかった。


 私が高校生になった頃、日常の不摂生が祟った父は急逝した。

 私は正直なところほっとしたような気持ちになったものだが、母にはさすがに堪えたらしい。

 その時も、母はやっぱり「アダージョ」を聴いていた。

 私はそんな母をそっとしておくようになった。「アダージョ」を聴いている時が母はいちばん安らぐのだと思った。それに「アダージョ」に勝るという自信が自分にはなかったから。

 それからの母は女手ひとつで私を東京の大学に出してくれた程頑張った。私が家を出てしまえばひとりぼっちになってしまうのに、母は文句も愚痴も言わず、入学が決まった時には私よりも喜んでいた。

 その頃の私の生活は、次第に母と擦れ違うようなものになっていった。友人と遊びに行ったり、泊まりがけで出かけることも多くなった。家にいたとしても、私はいつも時分の部屋に閉じこもるようにしていたから、母と話すのも食事時位のことになっていた。

 いつからか、部屋にいる私はかすかではあるが確かに「アダージョ」の旋律に気がつくようになった。

 父が亡くなってから、母がプレーヤーに触れる時間はとても多くなっていた。私は主として自分の部屋のラジカセで事足りていたから、それは普通に考えて当然なことではあるが、母は父のレコードは聴こうとせず、私の知る限りでは「アダージョ」を聴いていた。

 上京する前に一度、「アダージョ」が流れている部屋に母を訪ねた。

 気の所為か母は涙ぐんでいるようだった。そのことには触れずに、私は母に話した。私に遠慮することなんかもうないのだから、再婚でもしたらどうかと。

 母は暫く黙っていたが、やがて静かに言った。今まで話さなかったが、前からそういう話はいくつもあった。でもみんな断ってしまったのだ、と。それは誰に気兼ねしてということでなく、自分で決めたことなのだ、と。

「おまえが行ってしまえばもっとヴォリュームを上げて『アダージョ』が聴けるだろう」

 そう言って少し笑うと、あとはおまえの努力次第でどうにでもなるんだよ、と言った。

「おまえこそわたしに気兼ねなどせず、思いきり頑張っておくれよ」と。

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Adagio(アダージョ)* カワヤマソラヒト @sorahito-t

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