第4話

── どんな曲が好きですか?


 なんてありふれたことを訊くのは野暮な気がする。

 おすすめの作曲家は誰ですか、とか、指揮者では、とか、ソリストでは、とか、類例はいくらでも出そうだがどれも面白そうには思えない。

 先生の性格なら多少はひねった答えを返してくれるかもしれないが、先生がくれた答えに対して僕が話を繋げられるかどうか実に危うい。

 そうですか、というひとことだけで話が終わってしまっては悲しすぎる。

 先生は多少酔っているとはいえクラシック好きなのだと表明したことは、僕には幾分照れくさそうに見えていた。

 まあ確かに、先生の風貌や日頃の言動やらを思い起こしてみると、僕もなんとなくクスリと笑ってしまいそうにはなった。

 でもその反面、そんな先生だからこそクラシックが相応しいのではないかという気もする。

 何れにせよ恰幅のいい大男がはにかんでいる様子というのは微笑ましい。


「先生、僕はまだよく言われるところの名曲名盤100選みたいなメジャーなものしか接してないんです。例えば『新世界』とか『悲愴』とか『未完成』のような、通称がついている曲です」

「ああ、初めはみんなそんなもんじゃないのか」

「音楽室の壁に大作曲家の肖像画が貼ってあったのは覚えているんですが、ベートーヴェンは別格としても、ドヴォルザークやチャイコフスキーやシューベルトがどんな顔をしていたのかまるで結びつきません」

「顔で選んで聴いてるんじゃないからそれは気にすることないだろう」

「作曲家と作品名もまだ全然一致しないんですよ」

「それはおいおい分かることだと思うがなあ」

「だから誰がどんな曲を作ったのかなんてほとんど分かりませんし、実際どう聴き進めていけばいいのかも分からないんです」

「気に入った曲があるなら、そこから広げていけばいいんじゃないのか。仮にベートーヴェンなら、交響曲をひととおり聴いてみるとか。今なら図書館で借りたりできるだろう?」


 先生は適宜最もな相槌を返してくれた。

 僕の住んでいる街の図書館でも近頃音楽ソフトの充実は目覚ましい。

 クラシックのように教養につながりそうなものなら尚更のことだ。

 ベートーヴェンの交響曲全集のCDだってきっといくつか所蔵されたことだろう。

 でも僕は、そんな一般的な話をうかがおうと思ったわけではない。


「先生ならきっとたくさんの曲を聴き込んでいると思うので、こんな曲はないものかと思って探したくてもうまく探せない僕にアドヴァイスをいただきたいんですが」

「な、なんだよ。オレはそんなにマニアックなことは知らんぞ。バッハの子どもは全部で何人なのか、ベートーヴェンは毎朝コーヒーを飲むのに豆の数を決めていたのか、ブラームスとクララ・シューマンはいったいどんな関係だったのか……そういうのは薀蓄本を読んでくれよな」


 先生は充分マニアじゃないかと僕は思った。

 そのような逸話があるなんて僕はちっとも知らない。

 でも先生は曲を単に知っているだけでなく、その背景や曲にちなんだエピソードまでご存知なのだろう。

 僕はささやかな意地悪も込めて、こう訊いてみることにした。


「先生おすすめの何か泣けるような名曲はありませんか?」


 ついさっきまでどこかこそばゆげな表情をしていた先生だったが、僕のそのひとことでどうしたことか急に深刻そうな様相になってしまった。


「泣けるような、名曲、か。そうだな……」


 先生はそう呟きながら、顎に手をやると真剣な目つきになった。

 まさかそう真面目になって考えてくれるとは意外なことであり、無精髭がちらほらと目につく先生の横顔はかつて授業中にさえ見かけたことがないものだった。

 僕は幾分恐縮しつつも、そこまで考えてくれる先生がどう答えてくれるのかとてもわくわくしてきた。

 先生が挙げてくれた曲を聴けば、先生のことをもっと理解できそうな気がする。

 ところが、ちょうどこのタイミングで僕は役員仲間の女子に見つかり呼ばれてしまった。


「お邪魔しちゃってごめんね」


 彼女は先生と僕に一度ずつ頭を下げた。


「いや、こっちこそゴメン」


 僕はひとこと返した。

 彼女にざっと聞いたところ、あらたなる雑用の旅が始まるようだった。

 この状況を察した先生は立ち上がると、上着の内ポケットからくたびれた感じの手帳とボールペンを取り出した。


「お前、住所教えろ。今は実家にいるわけじゃないだろう」


 先生は手帳のうしろの方をめくると住所録の欄を開き、ボールペンと一緒に僕に差し出した。

 住所録には誰ひとりとして名前がなかったが、僕には意味不明なメモらしきものはいくつかあった。

 レキシントンよりフロント・ライン、また、ラジオ・ガールはシングル、などの走り書きが目に止まった。

 そんなところも先生らしさを感じたが、とにかく僕は現住所を書いた。

 インクがもう無くなりそうで掠れた文字になったが、読むことは可能だった。


「時間はかかると思うが、質問の答えはしっかり書いて手紙を送ってやるからな」


 僕は先生に「よろしくお願いします」と言うとその場を離れた。

 彼女による事態の説明から今度はトラブル発生を覚悟していたが、僕の頭では「手紙を送ってやる」という先生からの思わぬ発言が響いていた。

 電子メールではなくだなんて本当に来るものだろうか、という疑問が浮かんだが、僕は先生に言われるまま現住所を書いただけだったから、答えをもらえるなら他に手段はない。

 集まっていた役員仲間の輪に加わると先生とのことはすぐに僕の頭から消えた。

 会の終了予定時刻まで約60分ある。

 お開きまでに段取りを整えておくことがいくつか残っていたのを僕は忘れていたのだった。


 何はともあれ、会はつつがなく終わりを迎えられそうなところまで来た。

 出席者名簿の確認や会計及びバスやタクシーの手配もどうにかなった。

 一息ついたので僕は先生といた場所に戻ってみたが、先生の姿はなかった。

 念の為に諸先生方のテーブルに赴き、元クラス担任をはじめ来てくださった先生方みなさんにお礼を言った。

 そこにも無精髭の先生はいなかった。

 僕は挨拶がてら元担任の先生にそれとなく尋ねてみた。


「彼は急用ができたからと、先に帰ってしまったな」


 急用ならば仕方がないが、その急用とはどこから出てきたものなのか。


「いつも最後までつきあいのいい人なんだが、慌てた様子でな。何事もなければそれでいいんだが珍しいことだ」


 元担任の先生はそう付け加えた。

 黒縁で丸いレンズの眼鏡をかけた無精髭の先生は、本来律儀な人なのだと分かった。


 予定の時刻を30分近く過ぎてしまったが会はどうにか平和のうちに終わった。

 僕は会場のオーナーである偉大な先輩へ心から御礼を言った。

 次があるならまたお願いします、とまで言ってしまった。

 偉大なる先輩は笑顔で応じてくださった。

 参加者の多くは二次会から三次会までのことを口にしながら会場を後にし、一次会のみで帰る面々はほっとしているようやら残念そうなようやら、各々が再び自分の日常へと戻っていった。

 僕は役員仲間の打ち上げという名の二次会に参加した。

 強くもないのに一次会で飲まなかった分をたらふく飲まされた。

 おかげで三次会に出る元気はもうなかったが、会の成功を仲間と分かち合えたのは良かった。

 ガンガンする頭にフラフラとした足取りで、僕はどうにか帰途についた。

 できればそのまま現住所の部屋へと帰るつもりだったが、不可能なのは明らかだった。

 僕は仕方なく実家に電話をかけ、父に途中まで車で迎えに来てもらった上にその日は泊めてもらった。

 翌日の宿酔による不調は更にもう一日僕を実家に引き止めた。

 父は僕の様子を見て「修行が足りんな」と言って笑っていた。

 妹は「サケクサイ」と呆れながらも何かと世話を焼いてくれた。

 いちばん嬉しそうなのは母だった。

 僕は最寄り駅まで送ってもらう前に、墓参をすることができた。

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