第3話
「先生は健康についてどんなふうに考えてますか?」
僕は前置きもなくいきなり尋ねた。
そうした方が無意識の中から思わぬ本音が飛び出してくるのではないかと期待してのことだった。
「まだハタチそこそこのヤツの発言とは思えんなあ」
先生は僕の顔を見ながら言った。
「今からそんな話をわざわざしなくてもな、歳をとっていくと自然にそうした話題が増えるんだ」
「そういうものですか?」
「オレはそう思ってる」
先生のグラスはまた空になってしまった。
「この席に落ち着くまでは他の先生方と一緒にいたんだが、先生方もお前らと同じだけ歳を重ねてきた」
先生が言うまでもなく、当然の真理だった。
でもあらためて言われてみると不思議な気もした。
誰しもまったく違う人生を送っているのに、時間の経過は一律で寸分の違いもなく平等なのだ。
「オレも含めてどの先生もみんな老けちゃったけど、出てきた話題はハナっから健康についてだったぞ」
先生によると、雛形でもあるかのようだったそうである。
最近体の具合はどう?……昔よりずいぶん衰えた……身体にいい食べ物は……肩と腰はどうにもきつくなってきた……眼鏡のレンズはどんどん厚くなってる……気付け替わりにドリンク剤を……。
「そんな話ばっかりだと聞いてるだけで爺むさいと言うかだな、ますます老け込んじゃう気がするんだよ」
先生は給仕の人にビールの追加をお願いした。
栓を抜いていない瓶ビールが栓抜きと共に僕の前にいくつも並んだ。
先生は自分にいちばん近い瓶へ手を伸ばすと、迷うことなく栓抜きを使った。
グラスに新鮮な泡が盛り上がるのを楽しむこともなく、先生は快調にビールを飲んだ。
僕は先生とふたりで枝豆とミックスナッツをつまみつつ、渋々烏龍茶を飲んだ。
「学生ならもっと他に溌剌とした話題がありそうなもんだがな」
そう言われても景気のよさそうな話題はなかなか僕には思いつかなかった。
先生の発言に続くかのように、僕と先生がいる場所からフロアの対角線に位置するあたりからグラスの割れる音がして、大勢の笑い声があとに続いた。
ケガなんかしないでくれよな、という言葉しか僕の頭には浮かばなかった。
アクシデントもトラブルもハプニングも願い下げにしておきたい。
「大学では何か面白いことでも見つかったのか?」
僕は対角線に位置するあたりのことは無視を決め込んで先生との会話を続けた。
「大学には、ホント、何もないですね」
先生は豪快に「わっはっは」という感じで笑った。
あの頃もこんなふうに笑っていたなあと僕は思い出した。
なんだかひと息つけたような気分になった。
「せっかく進学できたのに、おかしなやつだなあ。だったら勉強のことは置いといても、サークルとか、彼女とか、大学生らしい話がありそうなもんだぞ」
「先生の持っている大学生のイメージと僕はかけ離れているようですね」
僕は苦笑いするしかなかった。
実際、話題に出して楽しくなりそうな出来事は、僕のこれまでの大学生活にはなかった。
今後そのようなことがあるのかどうかも疑わしいくらいだ。
といったことを話すわけにもいかないので、僕はどうにか自分から話ができそうな話題を頭から捻り出した。
「面白いこと、かどうかはまだ微妙なところなんですが」
「お、なんだなんだ?」
「まだ嗜む程度なんですが、僕は近頃いわゆるクラシック音楽を聴き始めました」
「へえ、クラシックをねえ。どうしてだ、それは?」
意外と先生の反応が良かったので、僕は言葉を続けた。
「ロックやポップスを聴かないというわけではないんですよ。いちおうジャズも聴きますし、割といろいろ聴くんです。ただ、ヒット曲に飽き飽きしてきたなあという感じがあって……」
先生はニヤニヤしながらまたグラスを空けた。
「何しろ、だいたいのものはある程度の時間が過ぎると忘れられていくじゃないですか。僕が言うのはおかしいかもしれませんけど、最近のロックやポップスはなんだか出尽くしたなという気もするんです」
「なかなか面白い話だな。それから?」
先生は僕に先を促してくれた。
「クラシックは長い年月を得てもなお
「それは確かにそのとおりだな」
「どうしてそんなことになっているのか、僕にはいったいなんでなのかさっぱり分からないんです。だったら自分で聴いてみればいいのかな、と思いまして、ひとまずベートーヴェンとかモーツァルトから聴き始めたんです」
「なるほどねえ」
先生は頷きながらそう言うと、手酌で自分のグラスを満たした。
僕が「つぎましょうか」と言う間もなかったし、手酌の途中で先生はこう言った。
「ベートーヴェンやモーツァルトはとても有名だけど、楽しく聴けたか?」
「抵抗はちっともなかったんですが、楽しいかと言われると困っちゃいますね」
先生はまた「わっはっは」と笑った。
さっきよりもずいぶんおかしかったのか、先生の笑い声は大きく響いた。
案の定、端っこにいるのにも関わらず先生と僕の方に多くの視線が集まったようだった。
先生にはそんなことはどうでもいいらしく、ちょっと席を外したくなった僕とは大違いだった。
「授業でも音楽の時間に鑑賞っていうのがあっただろう? 楽しい曲を聴いた覚えはあるか?」
そう言われてみると、授業で聴いた曲というのはテレビなどで何かしら耳にしたことのある曲で、比較的短い曲ばかりだった。
だから僕はベートーヴェンの交響曲第5番、俗に「運命」と呼ばれる曲が全曲で30分程度もかかるなんて夢にも思わなかったのだ。
僕はしっかりと聴くまでは、第1楽章の部分だけで「運命」はおしまいだと思っていたのであった。
先生はこの話を聞きながら愉快そうな表情でまたグラスを空けた。
手の届く範囲の瓶はすべて空になっていたので、僕は気を利かせて席を立ち新しい瓶を2本取りに行くと今度は先生のグラスに酌をしてみた。
先生は「ありがとさん」と言ってからこう続けた。
「実はオレ、クラシックは昔から好きなんだよな、こう見えても」
「ホントですか!」
僕はうっかり大きな声で言ってしまった。
視線が集まったかどうかは確認しなかったが、先生は照れくさそうに眼鏡の位置を直してみせた。
僕は上等な話題を出せたようだ。
先生は昔からのクラシック好きであるということなら、ちょうどよい。
初心者そのものである僕は先生にうかがってみたいことがいくつか思い浮かんだ。
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