第2話

 僕が卒業した中学校には、卒業生が成人式を迎える年に同窓会を開くという慣例があった。

 御多分に漏れず僕達の学年もその年の一月、第三土曜日に会を催した。

 この街では指折りの会館の、上等な広間を借りての立食パーティーという形式で……と決めたのは、僕を含む役員連中であった。

 つまるところ役員の手間がけっこう省けるのではないかと目論んだのだった。

 始まるまではたいへんかもしれないが、始まってしまえば自分たちもそこそこ楽しめるはずだと考えたからであった。

 当初、この計画は予算の都合で幻になろうとしていたのだが、僕達が地元の中学校の卒業生であり、実はその会場のオーナーは古い卒業生のひとりだと判明すると、偉大なる先輩は我ら後輩のために破格のサーヴィスを引き受けてくれた。

 学校の統廃合が進んで、我らが母校もその名を消してしまったというノスタルジックな理由もあったかもしれない。

 ともあれ、僕が役員らしき仕事をしたと胸を張れるのは、この交渉が全てだった。

 そもそも僕が会の役員になったのは、卒業時にクラスの代表委員であったからだ。

 じたばたしたところでどうにもならないことなので、僕はおとなしく粛々と役員による数回の事前ミーティングに参加し、交渉を担当することにした。

 役員というものを好ましく思っていない僕にとっては嫌がらせのようなものだったが、他の役員連中も多かれ少なかれ似たような気分だっただろう。

 だからこそ僕は自分の手抜きのためを考えて真剣に交渉に望んだのだ。

 何が幸いするか分からないものである。


 ところが、いざ蓋を開けてみると次から次へとこまごまとした雑用が豊富に湧きだし、僕には手を抜くことを考える余裕さえなかった。

 ワイヤレスマイクの故障とか、予定していた先生のスピーチが先生の欠席というドタキャンによってどうしてもできなくなったとか、在校当時に撮影されたスライドがプロジェクタに詰まったとか。

 とかとか。

 偉大なる先輩の配慮のおかげでサーヴィスが至れり尽くせりなのに対抗してか、アクシデントは負けず劣らず勃発した。

 今も地球のどこかでアクシデントは発生を続けているに違いない。


 やっとのことで幾多のアクシデントが一段落した頃には、僕はたくさん集まった旧友の輪の中に溶け込む気力を失くしていた。

 ましてや役員仲間を除くほとんどが5年振りに会う奴等だった。

 僕は役員がもたらした精神的且つ肉体的な疲労を引きずり始めていたし、今更自分からタイミングを作るのも面倒だったから、大きな広間の端っこにこぢんまりとしたテーブルがあったことを思い出すと、そこでぬぼーっとしていようと決めた。


 僕が足取りも重くうつむきがちに目的の場所へ向かうと、既に先客がいてビールを呷っていた。

 彼は理科全般を担当してくれた先生だった。

 ざっと見たところ料理を食べていた様子はなく、空き瓶ばかりが5、6本目についた。

 見る間に先生はまた1本空け、でもまだ物足りない様子をしている。


 先生は以前から眼鏡をかけていた。

 あの当時は銀縁だったと僕は記憶しているが、現在の先生は黒縁で丸いレンズの眼鏡をかけていた。

 僕は先生の雰囲気に愛嬌が加わってますます近寄りやすい人になっていると感じた。

 先生が眼鏡をかけるようになったのは、パソコンを使い始めてからあっという間に視力が悪くなったからだと授業で聞いた覚えがある。


── みんなもパソコンをいじることが多いと思うけれども、くれぐれも目には優しく、こまめに休めた方がいいぞ。


 確か先生はそんなふうに言って笑っていた。

 もう5年ほど前になるのかと思うと僕は妙な気分だった。

 なるほど、時間は過ぎてみればあっという間なのだと僕は実感できた。

 先生は今年でキャリアは10年ほどのはずだ。

 僕達の学年とは干支でひと回り違っていたと記憶している。

 早生まれの連中はひとつずれていることになるが、8月生まれの僕とは干支が同じというわけだ。

 僕は今年、数えで21になったから、先生は33になるのだ。

 おそらく僕よりも時間の経過をもっと早く感じているだろう。

 僕はそう思い至った。

 年々、歳を重ねるに連れて時間の経過を早く感じるようになるのだと、さまざまな場面で耳にしている。

 本でも読んでいたかもしれない。

 ただ、ある年齢にさしかかると次第に遅く感じるようになるらしい。

 その頃は僕もそこそこ老化しているはずだ。

 今から想像するのは無理があるけれども、会社勤めをしたと仮定して定年になってリタイアすれば、趣味でもないと何をしていいか分からなくなりそうだとは思う。

 僕には音楽鑑賞と読書があるから大丈夫だと思っているのだが、先生が言ってたように目を悪くしてしまうと読書はきつくなってくるだろう。

 老化と共に耳が聞こえにくくなることも考えられる。

 そうなると音楽鑑賞もきつくなってしまう。

 体力が落ちてくるのはある程度仕方ないことかもしれない。

 ただし、視力と聴力はできるだけ維持しておきたいものだ。

 無論それだけではなく、五感はいずれも大事にしていくつもりでいる。

 僕にとって「健康」とは、体力の問題だけではなく、こうした五感に、ひょっとしたら持っているかもしれない第六感も加えた能力を保持してこそなのだ。

 時間の経過に加え、「健康」について僕よりひと回り年長の先生はどう感じているだろうか。

 先生は僕のすぐそばにいるし、その辺りのことをどう実感しているのだろうか。

 僕は先生の意見を聞いてみたくなった。


「おお、久しぶりだな」


 僕が話しかけてみると先生は開口一番そう言った。


「僕を覚えていてくれましたか?」

「あのなあ、何十年も経ってるわけじゃないだろう。オレだってお前らより老けてはいるがまだまだ衰えちゃいないぞ」


 それはそのとおりだ。

 三十代前半で老け込んでしまうとしたら、只事ではない凄まじいショックでも受けない限り有り得ないだろう。

 少なくとも僕はそう思う。


「どうだ、お前も一緒にビールでも引っ掛けるか?」


 先生にせっかく誘ってもらえたのだが、残念ながら僕はこの会が無事に終わるまでは気が抜けない立場だった。


「ごめんなさい。また次の機会につきあいますので今日のところは勘弁してください」


 僕はそう言わざるを得なかった。


「そうか、役員だったっけな。ご苦労さま」


 先生が役員のことまで覚えてくれていたのは、僕には嬉しく思えた。


「またの機会とはいつになることやらだが、楽しみに待つとするか」

「是非そうしてください」


 先生は僕達の学年では理科を担当していただけで、クラス担任や副担任にはなっていなかった。

 一方、部活では生物と地学部の顧問を掛け持ちしていた。

 僕は陸上部で中長距離をメインにしていたから、校舎の外、校庭や校外を走り回ってばかりだった。

 文化系のクラブとはとんと縁がなかったのである。

 そのため、先生がどんな顧問だったのか直接は知らない。

 三年の時分のクラスメイトに生物部に入っていたヤツがいたから、僕は興味本位で先生の顧問ぶりがどうなのか訊いてみたことがあった。

 彼によると、先生は授業のときと変わらず、明るく気さくで頼りになる顧問だとのことだった。

 基本的に部員のやりたい活動を制限することなく受け入れてくれて、野外活動を希望すれば毎回きちんと予定を合わせて着いてきてくれたそうである。

 そのようなことは顧問なら当然なのかもしれないが、部活にかまうことはせず放ったらかしの顧問が大勢いたことを思うと、先生は確かに頼れる存在だったに違いない。

 僕の記憶の中でも、先生は他の教師陣とは一線を画していたと思う。

 そう感じていたのは僕の他にも生物部の彼を含めたくさんいたことだろう。

 僕がいたクラスの担任が嫌いだったわけではないが、何かにつけて話すと楽しいのは僕にとってはたったひとりしかいなかった。

 その人は他でもない、僕のそばで今グラスにビールを注いでいる先生だった。


 先生は背が高く声は大きい人だから、第一印象では体育教師のように見えた。

 普段は白衣を着ていることが多かったのですぐに理科を担当していると理解できたものの、白衣を着ていなかったら体育教師で間違いないと思い込んでいたかもしれない。

 いつか雑談をしていたとき、先生は大学までバスケ部に所属していたのだと聞いた。

 ますます体育教師っぽいと僕は思ったものである。

 先生が校庭や体育館にいることは全校集会くらいのものだった。

 理科教師なのだからそんな場所にいたなら変なことなのに、ときどきはいない方が不思議に思えるくらいスポーツ向きに見えた。

 今日久しぶりに会ってみても、この印象はちっとも変わっていなかった。

 中年と言ったら先生は気分を悪くしてしまいそうだが、中年太りとは無縁のすらっとした体型のままだし、声も相変わらずよく響くし、明るく元気で気さくに接してくれたのもそのままだ。

 だから僕はさっき先生と向き合ったとき、すぐに中学生だった頃の気分を思い出すことができた。

 クラス担任を初め他の先生方に挨拶をしたときはそんなふうに思うことはなかった。

 この事実は僕を嬉しくさせていた。

 さすが「先生」だと僕は思ったのだった。


 僕は先生の隣の椅子に遠慮なく腰を下ろした。

 ビールの代わりに烏龍茶の入ったグラスを手にしていた。

 先生は自分からグラスを僕の方に差し出すと、小さい声で「乾杯だ」と言った。

 上等な広間の端の席で先生が小声なのはなんとなく可笑しかったから、僕は自然と笑顔になった。

 もちろん、喜んでグラスを合わせた。

 なかなかいい音が聞こえた。

 ふと広間を見渡してみると、先生と僕のように賑やかな人だかりを離れている姿はひとつもなかった。

 先生をひとりきりにしてしまう状況を避けることができたのは、たまたまの事だとはいえ冴えた判断になった気がした。

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