Adagio(アダージョ)*

カワヤマソラヒト

第1話


 夏休みだからといってそう毎回帰省することはない。


── お盆はあちこち混雑するから、お盆に合わせて来なくてもいいよ。


 そう言われたところで、年末年始には顔を出していることだし、ときどきはこんなふうに電話だってしている。

 いちいち実家に帰って顔を合わせなくても要件は充分に伝えられる。

 それに今の自分は、地元に用事がない。


── お墓参りはしてほしいけど、行ければいつだっていいから。


 ご先祖をないがしろにしているつもりはない。

 自分なりに敬う気持ちは昔からある。

 しかし、墓に皆さんがいらっしゃるとは到底考えられない。

 もしかしたら、墓というのは皆さんへの取次窓口だろうか?

 帰省したらしたで、いつも会っている友だちがいる。

 かつての同級生たちだ。

 連絡したらまたいつものように楽しく盛り上がれることだろう。

 でも、わざわざそのためだけに戻ることもないし、また次の年末年始には帰省する。

 これは決定事項で立場上回避できない。

 その時には必ずかつての同級生たちに会うだろう。

 卒業以来見かけたこともない顔だっていくつも揃うかもしれない。


── そうね。そのときでかまわないよ。


 母は結局僕の意見を受け入れてくれた。

 いつもそうだった。

 だからきっと今回もそうなる。

 僕は確信していたから一歩も引かなかった。

 それで母が特に悲しんでいるようにも感じられなかった。

 うちに限ったことではなく、どこの家族も似たりよったりだろう。

 いつまでも親にベッタリしているのはむしろおかしい。

 僕は常々そう思ってきたし、母だってそう思っているに違いない。

 母との電話を切ってから、僕はまた自分の考えを反芻した。

 よりふさわしい考えが他にあるとはまったく想像できなかった。


      *


 慌てなくたって、年末年始は絶対にやってくる。

 しかも思いがけなく速いスピードで。

 課題のレポートに振り回されたり、時にバイトをしたり、誰かのノートをコピーしたりするうちにいつの間にやら息が白くなっている。

 やたらと星が綺麗な気がしてしまう。

 そのとき目にしている煌めきが実際はいつのものなのかなどといちいち気にすることはない。

 やるべきことはたくさんある。

 そのすべてをこなせるとは思えないくらい。


「また一年が終わっちゃうんだな」


 友人にノートを返したとき、彼はそう言った。


「ついこの間入学したばかりだって気がしない?」


 言われてみると、真っ向から否定することはできない気がした。

 彼はさらに言った。


「二年生もすぐに終わっちゃうんだな」

「留年しなければね」


 僕は冗談交じりにそう応えた。

 いつもつるんでいる仲間たちは今度の試験もきっと大丈夫だろう。

 その根拠は彼のノートが相変わらず実に素晴らしいからだった。

 仲間たちは僕も含め彼に頼っており、彼は嫌味のない笑顔で気持ちよくノートを貸してくれた。


── テストの二日前には返してよ。


 それが彼のノートを借りるためのたったひとつの条件だった。

 僕たちは上手くコピーをとらせてもらう順番を決めて、その条件を履行した。


「ところでさ、年末年始は帰省する?」

「ああ、年末年始はね」


 彼に訊かれた僕は素直に答えた。


「夏休みには帰らなかったんだっけ」

「そう。帰ったところでやりたいこともないし、実家との往復も面倒だし」

「なるほどねえ、そういう考え方もあるわけか」


 彼は感心しているようだった。

 返したノートを丸めて、自分の肩をポンポンと叩いていた。


「僕の考え方はおかしいかな?」

「いやあ、そうは思わないよ。オレはそんなふうに考えたことがないってだけで」

「ん? いつも律儀に帰省してるタイプだっけ?」

「そうだねえ、帰ったほうがいいだろうなと思っちゃって。日にちが一日だけだとしても帰るようにしてるなあ」


 彼の言葉は丸められてしまったノートの中身と全く矛盾しない。

 僕にしてみれば畏敬の念に打たれたくらい律儀なものだった。


「兄貴がいたんだけどさ」

「へえ、それは初めて聞いたな」

「まあねえ、わざわざ話すようなことじゃないしね」


 彼の言うとおりだった。

 いつも仲良くしている連中だとしても、自分の家族の話題を積極的に出すことはまずない。


「でね、オレにはひとり兄貴がいたんだけどさ、三つ上の」


 彼が繰り返したので、僕は気がついた。


「ということは」


 僕は言った。

 彼は自然に答えてくれた。


「うん。もういないんだよねえ」


 彼の兄は気ままに「我が道を行く」ような人だったそうだ。

 高校を出ると家を離れ、一度も帰省をしなかった。

 初めて連絡があったのは、見ず知らずの女性からだったという。


「オレはその場にはいなかったんだよ。でもさ、学校から帰ってみると雰囲気がおかしいのがすぐ分かって」


 彼は苦笑いをしながら言った。

 まだ丸めたノートで肩を叩いていた。


「いつものように居間に行って、母親に『ただいま』って言ったらさあ、こっちを向いた顔が真っ白く見えてさ、なんだか呆然としてたんだよねえ」


 彼は苦笑いのままそう言うと、肩を叩くのはやめた。


「つまらん話をしちゃったなあ。ごめん」

「そんなふうに言ってもらうことないよ」


 僕は間を置くことなく否定した。


「だからまあ、オレも兄貴とおんなじで家を出ちゃったけどさあ」

「ああ」

「オレはなるべく帰ったほうがいいよなあと。そう思って、疑問に感じたことがなくって」


 僕は理解した。


      *


 僕に兄はいないが、ふたつ下に妹がいた。

 帰省すれば当然妹と顔を合わせることになった。

 前回の年末年始に帰省した際は、まず妹の苦虫を噛み潰したような表情を見ることになった。

 別に兄妹の仲が悪いと思ったことはなかったから不思議だった。

 ひょっとしたら僕の妹でも難しいお年頃になったのかもしれない。

 僕はそう思った。

 その後の妹はこれと言って妙なことはなかった。

 でも、三が日を過ぎて僕が実家を後にするとき、妹は駅まで着いてきた。

 何事かと僕は思った。

 話したいことがあるのだろうとは予想していた。


「お父さんは全然気にしてないよ」


 妹は言った。


「何をだ?」

「アニキがあんまり帰ってこないこと」


 確かに父がそんなことを気にするとは思えなかった。


「けど、お母さんは違うから」


 妹のその言葉はとても意外だった。


「私は、お父さんと同じだけど」


 妹のにやにやした表情を確認してから、僕は改札を抜けた。

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