適法ドーピング
小早敷 彰良
第1話
心臓が高鳴る。血液が脳に通常の十倍の濃度の酸素を供給する。一呼吸ごとに身体がばらばらになったかの様な衝撃が走る。そしてその一つ一つ、赤血球が酸素を運ぶ様一つ一つすら私の目には見えている。
同時に、一粒出した瓶をしまう私の右手を、倒れた警備員が絶望した表情で見つめているのも見える。
「なんだこの有様は、タバコとマリファナだ」
何重にも反響して聞こえる声に出してみれば、状況がよく理解できた。
周囲では人が何十にも折り重なって倒れている。血を流している人もいれば、うめき声をあげている人もいる。
ベビーカーがひっくり返っている。つまり近くにはきっと投げ出された赤ちゃんがいるはずだ。
ひどい有様だ。
経緯は覚えていた。
私は今日百貨店にやってきた。やたら安く美味しい果物を売る店に寄りたかったのだ。
休日の百貨店は混んでおり、家族連れも多かった。果物店も例外ではなく、レジは大混雑している。
果物一個だけ購入するというのは時間の価値に見合わない気がする。
追加を買おうと店内を見まわした私は、奇妙な瓶詰を見つけた。
それはドライフルーツの瓶詰だった。赤黒い数十粒が詰められており、幾何学模様のラベルが貼られている。
中身は一体何だろう? 名前を聞こうと立ち上がった拍子に細身の男性にぶつかった。
いや、覚えているのはここまでだ。
「空気が黄色い、好きな人に見せたい」
「もはやミスター嘔吐って名乗れ、緊急搬送してやる」
「死ぬくらいならプライドをウクライナ化うまい棒」
言語野がおかしい。笑いが止まらない。回想にすら自分に邪魔されるのは奇妙な感覚だった。
眼下の男の顔は驚愕に歪んでいた。
それもそうだろう。先ほど突き飛ばした一団にいた人間が、一足飛びで自分の頭上にいるのだ。
「複数の化け物だッ!」先程の警備員が数百メートル向こうで叫んでいる。
跳躍した私と、超能力を用いて周辺を散々に荒らした眼下の男のことを言っているらしい。
彼の隣にいる細身の男の方がよっぽど化け物なのにひどい言い様だ。
数百メートル先で、空中にいる時間は数秒もなかったのに、自分には彼は目前にいるように感じられた。ならば、と私は恨み言を発する。
「貴方は、宝島、出来たのに、レジストリ」
「ああ、お前にはこの問題に対処出来る力があると言いたいのか」
その男は冷静な目でこちらを見ていた。
「確かに僕には力がある。君にしたのは暗示だ。その果物を食べれば、まるでアメコミの主人公のように振舞えると。ああ、自分でも出来る芸当だ」
断言した。
「断固として断る。僕は英雄になりにここに来たのではない。果物だ。ラズベリー、それが無性に食べたい。別の店に行くよ」
私は細身の男が去る姿を見て、超常のものと日常的に対峙する存在を知った。きっとそれは彼らだけでない。
今までの常識が終わった。
ドライフルーツの瓶を見つけて、男の顎を思いきり殴りぬくまで、ちょうど5分の出来事だった。
適法ドーピング 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa
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