2.2

 ラーティン帝国歴1807年6月7日の昼下がり。

 完全に雨季に入ったラーティン王国は、雨季特有の激しい雨に包まれていた。

 外を歩くと三歩で服の濡れていない部分はなくなってしまう。

 それほど強い雨が窓を打ちつける中、ユキコは部屋の中で一人途方に暮れていた。


 獣化する恐怖は、獣化していた時から四日経った今でも忘れられない。

 体が全く違うものに変えられていく。

 指が、爪が、足が、体が、顔が原型をとどめない。

 とどめようとすることなどできない。

 心臓を捕まれ、脳を捕まれ、人知を超えた何かを神というのであれば、あれはまさに神の所業。

 他人が自分を操作し始めていることが体感として得られていた。


 あれほど、自分の中に自分を感じなくなった経験は無かった。

 本能が強くなる。

 そういった場面が少なからず人にもあるが、獣化症の場合は常時それが続く。

 常に食べたい。

 常に動きたい。

 常に噛みつきたい。

 常に寝たい。

 

 常に……殺したい。

 

 人間性の消失。

 まさしく、人では無くなる。

 

——あんな体験はもう二度とごめんだわ……。


 ユウトの出していた論文。

 ユキコはあまり詳しくは読んでいなかったが、あながち間違いじゃないのかもしれないと彼女は思い始めていた。

 彼の論文の仮説では体内のEEが完全に枯渇すると獣化症になるとあった。

 

——私にそんな状態がいつの間にか発生してしまったのかもしれない…………。


 不意に左手の中指がぴくっと動く。


 ユキコはしばらく中指を見つめ続ける。

 中指はしばらくじっとしている。

 ユキコが恐る恐る中指を動かしてみる。

 思い通り動く中指。

 体の動きが自分の意思に反しないことがどれだけ素晴らしいことなのだろうか。


「ふぅぅぅぅぅぅぅぅ………………………!!!」


 ユキコは大きく吸った息を思い切り吐く。


——私が行った実験はある意味で成功だった。

——私は獣化症の存在を確認した……。


 ユキコの変化は最初は、全身の産毛が少しずつ白くなっていくことから。

 頭にも艶がある私の自前の髪の毛とは違う、硬く強い毛が混じるようになった。

 それが、動物らしい毛であると気がついた時、正直、ユキコは焦った。

 日をまたがず、すぐに全身から白い毛が生えるようになった。


 髪の毛はもともと白かったから問題なかったが、顔中に生えてきてしまった時には必死で剃った。

 背中に生えてきたときにはサコに剃ってもらった。

 

——そして、ユウトを私付きの専属医師とした。


 もちろん、それだけが理由だったわけではないし、彼の役割は別に用意していた。

 だが、ユキコは獣化症を発症してしまい獣化症を治せるのは彼だけだった。

 彼は原因をすっ飛ばして治ったと言う結果だけを約束する“ギフト”を持っている。


 さらに、ユウトは獣化症について研究までしている。

 ユキコ自身は、実際に自分がその症状になるまで信じてすらいなかった。

 おとぎ話に出てくる病気。

 ユキコはユウトを自分付きにして、実際に獣化症になってみることにした。

 

 だが、徐々に進むと思っていた変化は突如訪れた。

 ユキコは獣化症を完全にナメていた。

 午前中に現れ始めた症状は草を食べたいという欲求が強くなる程度だった。

 そこで、ユウトに会うわけにはいかなかったからベッドの中で必死に耐えていた。

 午前中の公務を終え、昼御飯を食べた後、自室で本を読んでいたら全身がいっぺんに変化を始めてしまった。

 あっという間に全身から毛が生え顔も体も人ではなくなった。

 

 ユキコは慌ててチコとサコにユウトを探しに行かせたが、エリュシダール家から追放されていた。

 大学にもいなかった。

 私はその話を聞いて呆然としてしまった。

 二人にはとにかく見つけるように言い聞かせ、部屋でじっとしていた。

 その間も変化は続き、ついに見た目が完全にうさぎになって絶望したとき。

 ユウトが窓から現れた。

 

——どれだけ嬉しかったことか。どれだけ安心したことか。

 うさぎでは涙が出なかったが。


 だが、彼は捕らえられた。

 カントが現れ、私の目の前からユウトを連れ去ってしまった。


——あいつ、一体何を考えているのかしら……!

——私の声が出ないのをいいことに、幅を利かせ始めた……。

——なんとかしないと…ユウト………!


 頭を抱えてベッドに座り込むユキコ。

 ガチャリと扉が開く。

 サコがしずしずと部屋の中に入る。

 こんなふうに部屋に入ってくるのは突然の無礼な来客の時であり、ユキコは客の対応に気を引き締めなければならない。


「姫様。失礼いたします。お客様がおみえです」


「姫様、体調はいかがですか?」


 サコの後ろから現れたのはカントだった。

 近衛兵隊長の白くまぶしい制服に身を包み、ビシッと敬礼をする。

 ユキコはベッドの端に座り自分のドレスのシワを払うと彼に対して微笑み、頷く。

 そして、手で続きを促す。


「今、ユウトを捕らえ姫様の声を取り戻す方法を聞き出しております。

 ですが、なかなか口を割りません。

 声が出ずご不便をおかけしておりますが、今しばらくお待ちください」


 カントは恭しく一礼して、謝意を表す。

 ユキコはサコに目配せをして紙とペンを取り出させる。


 ユキコはサラサラと流れるように文字を書く。美しい流線型が描かれる。


『ユウトはどうしていますか?』


 カントはそれを読んで顔をしかめる。不機嫌を全く隠すことなく言う。


「ユウトは地下牢にしっかりと収容しております。

 姫様を蹂躙しようとした罪は重罪です。

 それに姫様の声を奪うという卑劣。

 大変厳しい拷問を施し、必ずや、姫様の声を取り戻す方法を聴き出しますので。

 ご安心ください!」


『拷問するのやめてあげて欲しいのだけれど。

 声を戻す方法は無理して吐かせなくても教えてくれるはずよ』


 ユキコのその主張に対しては高笑いするかのように言う。


「おや、誰かから拷問の話を聞いたのですか。

 ですが姫様のご命令と言えど、そうはいきません。

 一度は彼を専属医師とした情けからそうおっしゃっているのでしょうが、彼からは情報をきちんと聞き出さなければなりません。

 慈悲はありません」


 カントはそう言うとユキコを下から舐めるように見て、言う。


「姫様、私が声を取り戻す方法を聞き出した暁には、ディナーの席を設けます。

 ぜひ、共に食事などいかがでしょうか?」


 よく、拷問の話からそんな誘い話につなげられたものだ。

 厚顔無恥。人は恥をわきまえてこそ輝くのだ。


——あんたなんかに、私はもったいないわ。

 ユキコはそんな心の声を表面にださず、にこっと笑いかける。

 そしてすっと紙に書いた言葉を見せる。


『いいですね。ぜひ、ご一緒させてください』


 カントは鼻の下を伸ばし、嬉しそうに笑いかけるとこれまでで一番深い礼をして部屋から出て行く。

 サコはそんなカントの背中に向かってべーっと舌を出す。


 カントが完全にいなくなったことを確認してサコが何か言おうとした時、ユキコは口に人差し指を当ててシーっ!っとサコに伝える。

 そして、筆談が始めた。


『サコ、ダメよ。どんなに気持ち悪いって思ったとしても滅多なこと言っちゃ。

 この部屋は監視されてるの』


 サコは面食らった顔をする。

 サコはさらさらとメモ帳に言いたいことを書き込む。


『監視!?誰か見ているのですか?』


『どういう風に監視されているのかはよくわからないけど、間違いないわ。

 ユウトが捕まるまでの時間が短すぎるもの。

 おそらく、真っ先に突っ込んできたところからすると、監視している現場主任はカントね』


『カント様が……。だとしたらこの筆談もまずいのでは?』


『それは大丈夫だと思う。

 もし、中の様子まで見れるのであれば、私がうさぎになっていた時点でもっと騒ぎになっているはず。

 流石にカメラを仕掛けるということはしていないはず……。

 していたとしてもそういった類はサコやチコが掃除の時にくまなく確認している。

 千里眼のような“ギフト”も考えられるかもしれないけれど、やはり、私がうさぎになっていたことが話題にならないのはおかしいもの。

 つまり、この部屋を監視する方法は盗聴くらいしかないということになるわね』


『それにしても、変ですね。

 そもそも、ユウト様は専属医師として姫様の裸体をみることの許されている人物。

 それが、夜な夜な診察していたところで近衛兵団が口出しできるところなどないでしょうに……』


 ユキコは深刻そうに頷くと書く。


『そう、私もそれが不思議なの。

 いったい何の理由でユウトは捕らえられたのか。

 カントが言うには私を蹂躙しようとしたからって言う罪みたいだけど……。

 なぜ、私の証言なしにその罪になるのか……』


『ですが、姫様。王族には。声なき者は語るべからずと言う習慣があります。

 声を奪われた者は奪われるだけの理由があるとのことから、発言を許されません』


『そうなんだよね。

 私がこうして筆談で主張したとしてもそれは全て却下されてしまう。

 今や、第一発見者のカントが罪のありかを決める立場になっているけど。

 何か引っかかるわね』


 サコは考えこむユキコをしばらくじっと見つめていたが、ふと紙に書き込む。


『ユキコ様はどうしてユウト様が拷問されていることがわかったのですか?

 どこからもそんな情報は入っていませんが?』


『それがね』


 ユキコはこの話題になった途端、とても辛そうで、悲しそうな表情になる。


『私、ウサギになってたじゃない?』


 サコは同意を求めるユキコに対して頷く。


『ユウトに治してもらったんだけど、あれからすっごい感覚が鋭くなったの。

 今では宮殿内の音が大体全部聞こえるのよ。

 残念ながらまだ慣れてないせいかはっきりと聞き取れないんだけど』


『つまり、姫様はユウト様の声が聞こえると?』


『ええ。多分地下牢のどこかだと思うんだけど、詳しい場所まではわからないの。

 さっきも聞こえてきたけれど、何であんなに痛めつける必要があるの?

 もう悲鳴が聞こえなくなってしまった』


 今にも泣き出しそうなユキコにサコは心配そうに書く。

 

——この人は情け深い人だ。一度、味方と決めた以上、絶対に見捨てたりはしない。

 サコはそのことを身を持って知っていた。


『私かチコ、ミギトが調べて来ましょうか?』


『待って、誰か訪問して来た』


 ユキコはそう書く目に溜まっていた涙をぬぐい、とサコにペンと紙をしまうように指示する。

 しばらくすると、チコが部屋の扉をノックする。


「姫様、ルビロト科学大臣がおみえです。何かお話があるようですが」


 サコとユキコは目配せをする。


「入っていただいて結構ですよ」


 サコがそう言うとチコは扉を開ける。

 部屋の中に物腰柔らかそうな初老の男が入る。

 そして、一枚の書状を片手に姫の前に膝をつく。


「姫様。お部屋に通していただき誠にありがとうございます。

 実は急ぎ、お伝えしなければならないことがございます。

 こちらの書状をご確認ください」


 ユキコはサコに目配せして書状を取らせる。

 サコは書面を大臣から受け取り広げるとユキコの前に出す。

 書面を読んだユキコの血の気が下がっていくのをサコは見た。


「失礼します」


 サコはユキコ宛の書面を読む。

 本来であれば主人への書面を従者が読むのは失礼にあたるが、ユキコの表情を見れば、致し方ないことだったろう。


「ユキコ・フォン・ラーティンの婚約者を……」


 サコは目をこすり、もう一度その名前を呼んだ。

 だが、読み間違いではなかった。

 なぜ、どうしてと言う疑問符が頭の中を駆け巡る。

 

——だって、姫様の婚約者は!


「婚約者をカント・カルデルナールとする。

 ラーティン帝国 第百三十一代帝王 ドワイト・フォン・ラーティン」


 丁寧に帝王の印まで押してある。

 これは帝国の正式な書状だということである。

 どこからどう見ても本物の書状だった。


 サコはユキコの顔を見る。

 あまりの話に姫様といえど面食らっているらしい。

 そして、ルビロトの顔。こちらは落ち着き払っている。

 急ぎ伝えたいことがあると言うわりには落ち着きすぎている気がする。


「これは……どう言うことでしょうか?」


 思わず、サコは問いかける。


「書いてある通りでございます。ではお伝えしました。私はこれにて」


 そう言うとルビロトは立ち上がり、うやうやしく一礼すると部屋から出て行く。

 ユキコは爪を噛む。

 そして、サコに紙とペンをもう一度出させると書く。


『何もかもが早すぎる。

 確かに、声を失った王族は自分の意見を言ってはいけないことになる。

 でも、私が声を失った途端、私専属医師のユウトは牢屋送りにされ、カントが私の一切を取り仕切るようになり、私の婚約者まで変更になった』


 サコは慌てて走り書きする。


『もう、私には何が起こっているのか、さっぱりわかりません!』


『私も、わからないわ。

 でも、この宮殿内で何かよくないことが起こっているのは確か。

 だけど、それが一体どこを目指しているものなのか、全く、見当もつかない』


 そこへチコが部屋の中に入る。

 チコは思い切り喋り始めようとする。


 サコはさっとチコの後ろに回るとチョークスリーパをチコにかける。

 顔が真っ赤になってしまったチコに、ユキコはシィーっと指を口に当てて静かにっっと伝える。


 チコを放してあげたサコはチコに紙を渡し、ここまでの会話を共有する。


 そして、チコが何かを書く。

 几帳面で角ばったサコの文字とは対照的で丸く伝われば良いと考えている文字。


『なにか、政治的な思惑でしょうか。姫様に自由に動かれては困る連中がいるとか』


 ユキコはチコの文章をじっと見つめていたが、スラスラと書き始める。


『チコの予想は正しいでしょうね。

 表面にはカントばかり出て来ているけれど、一近衛兵団隊長が扱える権限の範囲を大きく超えているもの。

 私がやっていることなのか、やろうとしていることなのか。

 私がやろうとしていることを快く思っていない人間がいると言うことはわかるわ』


 そこにサコが書き加える。


『姫様を困らせたい人物……?』


『でも、王位継承権の争いじゃなさそうですね。

 もし、王位が欲しい人間がいるなら、姫様を確実に殺しますから』


 チコの言葉にサコは眉をひそめる。だが、ユキコははっとする。


『いや、待って、そうよ。私は事実として、死にかけたわ。

 うさぎとして生きて行くことになる手前だった。

 うさぎになってしまったら死んだも同然だったもの。

 声を失うだけに留まったのはユウトがいたから。待って!とすると……!』


 ユキコの目は見開かれる。


『…私を狙った人物は私が獣となることを見越していた?』

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