1.5
ユウトの願いも虚しく、あっという間に家の前についた。
家の門の前には父、ミサトが立っている。
「どこをほっつき歩いていた?」
「すみません。バーで飲んでいました」
ミサトは怒りを抑えるかのように深呼吸をする。
邸宅の前で怒鳴りつけるわけにはいかなかったのだろう。
だが、ユウトは彼の右手を見る。
赤く腫れ上がった手。間違いなく、父親の机は穴が空いているはずだ。
「いい加減にしろ!」
父親の拳はユウトの目にはとても緩慢だった。
避けるなんて簡単だった。
だが、避けなかった。
真っ赤に腫れた拳がユウトの左ほほにめり込む。
「ぐっ……!」
しかし、ミサトの拳は重くなかった。
ユウトのためを思っての拳ではなかった。
自分の恥を、自分の思い通りにならないコマを、自分が傷つかないように殴っただけだった。
ユウトはミサトを睨み返す。謝罪はしない。
もともと切れていたはずの縁だった。
「結構だ。これはお前の選んだ道。
お前など、我が家の人間ではない。
人間のゴミめ。
エリュシダール家に生まれた人間の義務を果たせない人間は出て行け。
今すぐだ」
ミサトはそういうとさっさと家の中に入った。
初めて見る、父親の本気で怒った顔。
これまでは侮蔑の表情しかみたことがなかった。
今回の件でどうやら、父親の尊厳を相当傷つけられたらしい。
——謝るために中に入るべきか?誰かに助けを求めるべきか?だが誰に?
——俺にはもう頼るべき人はいない。
——そもそも、俺は元の生活に戻りたいのか?
ユウトは悶々と悩む。
だが、結局家に背を向けるとあても無く歩き出す。
道沿いに歩いていればどこかに着くだろう。
今後どうするかはゆっくり考えていけばいい。
——正直、もうこの家に居場所はない。
——思い返せばあまりいい思い出もない。
エリュシダール家は代々優秀な医者を輩出する家として王国に地位を保って来た。
ミサトも親に英才教育を受け育った。
そして、その情熱は特に長男に向けられる。
長男のカズトは幼い時から父、母による教育を一身に受け学校での成績で誰かに負けたことはなかった。
次男として生まれたユウトは大して教育を受けて来たわけではない。
それでも学年トップから外れたことはない。
同時代の兄と比べるとその差は歴然だったが。
問題はエリュシダール家の中での地位だった。
我が家では医者としての技量が大事だった。
医者としての知識、技量、患者からの信頼。
それら全てが家の中での地位を決める。
——そして俺は手術をしてこなかった。
エリュシダール家の伝統として、手術は人間の手が最も清潔な状態である素手で行われる。
中には手袋をつけるべきだと主張する医者もいる。
だが、素手以上に清潔な状態の手袋を作る方法がない。
手を洗った方が早いのだ。
ユウトは素手でメスを握った途端、鉄板に戻る。
そして、何より、健康な時を知っている患者であれば素手で患者を触った途端患者は一瞬で全快する。
たとえどんな病気・怪我であったとしても。
ユウトは手術を練習する時などなかった。
ユキコとの約束もあった。
血が苦手という理由で手術のできないユウトは家の中での地位を失い、ついに人の患者を奪い卑怯者として認知されるに至った。
「……これからどうしようか……」
——正直、街の中にいても医者としては活動できない。旅にでも出ようか……?
「なんにせよ。これからは一人で生きていく。
俺は誰にも邪魔されない。そんな、辺境の地で医者の真似事でもしよう」
ユウトはこの街に対する未練があるかを自問する。
「そうだ、ユキコ。背中にあった切り傷、あれがなんだったのか。
最後に直接聞いてからにしよう。旅をするなら後悔は少ない方がいいからな」
ユウトはそういうと道路に向かいタクシーを捕まえる。
全自動運転でタクシーは宮殿の入り口、大きな門の前に止まる。
ユウトはタクシーから飛び降りると門を無視し、壁沿いに走る。
宮殿の壁際には植木が植えられている。
それが広い宮殿を一周囲っているが、一部入れるようになっている場所がある。
「ここだ。久しぶりだな」
ユウトはそういうと地面においてある木の板を開ける。
木の板の下には小さなトンネルが掘ってある。
城壁の下を通り宮殿の中に入るための裏道だ。
ユキコの提案で俺とカントが掘った。
この穴を掘るだけで一ヶ月ぐらい時間を使ってしまった。
カントがあまり手伝ってくれなかったのでほとんどユウトの作品になっていた。
ユキコはというと後ろに立って指示出しと見張りと言いながら寝ていた。
「通れるかな……?」
子供の頃に掘ったトンネル。
今でも……………通れた。
城壁は地下まで及んでいるがその深さはあまりない。
子供でも何日かかければ通ることのできる穴を掘ることができた。
ユウトはスーツについた土をパッパッと払うと周囲の状況を確認する。
宮殿の裏側、昼間であれば人が来ることはない場所。
だが、夜間の警備兵はむしろこう言った目立たない場所を厳重に警備している。
——警備パターンが随分前から変わっていないから、すり抜けるのは簡単だな。
ユウトは警備兵の隙間を縫ってユキコの部屋のベランダの真下に着く。
ユウトはまたも近くの植え込みに飛び込むと、木の箱を開ける。
中からかぎつめのついたロープが出てくる。
「緊急用。外に出ていた時、外から無理やり部屋に戻るためのかぎ爪ロープ。
まだ使えるかな?」
一応ロープを引っ張ってみる。
「大丈夫そうだ。借りるよ」
ユウトはかぎ爪をブンブンと振り回し放り投げる。
かぎ爪はユキコの部屋のベランダにしっかりと引っかかる。
ユウトはロープをするすると登り始める。
こう言ったアスレチックを攻略するような技も幼い頃ユキコに仕込まれた。
全く、医者としてはいらないスキルばかり持っている。
ユウトは余計な能力ばかりつけてくれたユキコに、ぶつくさと文句を言いたくなる衝動を抑えてユキコの部屋の前に着く。
部屋にはカーテンが引かれ窓から中の様子を伺うことはできない。
ユウトは手袋を外すと素手でガラスを触る。
ガラスはサラサラと細かい粒となって崩れ落ちる。
手袋をつけ直すと空いた穴から鍵を開ける。
「失礼しまーす」
ユウトはそう言いながら窓を開け、カーテンを押し開ける。
そして、中に入りかけたところで動きが止まる。
「えっ……?」
ユウトは目の前に広がる現実を理解できなかった。
鼻には朝、感じた謎の匂い。
周囲にはキャベツが転がり、部屋はゴミだらけだった。
そして、ベッドには大きなうさぎがいた。
だが、不自然だ。
顔や体はやたらとうさぎらしいのに、体の構造が人のようだった。
皮膚が毛皮となり、耳は頭の上に長く伸びている。
顔は鼻の穴が正面を向いており、目は草食動物によくある広く見るために左右に分かれて配置されている。
完全にうさぎの顔だ。
うさぎはユウトの姿をじっと見つめている。
表情はわからない。
だが、何かを訴えかけようとしているのかもしれない。
「とっ、とにかく状況把握……!」
ユウトはうさぎの全身を見る。見たことある服。空色にふんわりとしたスカート。
「その空色のドレス……!ユキコか!」
うさぎは頷いた。
——うさぎになってしまったのか!
——こんな風に動物になってしまう、そんな病気って……!
「獣化症!!!!!」
自分が提唱し誰も信じてくれなかった病気が目の前にある!
ユウトは心に一瞬にして様々な感情がよぎった。
嬉しさ、恨み、悲しみ、怒り、狂気、諦め……。
ユウトは一瞬、頭の中が真っ白になった。
いや、脳内では本人にも理解できないほど高速に情報処理がなされていた。
処理落ちしなかったのは彼本人のポテンシャルに他ならない。
「獣化症の対処法はない!だが、俺なら!」
ユウトは手袋を脱ぎ捨て、ユキコうさぎの服を破りながら脱がすと、心臓に一番近いはずの場所を触る。
「うぐぐぐぐぐ!!」
ユキコうさぎに触っている右手に自分の中にあるEEが経験したことのない速度で吸い込まれていく。
あまりのスピードにユウトは吐き気を催す。
だが、手を離すわけにはいかない。
「戻れ……!」
ユキコうさぎのうさ耳は徐々に短く、皮膚の毛は少しずつ短く、目や鼻の位置も人に戻る。
その変化はあまり目に優しいものではなかった。
人とうさぎの中間物が体それぞれの部位で別々に行ったり来たりしている。
しばらくして、グニョグニョと曲がった顔は混沌の状態から徐々に秩序を持った形へと収まりはじめ、最後にはユキコの顔で固定される。
ユキコに戻った時、ユキコは大きく息を吸って、吐き出した。
本人のEEや体力を相当使ってしまっているはずだ。
「ユキコ」
「……!」
まだ、声が戻ってないなかった。つまり戻ったのは外見だけ。
——EEをもっと!
ユウトはさらに力を入れて治療を続けようとした、その時だった。
ユキコの部屋の入り口が勢いよく開かれた。
そして、衛兵たちが流れ込んでくる。
彼らはユウトに向かって剣を抜き、いつでも切りつけられるよう準備している。
普段であればここで両手を上げなければならない。
だが、ユウトはそういうわけにはいかなかった。
「治療中だ!邪魔しないでいただきたい!」
ユウトは最後に入って来た人間に向かって大きな声を上げて言う。
「ユウト。この変態野郎め!姫さまに夜な夜な何をしてやがる!
ついに尻尾を見せたな!絶対逃がすなよ!」
「カント!少しでいい!待ってくれ!ユキコ姫は病気なんだ!
今治療をしてるんだ!」
「捕らえろ!」
ユウトはあっという間に取り押さえられてしまった。
素手で誰かに触れるわけにはいかない。その力は秘密なのだから。
あっさりと両脇を抱えられ、ユウトは引きずられていく。
だが、ユウトは力一杯抵抗して、一秒でも長くユキコに触れようとする。
「くそっ!ユキコ!」
ユウトはユキコに向かって手を伸ばす。
肩、腕と握っている部分が下がる。
そして、手のひら。ユキコも握り返そうとする。
だが、その時、カントがユウトを殴った。
「不届きものめ。姫さまに触れようとするな」
衝撃で手が離れてしまった。
治療は終了。
——声は……?
ユウトは顔をあげてユキコの顔を見る。
——せめて、治療、終わっていてくれ……!
カントがユキコに声をかける。
「姫さま、おさわがせしました、お怪我はありませんか?」
ユキコが口を開く、カントに向かって、息を吸い込み、何かを言っ……
「………………!」
——ダメか!
ユウトは体に力を入れる。だが、動けない。
——くそっ、治療が終わってない!ユキコの声が出てない!!
「離せ!!この野郎!!!今大事なところなんだ!!出て行け!!!」
「恐怖で今は声も出なくなってしまわれましたか……。
ですが、ご安心ください!このカントが姫さまをお守り申し上げます!
それでは……」
ユキコは返事をしなかった。俯いて自分の体を抱きしめ、震えている。
近衛兵たちはユウトを引っ立てて部屋から出る。
カントはユキコ姫を最後まで見つめていたが、近衛兵たちを統率する身分まで忘れることはなかった。
ゆっくり、誰の目から見てもゆっくり扉を閉める。
エレベーターを待っている時、カントはユウトに囁いた。
「ユウト。お前はもう終わりだ。悪いが、お前を牢屋から出す気はない。
今後、一生をそこで過ごしてもらうぞ。
でも、問題ないよな。お前を待っている人間なんてもういないんだからな。
にしてもお前に俺は失望したぞ。まさか、そんな卑劣だったとはな。
まあ、前から、そうして姫さまに取り入っていたんだろう?気持ち悪いんだよ」
だが、ユウトはカントの話など聞いていなかった。
自分の口を抑えていた近衛兵の指に噛み付く。
近衛兵が手を引いた途端、怒鳴り声をあげる。
「カント!いいから聞け!俺は、ユキコの治療中なんだ!邪魔するんじゃねぇ!
俺はユキコの専属医師!
ほんのちょっとでいい、俺をユキコのところに連れていけ!
今だけは、彼女に俺が必要なんだ!」
カントの目に炎が走る。ガンっとユウトの頭を剣の柄で殴ると言う。
「つけあがるなよ、ボケが。お前が必要とされてるわけないだろが。
その口、開けないようにしてやるからな」
ユウトはそれ以上何も言わなかった。
ずるずると引きずられてエレベーターに乗り込んだ。
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ユキコ姫の部屋のベランダ。
一羽の小鳥が欄干にとまり一部始終を見ていた。
青い羽をバタバタと振り回し興奮をあらわにする。
「おいおい、マジが!俺はすごいところを見ちゃったんじゃないのこれ?」
小鳥はそう言うと森に向かって飛び立った。
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