第二章 変化は起こり始めたら止められない
1 水は低きへ流れる
ラーティン帝国歴1807年6月3日。
ユウトは目覚まし時計のけたたましい鐘の音で目をさます。
時計を見るとまだ六時。自分が起きる時間まではあと一時間以上ある。
「ハァ……」
隣の部屋の住人の目覚ましでも起きないほどの深い眠り。
いつものことだ。ユウトはそう思いながらもう一度寝ようとする。
だが、鐘の音は全く止まる気配がない。
寝間着姿のユウトはふうと息をついて起き上がる。
白い絹の手袋をしっかりとはめ直すと鍵を開け部屋を出る。
ユウトの部屋はエリュシダール家の五階、一番奥の部屋。
隣の部屋に向かうとノックをする。
「リコ?リコ?起きなきゃいけないんじゃないんですか?」
ユウトは長女の名を呼ぶ。リコ・エリュシダール。
エリュシダール総合病院では脳外科として活躍している。
繊細な細い指先が脳をいじるとたちまち元気になってしまう。
EEによる手術では器具を挿入する必要が無い。
手術中のリコは側から見るとただ頭をわしわし撫でているおねいさんだ。
残念ながら髪の毛は邪魔なので患者は手術前にスキンヘッドになる。
何度かノックするも中から返事はない。
中からはいまだに目覚ましの音が聞こえる。
すると、遠くの方でバタン!と扉が開く音がする。
カズトのガリガリにやせた細い顔が出てくる。
眉間にシワがよっていて、目が赤い。明らかに怒っている。
「うるせぇぞ!ユウト、お前、いい加減にしろよ!」
「すみません、リコが……!」
「リコが!じゃねぇよ!テメェが起こせ!」
ユウトはカズトの言葉に一瞬身を固くする。
だが、言われたことをやらなければあとで何を言われるか分かったものじゃない。
「リコ、中に入りますよ?」
そう言うとガチャリとドアノブをひねる。
鍵付きのはずだが扉はあっさりと開く。
相変わらず不用心なことだ。
リコの部屋はとても長女らしい。
機能的なものが優先され物の配置などが全て決まっている。
昔、うっかり動かしてしまった時、こっぴどく怒られてしまった。
白い机の上には本がいくつも並べられている。
化粧台には大きな鏡が設置されていて、綺麗に磨かれている。
化粧品やアクセサリーも丁寧に並べて置いてある。
ユウトはベッドサイドに置いてある目覚まし時計を止める。
頭の部分にスイッチがあり、それを押せば簡単に切ることができる。
「こんなのにもEE、使ってるんだよな……」
ユウトはユキコの話を思い出す。
——EE鉱石が使えるのはあと半年……。ユキコはそれを何とか解決するって言ってたけど、どうやって解決するんだろう……。EEを増やす方法なんてあるんだろうか……?
「リコ、リコ!朝ですよ!起きて!」
リコの枕元には開きっぱなしの本が置いてある。
また、夜遅くまで本を読んで勉強していたらしい。
ユウトはその本を取り上げる。
製本会社によって丁寧に製本されたその本には見覚えがった。
『童話「嘘つき男と賢い狐」における獣化症状と人のEE保持力低下の関係についての考察』
ユウトは本の表紙を見てげっと声を出す。
「俺の出した論文……!なんでリコが読んでるんだ……?」
ユウトが姫専属医の地位を得る前。
准教授になった時発表した論文。
並んでいた教授陣はユウトが話し始めた途端頭を抱えてしまっていた。
ある人は始めから寝てしまっていた。
——俺の論文、そんな露骨に興味を無くしてしまうほど意味のないものなのだろうか……?
この論文では、童話の登場人物が動物になってしまった理由として深刻なEE欠乏が原因じゃないかと仮説を立て、獣化に至るメカニズムを説明してみていた。
EEを精神エネルギー我流し化した物であると言うエジソンの定義に従えばEE欠乏は精神エネルギーの枯渇を意味する。
——精神が枯渇すれば『人間性』を失ってしまうんじゃないか?
だが、この仮説を人で実験するわけにはいかない。
よって、手始めにネズミで実験をすることにした。
ユウトはEE吸収装置を作り上げ、ネズミのEEを強制的に吸い上げ、EE欠乏状態にさせた。
エジソンの定義、そして俺の仮説に従えばこのネズミは『人間性』ならぬ『ネズミ性』を失うはずである。
結果は陽性だった!
ネズミは食べ物を歯で砕かず丸呑みするようになり、背中で歩くようになった。
サンプル数はたいして無いがこれは歴とした発見だったはずだ。
もちろん、EEを完全に欠乏させることはできないが、EE欠乏がネズミらしさを失わせたことは間違いなかった。
「やっぱり、獣化症は認められないらしいなぁ……。他の研究をすべきかもな……」
ユウトはそう呟いた。
研究は誰かに求められなければならないわけではない。
世界の謎を解くために自分の探究心が求めるままに研究することは大事なことだ。
だが、誰かに求められなければモチベーションが、名誉が、お金が、お金が、お金が、お金が!!!得られないのだ。
「リコ!起きなきゃいけない時間なんじゃ無いんですか?」
リコはどれだけ揺すっても起きる気配がなかった。
口の端からちょっとよだれがたれている。
ユウトはため息をつくと必殺技を使うことにした。
「牛乳こぼしたぞ!」
「ふぁぁぁぁぁ!!!!!誰だ!!!!そんなことしたやつ!!!ぶっ殺す!!!」
リコは急に頭を上げて目をさます。
リコは幼い頃牛乳を頭からかぶってしまったことがある。
あれ以来トラウマらしい。
——人間、何がトラウマになるかわからないな……。
リコは恐ろしい形相になってユウトを睨んでいる。
せっかく母親のように美しい女性に産んでもらったと言うのに。
「あんた……その起こし方するのやめろって何度も言ってるわよね……?
この起き方、腰に悪いのよ……!」
「リコ姉さんがすぐに起きないのが悪いんです。
昨日は随分と夜遅くまで本を読んでたみたいですが、なぜこの本を?」
「えっ?あっいや、まぁその、一応チェックしておかなきゃいけないじゃない」
リコはぱっとベッドの上にある本をパタンと閉じて裏向きにすると、あたふたと言い訳を始める。
その姿は不思議と少女のようにも見えてしまう。
院内人気一位の女医さんだけあってこう言う時、可愛く見えるらしい。
残念ながら、ユウトにとってはただの姉であり何も感じない。
じとっとした目をして、ユウトは今だに彼氏一人作ったことのない姉を見つめる。
「何か文句でもあるの?」
「無いけど」
「けど?」
リコはなぜか赤くなった顔をしてユウトを見ている。
「とにかく、目覚ましがなっててカズト兄さんがご立腹でした。
早く準備していかなきゃいけない仕事があるんじゃ無いんですか?」
「へっ?あっ!もうこんな時間!当直の時間になっちゃう!
もっと早く起こしてよ!」
「そんな無茶なこと言わないでください」
ユウトはそう言いながら、リコがあたふた右往左往する部屋を後にする。
相変わらず無茶なスケジュールで動いているらしい。
医者の不養生とはよく言ったものだ。
リコが倒れてしまったらいったい何人の人が困ってしまうのか。
「あんた、姫専属医としてうまくやれてんの?」
ふと、リコが動きを止め、ユウトと目を合わせることなく聞いてくる。
「姫様には仕事ぶりに満足しているとおっしゃっていただいています」
「そう」
リコはそう言うと、何事もなかったように準備を再開する。
——そんなに俺の腕が心配なのか?
「目が覚めちゃったな。コーヒーでも淹れてもう準備するか……」
そう言うとユウトは部屋に戻ってコーヒーメーカーを準備する。
コーヒーメーカーが稼働を始め、豆を挽く。
ユウトは挽いた豆の匂いを思いき入り吸い込む。
これだけでも心が落ち着くのを感じる。
「さて、顔洗って髭剃らなきゃ」
ユウトは部屋に備え付けの洗面台に向かう。
広い部屋であるため、個別に風呂までついている。
まるで高級ホテルのワンルームである。
顔に冷水をかける。
冷たい水が顔にかかっているだけなのに全身が引き締められる思いだ。
「髭、いらないのになんで伸びてくるかな……」
ユウトはそう言いながらシェービング剤を塗りたくる。
髭剃りを手に取ると頬に当てて髭を剃り始める。
——いらない存在。まるで俺みたいだな。いや、俺はユキコから必要とされている。いらない存在なんかじゃ……。いや、髭もきっと必要にされているはずだ……。
「いてっ」
——しまった。考え事に耽ってたら頬を切ってしまった。
頬についたシェービング剤が徐々にピンク色に染まる。
どうやらまっすぐ切ってしまったらしく、ピンク色の線が現れる。
ユウトは自分の傷をひと撫でする。
ピンク色のシェービング剤は取り除かれ肌色の皮膚が見える。
だが、撫でたそばから血が滲み出てくる。
思った以上に深く切ってしまったらしい。
「自分の傷は治せないのなんとかならないかな……あれ?そういえば」
ユウトはふと、ユキコの背中にあった傷を思い出す。
あの傷もまるで刃物でスパッと切ったかのようだった。
あの時は何も聞かずに治してしまったが。
「背中の産毛でも剃ったのか……?」
ユキコの裸など幼い頃に見た以来久々だったが、よく考えてみると剃っているのかもしれない。
だとしても姫が自分で剃るわけでもなし。
いったいどんな下手くそが背中を剃ったんだろうか。
王族の毛剃りを行うような人間があんな広い背中を剃り損ねるだろうか?
ユウトはぼんやり考え事をしながら髭剃りを終えると顔を洗う。
切り傷はしばらく残りそうだった。
カーゼを当てて血が止まるのを待つ。
淹れたてのコーヒーが入ったポットを手に取り、カップに注ぐ。
ふわりとコーヒーの深い香りが広がる。
熱々のコーヒーを一口。
苦味の強いコーヒーが好きなユウト。
コーヒーショップでビターな種類を厳選し混ぜて作ったオリジナルのコーヒーは優しく落ち着いた苦味とその裏に隠れた旨味を舌の上で踊らせる。
しばらく口に含んで香りを楽しみ、そして飲み込む。
鼻から息を吐くとコーヒーの残り香が通り抜ける。
——うまい。
ユウトは机の上に置いた資料に目を通す。
今日は父親との約束の日。
医療技術を父親に見せなければならない。
この資料はテスト内容の通知書だ。
「ランダム患者に対する診断とその処置。
つまり、その場で初めて会う患者さんを診断し、さらに治療しろと言う内容らしいが……」
このテスト内容では予習をしても何の意味もない。
せいぜい、テストが一日であることから、一日以内で治療できる病気または怪我だと考え、その辺りの病気や怪我の治療法を復習しておくくらいだった。
そして、ユウトはおそらく“ギフト”を使うことになるだろうと考えていた。
「素直に一日で治せるような患者を用意するとは思えないからな……。
間違いなくなんらかの罠を仕込んでくるはずだ。
医師会の掟を破った俺にルールを適用すべき理由はないからな……」
それよりも、“ギフト”を使う羽目になることを一度、姫様に報告しておかなければならない。
ユウトは、少し早いが姫様の検診に向かうことにした。
ユウトは外に出る。
今日は大学の講義を休講にしておいた。
カントに言われた通り獣化症を扱わない、となると新しい授業内容にしなければならず、準備が間に合わなかった。
その分姫様の診療時間を長めに取り話をするつもりだった。
ささっと服を着替え髪の毛をセットする。
動きやすく余裕を持って作られた紺色のスーツ。
お気に入りの明るい紫色のネクタイにお気に入りの銀色のネクタイピン。
そして、黒い革の手袋。
ユウトは家の前で待つ。
大きな道路には出勤する人たちが車で移動している。
商社マン、建設、デザイナー、魔導研究者、宮殿の世話人、芸能人。
ここにいるだけで目の前を多種多様な人が通り過ぎていることだろう。
——自分は何者なのだろう。医者?大学教授?俺は必要な人間なのだろうか?生きている意味はあるのだろうか?
道路の路肩にはすでに銀塗りの高級魔導車停車していた。
ガチャっと扉が音を立てて中から近衛兵が出てくる。
「カント……、じゃない?」
「カント様から承りまして、私クロトが代わりにユウト様を宮殿までお連れいたします」
「……わかった」
ユウトは頷くと、高級車の中に乗り込む。
車はなんの音も立てずに走り出す。
ユウトは窓の外の景色を眺める。
——昨日までは晴れていたのに。
「最近、雨が増えてきたな」
近衛兵は車の運転席に座り、ユウトの方を向かずに答える。
「ええ。雨季に入り始めた証拠ですね」
「にしても、診察の日を狙ったように降るとは。姫様は雨女なのかな?」
「おそらく、ユウト様が雨男なのかと存じます」
近衛兵は最後の言葉には少し棘を含ませた言い方をする。
どうやら、冗談が通じないタイプのようだった。
ユウトはやれやれと思いながら曇り空を見上げた。
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