2.4
エルザはざっと状況を整理する。
「得体の知れない四本足の怪物がなんらかの目的でここにくる。
走り方から考えるとおそらく正気じゃないわね。
会敵まで一分!ミヤコ、どうする?」
「第一目標は取り押さえることね。だけど、手加減ができなさそうであれば撃滅!」
「了解!倍加!」
エルザはそう言いながらログハウスの外へ飛び出す。
あっという間に大きな猫になる。
外に出るとミヤコは目を細める。
確かに、何かきている。ミヤコは直感でそう感じる。
正面からなんらかの生き物がこっちに向かっている。
だが、殺意があまり感じられない。
「混乱……?焦燥……?」
庭の柵に止まって豆をついばんでいたワンダはピリピリとした雰囲気を感じ取って言う。
「なんかやばいな!私は逃げさせてもらう!」
ダンディーな低音でかっこよく、かっこ悪いことを言っている。
「くるよ!」
エルザの叫び。
それとほぼ同時に茂みの中から四本足のそれは姿を現した。
全身を毛で覆われ頭には三角形の大きな耳が二つ付いている。
エルザはそれを足止めする。
よだれを垂らしたそれはエルザに今にも噛み付こうとしている。
「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「なに!狼?」
「狼に見えるけど!なんかこいつ、骨格のバランスが変よ!」
「く!」
ミヤコはそれに対して木刀を振り下ろす。
だが、それは素早く身を交わすとエルザたちから距離を取る。
狼に似たそれは所々毛が禿げており、なんらかの戦いの跡のようにも見える。
「ねぇ、どうしたの?私たちに用があるんじゃないの?」
「ぐるるるるるるるるるるるるるるるるるるうぅぅぅぅぅぅぅぅ」
だが、ミヤコはさらに困惑する。
その生き物の気持ちが全くわからなかった。
たとえ言葉を話していなくても気持ちがなんとなくわかるのに!
「ミヤコ!」
「だめ!何を考えているかさっぱりわからない!こんなこと初めて……!」
ミヤコの木刀、その先端が揺れる。
それはその瞬間を逃さない。エルザと取っ組み合っていた力をふっと弱める。
「しまった!」
エルザはそれを取り逃がしてしまった。
それはミヤコめがけて一直線に走り込む。
一気に跳躍し距離を詰める。
鋭い爪を振りかぶり、ミヤコの顔めがけて爪を振り下ろす。
「ご主人!」
だが、クリスはミヤコのそばを離れていなかった。
クリスはミヤコに思い切り体当たりする。
「きゃっ!」
ミヤコはクリスの体当たりで吹き飛ぶ。
小さかったおかげでクリスは引っかかれることなくその場を離れる。
エルザはさっとミヤコの前におどり出ると、それと対峙する。
「どうやら、ミヤコが狙いみたいね。悪いけど、この子は殺させないわよ……!」
「どいて、制圧する」
「ミヤコ、大丈夫?」
「問題ない。こいつは気絶させて連れて言った方がいいわ。
何考えているかわからないもの」
「わかった!」
エルザはミヤコに道を譲る。ミヤコはそれをじっと見つめる。
「ロック……!」
そう言うとミヤコは木刀を左腰にあて、居合斬りの構えをする。
必中の魔法と合わせたミヤコの得意技である。
それはミヤコの様子を注意深く観察する。
左右にはエルザとクリスがいる。
どちらに向かうにせよ妨害されることは 必至。
妨害されればミヤコの一撃が即座に入るだろう。
正面からミヤコを狙うしかない。上か、下か。それは決断する。正面!
「残念。どこから来ても一緒だよ」
ミヤコはそう呟くと一閃。
木刀は見事それのこめかみに吸い込まれた。
ボグゥと鈍い音がなる。
それはふらふらとしばらく堪えていたが、ばたりと気絶した。
「ふう、危なかった……」
ミヤコは思わず大きく息を吐く。
木刀にはあまり大きな反動がなかった。
大きな体をしているように見えるが、毛が膨れ上がっているだけで見かけほど大きくないのかも知れない。
ミヤコはゆっくりと気絶しているそれに近づく。
「…これ、なんて言う生き物……?」
ミヤコはそれをつぶさに観察する。
体が完全にまっすぐ伸びている。
普通の四本足の獣であればまっすぐ伸びきるのはおかしい。
それは不自然だ。
エルザを見ると、困った顔のエルザがミヤコを見ていた。
「いーい?ミヤコ。落ち着いて聞いてちょうだい」
「何?」
「これ……。人だわ」
「人!」
ミヤコは改めてそれを眺める。
ゆっくりと手を添えて骨格を調べる。
全身に灰色の薄汚れた毛が生えているが、小さな足から大きな爪が出ている。
足?
「これ……。手だ……!」
指一本一本から鋭い爪が出ている。
拳を握りしめてしまうと腕に爪が刺さるらしく、腕には爪で引っ掻いたミミズのような傷ができている。
「ご主人は人が嫌いでいらっしゃいます。
いかがいたしますか?指示していただければ私が処分しますが」
エルザとクリスはミヤコのことをじっと見つめている。
助けるべきか?ミヤコは悩む。
当然、善なる行為を、医者としてやるべきことは決まっている。助けるべきだ。
ミヤコには医療技術がある。目の前には患者。治療しないと言う選択肢はない。
だが、ミヤコの心が囁く。
——見捨てろ…!見捨ててしまえ!そんなゴミ!人は人だ!
心は自分自身だ。囁くのはそれが本心だから。
たとえ記憶がなかったとしても、ミヤコの心に刻まれた何かが人を拒絶する。
腕を、足を、体を動かそうとしても水の中にいるかのようにうまく動かない。
獣の顔をじっと見つめながら黙っているミヤコにエルザは体を寄せる。
「どんな決定を下しても誰も責めやしないわ。
ここは弱肉強食の森。
怪我や病気を抱えた弱者に付き添うあなたは強者よ。
強者には選ぶ権利がある」
「とにかく、連れて帰ろう……!」
エルザにそう言われてミヤコは問題の決断を先送りすることを選んだ。
もしこれが完全な人だったなら、ミヤコは間違いなく処分を選んだだろう。
殺して燃やす。
毒になりかねない肉をそのまま放置するわけにもいかない。
だが、相手は獣になりかけている。
人でもない。
けれども、森にいるどんな生き物とも異なる獣。
ミヤコの決定にエルザは黙って従う。
「力も強いわ。家の中に連れて行くなら縛っておきましょう」
「ええ、そうね」
ミヤコはその獣を縛り付ける。
暴れ始めても解けないよう厳重に。
「ミヤコ。あまり強く縛り付けてはいけません。
人は皮膚がたいして厚くないですから、あまり強く縛ってしまうと血が通わなくなってしまいます」
「……そうね……!」
結局、ミヤコはその獣をぎちぎちに強く縛り上げた。
ログハウスに連れ戻るとミヤコはそれをミヤコのベッドの上に寝転がす。
ベッドにくくりつけるとミヤコはごくりと唾を飲み込む。
「じゃ、じゃあ起こすわよ……?」
大きな体のままのエルザ、ベッドの上に乗ってそれの様子を伺うクリス、それぞれ大きく頷く。
それを見たミヤコはそれに気つけ薬をのませ、目を覚まさせる。
「ウォォォォォォォォォォォォォォォォォ!」
目が覚めたそれはすぐに暴れ出す。
エルザが足を、クリスは処置台に縛り付けている縄をそれぞれ抑えている。
「ねぇ、あなたは何者なの!?」
ミヤコはそう問いかける。
だが、返事はない。
ミヤコは慌てる。
問診のできない診察などしたことない……!
ミヤコはとにかく体を触ることにする。
熱を持った身体中に傷跡がある。
だが、それら全てすでに塞がった傷だ。
不思議な生き物だが歴戦の猛者であることは間違いない。
体つきは人そのものだが、背骨が大きく曲がり、腕や足も四つ足の動物のような骨格に変化している、その途中であるような不自然な形になっていた。
「獣みたいな人……!ジョエルが言っていたことが本当にあるなんて……!
にしてもどうしたらいいの……!?」
ミヤコは迷う。これはどう治すべきか。
人に戻すか?獣にしてしまう?
苦しみを取るだけならどちらかでいいはずだった。
変化しているのならそれには終わりがあるはず。
しかし、それは果たして患者の望み通りの治療なのだろうか?
人なら人に戻りたいのではないか?
変化しきってしまったらもう元に戻す方法なんてなくなってしまうのではないか?
「こんなとき……、あの人だったら……!」
ミヤコは自分で言って自問する。
あの人って誰!
ミヤコがふとそれの目を見た時、バチッと目が合った。
ミヤコは驚いてその目を見つめる。意識があるの?
その時、それは暴れることをやめた。
ピタッと静かになった診療室の中で、ミヤコは自分の心音が聞こえている。
「エン……ア…」
「えっ!?」
「エンア……イエイ…アウ……。アウエ……エ」
それはミヤコの目をまっすぐに見つめて、その瞬間だけは知的生命体の雰囲気を醸し出していた。
だが、それは一瞬だった。
「ウァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!」
それは再度暴れ出す。いや、これまで以上だ!
「まずい!縄が解ける!」
エルザの警告。そして、それの体は徐々に大きくなっている。
グニョリと背骨が曲がり始め、キツキツの縄はミシミシと音を立てる。
「ダメ!もう縄が持たない!」
ミヤコが叫ぶと同時に、縄はブチブチと大きな音を立ててちぎれる。
それはベッドの上に立ち上がるとミヤコめがけて腕を振り下ろす。
「スリープ!」
飛び出たのはクリスだった。クリスは前足をそれに押し付けて、そう唱えていた。
クリスの“ギフト”。スリープ。触った相手を眠らせる。
クリスのEEを流し込まれた相手は問答無用で眠ってしまう。
「クリス!」
「ご主人、間に合ってよかった。とりあえず寝かせましたが……」
「寝かせても変化は止まらない……のね」
徐々に大きくなる体を見てミヤコはそう言った。
「一体何なの……。なんの病気なの……。
体そのものが変化してしまう病気なんて聞いたことない……!」
ミヤコは混乱していた。
目の前の事象、自分の知識、治療の目指すべき目的。
何もかもが未経験。
そもそもはここにふらりと現れた小さなリスを治療してあげたことから始めた獣医。
なぜそんなことをしたのかいまだにわからないが、その時はそうすべきだと感じた。徐々に大きな案件が舞い込んでくるようになったため、時折街に出ては医術書を盗み勉強した。
——だが…………、まだ足りなかった……。
「私はこの人を治せない……!どうしたらいいの……!」
ミヤコは天を仰ぎ見て言う。
「誰か……、助けて……!」
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