第一章 今日と同じ明日がいいですか?

1.秘密を共有するのは仲間の証拠

 昔々、一人の男が森の入口に住んでいました。

 男にはすることがありませんでした。

 食べ物、薬、家具。

 必要な物は森から全て手に入れることができました。

 一人で生きることに何の不自由もありません。

 何も変化することのない日常、約束された明日が男にはありました。


 ある雨の日、一匹のきれいな毛並みをした狐が部屋に迷い込んできました。

 狐は男にこういいました。


「お前は何をしている?」


「僕か?僕は生きている。ここで」


 狐はそんなことを言う男を馬鹿にするように唾を吐き捨てて続けます。


「そんな、何もしていない日々を送るだけなんて、お前は本当に生きているのか?」


「何もしていないことはない。毎日、睡眠をとり、森を手入れし、獣を狩っている」


 狐は目を細め、かわいそうなものを見る目つきで男を眺めまわしました。


「かわいそうに。本当に生きるということを知らずに死んでいくんだな」


 男は狐の言い分にむっとして言い返します。


「そこまで言うのなら、狐。君は生きているのかい?」


「俺はもちろん生きているさ。お前とは比べ物にならないほど刺激的な日々をな」


 男はにやりと笑いました。


「それなら、証拠を見せてもらおうか」


 狐も待っていましたと言わんばかりに、にやりと笑いました。


「いいよ。ただし、条件がある。

 一日一回、嘘をつくんだ。

 そうすれば、君をきっと刺激的な日々に送り込んであげられる」


 男はふと考える。

 自分の生活の中で嘘を考え、嘘をつく時間はたくさんありました。


「よし、約束だぞ」


 狐は男の家から出て行きました。



 狐との約束を果たすため男は一日一個、嘘を口ずさむことにしました。

 しかし、男は困ってしまいました。嘘をつくには相手が必要だったのです。

 たった一人森で生活する男には会話をする相手などいません。


「狐に騙されたか……?」


 男はしばらく考えて気が付きました。


「そうか、嘘をつく相手ならいるじゃないか」


 そうして、男は桶をもって外に出る。

 家のすぐそばにある井戸から水をくみ上げると桶に注ぐ。

 そして、そこに写った自分に向かってこう言ったのです。


「お前は人じゃない」


 男はこの日以来、毎朝、桶の水面に映る自分に向かって嘘をつくことが日課になりました。


「お前の髪の毛は白い」


「お前の肌は毛が一面覆っている」


「お前の腕は三本ある」


 狐が現れてから何日経ったでしょうか。

 男は自分に対して嘘をつくことが心地よくなっていました。


「お前は屑だ」


「お前はゴミだ」


「お前は意気地なしだ」


 雨が降る日。

 男はそろそろ、嘘をつく内容が思いつかなくなり始めました。

 考えてみると随分とたくさん自分に嘘をつき続けてきました。

 男は自分に問いかけます。

 そうだ、狐は?いつ戻ってくるんだ?


「そうだ!いい嘘を思いついたぞ!お前は狐だ」


 途端に、男は全身の皮膚が燃え上がるような感覚を得ました。

 男は四つん這いになって痛みに耐えています。

 どれほど長い事四つん這いになっていたのでしょうか。

 男は井戸の高さが随分と高くなったと感じました。

 喉の渇きを覚えた男は桶の中を覗き込んで動きを止めます。


 そこには金色の毛に黒い鼻。立派なヒゲが付いた狐がいました。

 男は狐に騙されたのでした。

 狐は知っていたのです。自分に嘘をつき続けた人間の末路を。


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 ラーティン帝国歴一八〇七年六月二日。

 雨季に入る前の少し蒸し暑い教室の中、教壇に立った男は手に持った本から目をあげると教室を見渡す。


「これは、我が国に伝わる有名な童話であり、男が自分を偽り続けたが故に人ではなくなってしまったという物語なのは、みんなも知っての通りだと思う」


 薄い灰色の縦のストライプが入ったスーツを着込み、緑色の髪の毛を整髪料でしっかりと整えた若い男は教壇に立って言葉を切る。髪型は彼の温和そうな優しい顔にしっかりと馴染むよう少し長めに揃えられている。


 首元には教授である証である濃い青色のネクタイは首元がきっちり三角形になるよう結ばれている。少し高い位置に差し込まれたネクタイピンには金属で作られた帝国大学の校章がくっついている。

 革靴は茶色でよく磨かれ、光に当たるとその表面に光沢が現れているものの、所々ほつれているところが見える。

 手には黒い革の手袋がはめられ、新品の革にある光沢が眩しい。


 優しそうな顔に困った表情を浮かべ、若干二十三歳のユウト・エリュシダールはため息をつく。

 教室の中はまるで動物園のようだった。

 教室は教師のことがよく見えるように階段状になっており、後ろに座っている人の顔も教壇からならよく見える。

 一通り見渡してみても、こちらを向いている顔は無く、あちこちで雑談が交わされている。昼ご飯の話。今日の課外活動の話。


 ユウトはハァと息を吐き出すと一番最前列にいるメガネをかけた女子生徒に話しかける。


「だが、この物語では教訓以外に重要なことがあるんだ。何かわかるかな?」


 女子生徒は迷惑そうに目を細め、ユウトのことを睨みつける。

 警戒心が最大になっている猫そのものである。

 その様子を見てユウトは慌てて言葉を繋ぐ。


「わからないよね。実は、この童話は『獣化症』と呼ばれる病気を後世に伝えるために作られた物語であると言われている」


 ユウトは手に持ったリモコンのスイッチを押す。

 黒板には本の表紙が映し出される。

 現在ではほとんどなくなってしまったEnergy Element、通称EE を糧に動く映写機を使っている。


 EE は生体や鉱石に含まれるエネルギー体である。

 様々な状態へと変換でき、この国の根幹を担う重要なエネルギー源である。

 現に今使われている映写機もEE が内臓の発光体に作用し光を発し、スライドガラスにある絵を拡大して黒板に写している。


 映し出された絵には大人の男が狐の姿に変わっている様子が描かれている。

 その後ろにある木の影には狐が見える。


「そのことを証明するには三つ根拠がある。

 一つ目に作られた年代、作者が不明であること。

 二つ目に表紙に描かれた半獣。

 三つ目にこの本のような古風の製本方法以外で作られていないという点だ。


 まず、作られた年代、作者が不明であることから考えてみよう。

 これは本の出版に王の許可が必要である我が国ではありえない状態だ。

 この法律は古くから決められているし法に反している書物は燃やされる決まりだ。

 もちろん、闇で取引されている本はあるが、そう言った類の本は必ず賛同者を必要とするような内容である。

 であるからには作者名くらいは本の中に隠すはずである。

 しかし、この本にはそれが全くない。

 さらに、回収し燃やすべきである宮殿の査察部もこの本に関しては目をつぶっている。

 何らかの政治的意図があるのか、またはある意味での残すべき伝説として宮殿内部にも伝わっている話である可能性がある。つまり……」


 急に黙ってしまったユウト。

 その雰囲気に気圧され、教室内の動物たちが一斉にユウトのことを見つめる。


 教室の視線を一身に受け止める、だが、ユウトは教室の一点を見つめていた。

 ユウトの視線の先には急に立ち上がった男子生徒がいた。

 茶色の皮で作られたブレザーの制服を少し着崩し、シャツのボタンを大きく開けている彼は言う。


「先生は本気で人が獣になる病気があると信じてるんですか?」


「…いずれ説明するつもりだったが、この場では獣化症が大事なのではない。

 そういった未知の病気に出くわしてしまった時、一体どうすべきか、を考察すべきなのだ。

 我々、医師はそのいつかくるリスクに備えなければならない。

 反対に聞くがもし君の隣にいる人が急に獣になり始めたらどうするつもりなんだ?」


「では先生は獣化症はあると思っているんですね?」


「……そうだな。物語として残るくらいには根拠があるんじゃないかと思っている」


 立ち上がった男の子は堪えていたものが突然破裂したかのように笑い出した。


「あははは!なんで信じてるんですか!

 たかがおとぎ話に出てくる話を本気で受け取る奴がいますか!

 そんなくだらない内容なら、授業しなくていいですよ。

 エリュシダール先生は黙って僕たちに単位を出していればいいんですよ」


 男の子がそう言うと周囲の生徒たちも笑い始める。

 立ち上がった男子生徒の隣に座っていた、金髪の男子生徒が立ち上がると、笑い声にかき消されないよう大きな声で言う。


「いやぁ、傑作ですね。いい大人がこんな子供騙しの童話を信じてるなんて。

 人が獣になる?そんなこと起きるわけないじゃないですか。

 人は人ですよ。動物じゃないんです。

 明日から急に獣になるなんてことは絶対にないんですよ」


 すると、座っている別の男子生徒が手を丸め、腕を犬のように持ち上げると高らかに叫ぶ。


「アオーン!タスケテー!イヌニナッタヨ〜!アオーン!」


「アオーンは狼だろ?」


 生徒たちは手を叩いて大笑いする。

 ユウトは教壇の上で立ち尽くしていた。

 その表情には動揺も悲しみもなく、ただ、自分が自分よりもひと回り年下の生徒たちに笑われている、その様子を見つめているだけだった。


 一番前に座っている秀才そうな男子生徒がユウトに言う。


「だいたいそんな夢のような話、昔はあったかもしれないですけど。

 今は、もうそんな突飛な話は廃れつつあります。

 昔のように、“ギフト”を駆使しEE を操り人が自由自在に物を浮かべ、水をワインに変質させることはできないんです。

 庶民レベルではもう“ギフト”を持たざる人間のほうが多いんです。

 それに、“ギフト”の力が強いはずの貴族ですら、一人一つ“ギフト”があるか無いかと言う状況です。

 それだけ、人の形を変えると言うような病気が今後発症するなんてことはないと思いますよ」


 “ギフト”人が生まれながらに持つEE を操る力のことである。

 強力な“ギフト”になればその効果はまるで魔法のようになる。

 二世紀以上前から人々は“ギフト”の力を失いつつあった。

 今となっては“ギフト”を持たない人間の方が多い。


「EEや”ギフト” だけが人の形を変えられるとは限らない」


「詭弁ですね。そうであるならば、その例を示してください」


「それは……」


 ユウトは答えられず口ごもってしまう。

 秀才そうな男子生徒は侮蔑の表情を隠しもせずに言う。


「おめでたいですね。

 この程度のことをうだうだと研究しているだけで、教授だ何だと担ぎ出されて」


 教室の中に抑え気味な低い笑い声が充満する。

 その時、学校のチャイムが鳴り響いた。

 生徒たちは笑い声を抑えるどころか、さらに高らかに笑い上げると、何も出していない机の上をぱっと払って、さっさと教室から出て言ってしまう。

 ユウトは一応声をかける。


「本日の授業はここまで。

 獣化症については次回、より詳しい話をしていこうと思います」


 医学史の授業はいつもこのような感じだった。

 もともと、医療に対して貢献することがあまり大きくない医学の歴史は軽視されがちではあるが、ユウトの授業はその最たるものだった。


 学生たちからは楽に取れる単位であると吹聴され、ユウトはその期待を裏切ることはしなかった。

 テストなし、出席点とレポート一回で単位が得られるこの授業は取らない人がいないほど“人気”の授業になっていた。

 もっともその人気のおかげでユウトは講義を持ち続けられているため、授業中に言われた通り生徒たちに楽に単位をあげなければならない現状はどう言い繕っても変わらない。

 授業をしない教授は教育者に反すると言う方針の父に叱責を受けてしまうユウトとしては授業を失うようなことはしたくなかった。


「はぁ。とりあえず今日の授業は終わりだな」


 ユウトは教室で一人ため息を吐く。

 いそいそと自分の荷物をまとめ、愛用の革のリュックに詰める。

 使い込み革独特の光沢が現れたお気に入りの鞄だ。

 簡単な医療道具も入っている。

 全て、新品だが。


 廊下にはすでに誰もいなかった。

 質問がある人はおらず生徒たちには次の予定があるらしい。


 ユウトは講堂を出ると靴音を鳴らしながら廊下を歩く。

 廊下の床は大理石でできている。歩くだけで心地よい靴音がしっかりと響き渡る。

 ユウトはこの靴音の響き方を気に入っていた。


 歩きながらユウトは、獣化症についてぼんやりと考えていた。

 確かに、獣化症はこの帝国内で確認されたことのない病気だった。

 だが、それはこの帝国が誕生し医学的な記録が始まって以来確認されていないと言うことに過ぎない。

 帝国が建国される前までの記録はない。

 もっとも、この帝国は開国千八百年以上経つ、長寿国家だ。

 その間、全く観測されていないのだから、彼らの主張も正しいかもしれない。


——しかし、本当に大切なのは目に見える事象ではなく、未知の病気が生まれた時どう対処するかと言う部分にあるのだけれど……。


 親の心子知らず。教員の心生徒知らず。

 ユウトは職員室の木の引き戸をなるべく音を立てないように、静かに素早く開けて中に入る。


 職員室内には誰もいなかった。講師たちはユウトを置いてさっさと昼ご飯を食べに行ったらしい。

 ユウトはいつものことだと、思いつつ自分の机に向かう。

 革のリュックを机の上に置こうとした時、一枚の黄ばんだ紙が机の上に置いてあることに気が付いた。

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