ⅲ. 影が離れぬ女

 チチチ・・・


「ん―――・・・」

 東向きに造られたこの部屋には、朝の丁度健全な人が平日に起きる時間帯に陽の光が差し込む。以前は眩しさを欝陶しく感じるだけで分厚いカーテンを一日中閉め切っていたが、最近は目覚しと下がった体温を元に戻す日光浴に利用している。

 ―――新学期の爽やかな朝。

 半身だけ起して暫くぼーっと過した後、今池いまいけ とおるはベッドから降りて背伸びをし、とんとんと階段を下りていった。



「お早う御座います、徹クン」

 階段を下りた先では、しん けいがフライパンを手にコンロの前で料理をしていた。

「おう・・・・・・」

 徹は完全に寝惚けた様子で殆ど相槌にもならぬ反応をした。夜の生活が長かったからか朝には弱い。それでも初めの数日間は秦珪が毎朝勝手に家に上がり込んで料理を用意している事にツッコミを入れたりしていたものだが、朝起きより先にそちらに慣れてしまい、また便利でもあるので秦珪の作った朝食を最早自動的に胃に流し込んで学校に通っている。

「もう少しで出来ますから待っていてくださいね。今日はイギリス風の朝食にしてみました」

 イギリスて、料理不味くないか・・・?と、ぼんやり頭でも危機感を抱きながら洗面所へ向かう。だが御心配無く。「イギリスで一番美味しい料理は朝食」と云われる位、イギリスの朝食だけは他国の料理並みのクオリティを持っているのだ。

(どんどんレパートリーが増えてるな・・・・・・食材はどうしてるんだ・・・・・・)

 濡れた顔をタオルで拭いながら、徹はぼんやりと思った。リビングに戻るとテーブルに料理が並べられており、コポコポと注がれている紅茶が湯気を上げている。

「・・・どうぞ、徹クン。眠気が取れますよ」

「・・・・・・ん」

 午前8時。賑やかな音声に誘われる侭テレビの方に視線を向けると、『NONCO’s kitchen』が丁度始るところであった。

{皆さん、おはようございます。鳴水 倫子です。今日もよろしくお願いします}

 人気若手女優の鳴水なるみ 倫子のりこがキッチンの前に立っている。これはとある朝の情報番組の一コーナーで、趣味が料理だという鳴水 倫子が視聴者のリクエストに応え、料理を実演・試食してみせる。平日毎日3分程度放送されているものだ。

{今日のメールは・・・}

 徹がテレビの中の鳴水 倫子を視線で追いかける。徹が口に出す事は無いが、鳴水 倫子が結構好みのタイプらしく、毎朝この時間には必ず『NONCO’s kitchen』がついている。秦珪も最近ではそれを察して何気無くチャンネルを合わせていたりするのだ。

{今日は、ベイカー街に居る様なイギリス気分を味わえる朝食を作りたいと思います。『素材の味が活きて手間入らず・日本で作れる本格的クラップショット』。早速始めていきましょう}

 徹クン・・・;徹がテレビに視線を合わせたきりぽーっと突っ立っている。朝型になってから、登校前のこの3分間は徹の中の時間が止る。

{今日の朝食はコレで決り。クラップショットの完成です}

 ・・・・・・。秦珪がくすりと微笑んだ。ちょいちょいと徹の背中を指で擽る。徹が秦珪を振り返った時、鳴水 倫子は画面の向うで、ぜひ試してみてください♪と言って、コーナーは終った。


『―――クラップショット、試してみましたよ』


 ―――・・・徹は振り返った先に在る鳴水 倫子の面影に、完全に目が覚めた。画面から抜け出たそのままの姿で、先程作っていたイギリス料理の皿を手に持っている。

「秦珪・・・・・・」

「・・・ふふふ。イリュージョーン♪」

 目を擦ろうとも頭の中を切り替えようとも、鳴水 倫子は揺らがない。徹を促し、自らも徹の座る正面の椅子に腰掛けて

「―――徹クン、頑張りましたから」

 と、静謐せいひつな微笑を向けた。モナリザ・スマイルといわれる鳴水の大人びた微笑ですら完璧に再現されている。秦珪の纏う暗色の衣服が彼女をますますモナリザに近づけた。

「・・・無事に新学期を迎えたので、御褒美に鳴水 倫子と一緒に朝食を、と。粋な計らいでしょう?」

 ・・・なんで鳴水 倫子なんだ・・・? 徹が秦珪の心遣いを踏みにじる。

 えっと秦珪がショックを受ける。鳴水 倫子の雰囲気が崩れる。

「・・・やってて虚しくならないか?」

「徹クン・・・・・・」

 徹が気怠げな声で言う。徹にはもう目の前に居る人間が鳴水には視えなかった。とはいえ、秦珪の体質ゆえ、完全に別人をイメージせぬ限り面影は残るものの。

「そんな小細工しないで、いつも通りの料理を作って普通に持って来ればいいんじゃね。そんな事されると、逆に秦珪おまえを見つけにくくなる」

 そう言うと徹は、スコーンを手に取って黙々と朝食を食べ始める。秦珪は身を乗り出した侭、暫く固まった。

「・・・ん?」

 急に黙り込む秦珪に、徹は顔を上げてそちらを見る。・・・秦珪。と頬に触れる黒髪を払うと、見知らぬ顔が俯いていた。

「――――・・・・・?」

 ―――どくん。だがすぐにその貌は鳴水 倫子の面影に戻り、頬を包んでいた髪は腰まで真直ぐ流れていった。

「遂に見つけてくれる気になったのですね」

 秦珪が徹の背に手を回し、濃密なスキンシップを求めてくる。徹は完全に目が覚めた。テーブルに落ちてくる髪を引っ張ってみる。

「痛っ!」

「―――!?」

 徹クン・・・・・・? 秦珪が泣きそうな声を上げて徹から離れる。確実なロングヘアの感触に、徹も思わず後ろに下がった。

 がっ

「徹クンっ!?」

 椅子の背凭れに背中がぶつかり、そのまま床に倒れかける。ぱしっと隣の椅子を掴み、徹は何とか倒れずに済んだ。だが隣の椅子が激しい音を立てて倒れる。椅子に乗せていた学生用鞄も床に落ち、衝撃で蓋が開いて中のプリント類が散ばった。

「大丈夫ですか徹クン」

 置き勉らしく教科書が一冊も入っていない。事はいといて、その御蔭で重石が無い為プリントが遠く迄飛んでいった。秦珪が拾いに行く。

「うっるさいなぁ・・・・・・」

 トン、トン、トン、と階段を下りる足音が聞えてくる。徹と秦珪は、げ。という顔をした。厄介な奴が下りて来る。

「何時だと思ってんだ、全く」

 出た。今池 遠矢とおや。ムダに美形な徹の兄で、性格はサイアク、兄弟仲もサイアクである。

「―――おい。この家に戻って来ていいなんて僕は言った覚え無いぞ。来る日も来る日も、何で居るんだ」

 遠矢が徹ではなく秦珪の方を恨めしげに見て言った。徹に関しては完全無視である。

(来る日も来る日も、母さんを秦珪に重ねてんのか・・・・・・キモチワリィな・・・・・・)

(マザコンですね・・・・・・;)

 遠矢に対する彼等の認識がだんだん酷いものになりつつある。

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面影 ほにゃら @dyeeek

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