第87話

 アモエナの血を吐くような叫びに対し、クーデルスが取った対応は……溜息であった。


「なんとまぁ、私が知らない間にすっかり堕落してしまったのですね」

 アモエナの濁った目をまっすぐに覗き込み、クーデルスはそんな台詞を口にする。

 だが、その評価はアモエナにとっていたくお気に召さなかったらしい。


「堕落じゃないわ! 夢を諦めきれない事が、そんな悪いことなの!?」

 まるで世界の敵を目にしたように、アモエナはキッとクーデルスを睨みつける。

 だが、彼はその口元をゆっくりと微笑みの形に緩ませた。


「夢を追うのは素敵なことですが、貴女のそれは夢ではありません。

 少なくとも清らかなものではありませんねぇ。

 だって、禁忌に手を染めてでもかなえたい夢など、清らかであるはずが無いじゃないですか。

 あえてその感情に名前をつけるとすれば……それはただの欲望でしょう?」

「うぐっ……」


 なぜか楽しそうに吐き出された正論に、アモエナは返事を返すことが出来ない。

 クーデルスの言葉は、実に的確に彼女の心を言い表していた。

 だが、それでも彼女は自らの望みを捨てる事はできない。


「違うもん……私の夢はそんな汚いものじゃないもん……」

 悔しさのあまり、アモエナの目の縁に涙が浮かぶ。

 クーデルスは指を伸ばしてその雫を優しくぬぐうと、膝を折って視線の高さをアモエナと同じにした。


「おやおや、泣くこと無いじゃないですか、アモエナさん。

 もしかして私に嫌われるとでも思いましたか?」

「……え?」


 思いもよらない言葉に、アモエナは思わず目を丸くする。


「私の体に流れる血の半分は魔族ですよ。

 その綺麗に咲いた欲望の花を、なぜでないと思うのです?」


 魔族であるクーデルスにとって、堕落する事も欲に溺れる事も、決して咎めるようなことではないのだ。

 それが悪徳と忌み嫌われるのは、人間や神々の価値観の中だけに過ぎないのである。


「だって、クーデルスはさんざん不老不死は恐ろしいものだとか脅したじゃない。

 てっきり、そういうことを言うと私の事を嫌いになるんじゃないかと……」


 確かに、今までのクーデルスの態度を考えるとそう思っても仕方がない。

 だが、彼女は一つの可能性に気づいていなかった。


 ……クーデルスが自分につられて闇に堕ちる可能性についてを。


 いや、魔族の血を引き、魔帝王の秘蔵っ子として育ったクーデルスである。

 最初から闇の中にはいるのだろう。


 魔族としては狂人として扱われるクーデルスの価値観が、あやういバランスを保ちながら彼を穏やかで理性的な存在にしているものの、やはりその根源には大きな闇があるのだ。

 アモエナの闇はそんな彼の闇を刺激して、破滅的なほうへと押してしまったのかもしれない。


「私が恐ろしいと語ったのはね……人間の視点で考えればと言う話です。

 なにせ、今まで肉体的に不老不死になった人間は、遅かれ早かれみんな心が壊れて廃人になっていますから。

 おそらく、人間にとっては耐え難い苦痛か何かを伴うのでしょうね」


 さらにクーデルスは、不自然な冷ややかさすら感じる声で、甘い言葉を吐き出し続ける。


「私はこれ以上に肉体的な歳をとる事はありませんし、魔族はみんなどこかの時点で不老になります。

 貴女が不老不死になったところで、私にとっては別に普通のことですよ」


 アモエナは、目の前にいる男を改めて異種族なのだと実感した。

 そんな彼女に、クーデルスはより深い闇を感じさせる声で囁く。


「それでも心配だというならば、言葉をあげましょう……。

 貴女を愛していますよ、アモエナさん。

 自らの欲望に負けて、闇に溺れた貴女だからこそ私は愛おしい。

 本当はアデリアさんも私への愛と欲望の海に沈めるつもりだったんですがねぇ。

 彼女にはダーテンさんがいましたし、私よりも幸せにしてくれる存在がいるのならば、それは譲ってやらなくてはなりません。

 それが彼女にとって一番の幸せなのだから。

 それに……闇の中に捕らえ続けるには、彼女は心が強すぎた。

 でも、貴女は違う。 貴女はとても弱いのですよ、アモエナさん。

 だからこそ、私は貴方がどうしようもなくいとおしい。

 貴女の弱さが、その欲望が」


 耳元で囁かれる熱を帯びた声に、アモエナは恐怖と共にこらえようも無い歓喜で満たされた。


「じゃあ……」


 かすれた声で呟くアモエナに、クーデルスは告げる。


時非ときじくの実がほしいのでしたよね? 差し上げましょう」

「本当に?」

「本当に。 ただし、いくつか条件をつけます」


 本来ならば、ここで警戒すべきだったのだろう。

 何せ、相手はどんなに善意に満ちていたとしても魔王なのだから。

 特にこのクーデルスと言う魔王は、心からの善意で人を闇に導く存在なのである。

 そして本人もまた、それを愛だと信じて疑わない危険な思考の持ち主であった。


 そんな恐るべき魔王に対し、アモエナは微塵の疑いもなくたずねる。


「何をすればいいの?」


 すると、魔王は優しい声で条件を告げた。


「まず、王立舞踏団の入団試験を受けるのです。

 いずれにせよ、そこに合格できなければ話になりません」


 それは、どう考えても簡単なことではなかった。

 国の金で運営される王立舞踏団のメンバーに求められる技量は高く、本格的に踊り始めて一年にも満たない少女が入り込める場所ではない。


 だが、アモエナに迷いはなかった。


「わかった。 絶対に……受かって見せるから」

 そう告げると、アモエナは何かを決意した目で楽屋から出て行く。

 おそらく、いても立ってもいられなくなって練習をしたくなったのに違いない。


 そしてアモエナの姿が見えなくなると、クーデルスか前髪をかき上げるような仕草と共に、やや機嫌のよろしくない声で告げた。


「出てきなさい。 盗み聞きは悪趣味ですよ?

 だいたい営業に行ったのではなかったのですか?

 ……咲き乱れよフロレシオン


 その瞬間、クーデルス苛立ちを具現化したように、周囲の空間をトゲだらけの茨が白い花と共に埋め尽くした。

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