第36話
「それでは法廷でお会いしましょう」
ユホリカ神はそう告げると、山積みになった書類ごと光となって消えていった。
その直後である。
「ねえ、クーデルス。 裁判なんて大丈夫なの?
大商人に訴訟なんか起こされたら、勝ち目ないよぉ……」
心配そうに声を上げたのはアモエナだった。
彼女は大商人の恐ろしさは理解できるが、クーデルスの恐ろしさはよくわからない。
そして彼女の心配は、実はかなり的確であった。
「そうですね、たぶん人間社会のルールの中で戦うならばぜんぜんダメですね。
この街の裁判官はフェイフェイさんとしっかり癒着しているでしょうし、そうでなければ変な正義で凝り固まった精神異常者しかいません。
私が何かをしようとしても、この街は長く続きすぎて色々と腐っちゃってるんで、意味が無いんです」
そんな絶望しか無い台詞を、クーデルスは笑いながら撒き散らす。
気が狂っているか、道化師の狂言まわしか、いずれにせよまともではない。
「そもそも、私にこの国の法律の知識はありませんから、武器も魔法もなしに戦争をするようなものですね。
いやぁ、私さんざん罵られて辱めを受けたうえで食い物にされちゃいますよ。 どうしましょうね?」
おどけた調子でそんな事をたずねると、アモエナは真っ青な顔で震え上がった。
「えぇっ、なにそれ!? やだよ、クーデルス!
勝てないなら、逃げちゃおうよ! クーデルスがそんな酷いことされるのは、絶対にやだよ!!」
涙を目に浮かべて必死に説得しようとするアモエナだが、クーデルスはそんな彼女を見て腹を抱えて笑い出した。
その大きな体をくの字に折り曲げ、ヒィヒィと喘ぎ声を上げる。
そしてひとしきり笑い終えると、クーデルスはアモエナをいきなり抱きしめた。
「えっ、やっ……く、クーデルス! 落ち着いて! 正気に戻ってぇっ!!」
「本当に愛らしくて優しい子ですね、アモエナさん。
私は最初から正気ですよ。
ええ、ちょっと貴女に心配されてみたくてあんな台詞を言ってみましたが、そもそも私に人間の裁判なんて意味がないんですよ。
私をよく知る人間の中で、この私を心配するような方はたぶん貴女だけですね。
他の人たちは私を知りすぎていますから」
クーデルスはさらに顔を近づけ、アモエナの髪に優しくキスを落とす。
まるで恋人にするかのようなその振る舞いに、アモエナの顔は真っ赤に染まっていた。
「それにね、ダメだからこそ、色々とやりようがあるのです。
ご存知ですか、アモエナさん。
ゲームで絶対に負けない方法はね……」
必死にクーデルスの腕から逃げようとするアモエナだが、その太い腕はビクともしない。
さらにその低い声を耳元で囁かれると、背筋をゾクゾクと何かが走り、思わず力が抜けてゆく。
「負けそうになったら、盤上をひっくり返すかたたき割るんですよ」
「それ……もう、ゲームじゃない……でしょ……」
かろうじてそう呟いたアモエナだが、思わず息が止まりそうになる。
クーデルスの前髪がかき上げられ、その緑の瞳が彼女を待つすぐに覗き込んでいたからだ。
――綺麗。
だけど、まるで底知れぬ緑の奈落のような眼。
アモエナが今まで見た中で一番綺麗だった男は、村の祭りで見た役者の男だった。
だが、この悪魔と比べればはっきり言ってゴミのようなものである。
もはやかすんでしまい、その役者がどんな顔だったかすら思い出せない。
そんな状態のまま、彼女は心の中で呟く。
怖い。 でも、嬉しい?
矛盾していてよくわからない感情が心の中身を支配する。
確かな事は――私、この悪魔に食べられちゃうみたい。
アモエナは恐怖と歓喜の入り混じった感情をもてあまし、逃げる事はおろか身じろぎ一つできなかった。
そんな彼女に、クーデルスは優しく自嘲交じりの声で囁く。
「こんな子供に心がざわめくなんて、私もどうかしちゃいましたかねぇ」
そして彼女の小さな唇に自らの唇を押し当てようとしたその瞬間であった。
がぶっ。
何か真っ黒なものが、クーデルスの頭を襲撃する。
「痛い! 痛いですよ、ミロンちゃん!!
なぜ私の頭を噛むのですか!!」
「ぶひひひひひひん!」
「あ痛たたたたた! 貴方、男の子でしょ!!
なんでヤキモチ焼いて……やめなさい! 髪の毛が抜けちゃうでしょ!!」
どうやらクーデルスの関心が他の存在にあるのは我慢が出来なかったらしい。
そんなミロンちゃんの妨害の隙に、アモエナはクーデルスの腕から全力で逃げ出した。
そして無言のまま厩舎の外へと走り出す。
「あ、アモエナさん……あーあ、行っちゃいましたよ。
まったく、こんな中途半端な状態じゃ、次に会ったときどんな顔すればいいかわからなくなるでしょ。
恨みますよ、ミロンちゃん」
「……ブルルルッ」
恨みがましい視線を向けるクーデルスに、ミロンちゃんは拗ねたように大きく鼻を鳴らすのであった。
そして二人の関係がどうなったかというと……。
むろん同じ宿で生活している以上、アモエナとは頻繁に顔を合わせることになる。
だが面の皮の厚さがドラゴンの皮膚並みであるクーデルスが動じるはずもなく、その度にアモエナが一方的に顔を赤くして逃げる羽目になったのは言うまでも無い。
そんな茶番を何度も繰り返した翌日の、朝食の席。
顔を合わせるなり逃げていったアモエナの背中を眺めながら、クーデルスが誰に聞かせるでもなくボソッと呟く。
「あー 嫌われているって感じではないようですが、少しやりづらいですねぇ」
「なにやらかしたんですか、クーデルスさん」
「別にあなた方のネタになるほどの事はしてないですよ、ドルチェスさん。
ちょっとした火遊びです。
まぁ、彼女にとっては少し痛かったようですが」
クーデルスは喉の奥でくぐもった笑い声を上げ、ドルチェスは好奇心にみちた眼でその横顔をにらみつけた。
そんな彼らの元に、法廷への出頭命令が届く。
訴訟を仕掛けてきたのは、予想通りフェイフェイであった。
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