第9話
「うわぁぁぁぁぁ! 胡椒が!? 胡椒が全部芽吹いた!?」
「なんだと? 誰だ、白胡椒の管理をしていた奴は!」
災厄は、そんな悲鳴まじりのやりとりから始まった。
「違う! 黒胡椒も全部芽吹いたんだ!!」
「そんなバカな!? 完熟している白胡椒ならともかく、黒胡椒は未熟な果実を干した代物だぞ! 芽を出すはずが……うわぁぁぁぁ! なんじゃこりゃあぁぁぁぁぁ!?」
突然の"ありえない出来事"に、商業ギルドは上を下への大騒ぎとなる。
そしてこの凶事はこの街のみならず、馬車で一ヶ月ほどの距離にある近隣の街全てに及んだ。
もはや当分の間、この街で胡椒は手にはいらないだろう。
なお、その頃この騒ぎの元凶はというと、泊まっている宿の経営しているオープンカフェで、まだ幼さが残る少女と一緒にお茶を楽しんでいた。
「おやおや、何か災難があったようですねぇ。 お可哀想に」
遠くから聞こえてくる悲鳴を聞きながら、クーデルスはそっとテーブルにカップを置く。
悼むような台詞だが、長い髪の間から覗く表情に同情は欠片も見られない。
「うっわぁ、すごく悪い顔してる」
「参考までにお伺いしたいのですが……口元しか見えてないのに何で私の表情がわかるんですか?」
しかも、その口元ですら前髪でなかば隠れている。
それでどうやって表情を読み取っているのか? クーデルスにしてみれば、ずっと不思議で仕方が無かった。
だが、アモエナははぐらかすような笑みを浮かべると、「女の勘ってやつよ」と曖昧な言葉を口にする。
「それはずるいと思います」
まぁ、クーデルスとしても最初から明確な答え期待していたわけではない。
その話はここでおしまい……とばかりに茶を飲み干すと、クーデルスはこれからの事に話しはじめた。
「とりあえず、この街の周辺地域に存在する黒胡椒は、私の持っているものを残して全て始末しました。
明日にはきっと高く売れるでしょう。
今日のうちにあちこち服屋を回って、どんな服がいいか選んでおきましょうね」
「うわぁ、本当に悪いことしてた」
責めるような台詞だが、アモエナの目は笑っている。
それは幼さゆえのモラルの欠如か、それとも彼女の本質が悪女なのか。
今はまだ誰にもわからない。
「アモエナさんの可愛い服のためです。 許してくださいませんか?」
「うん、服のためだったら許す」
クーデルスが冗談交じりに許しを請うと、アモエナはあっさりと受け入れる。
彼女もまた、先ほどの商業ギルドでのやり取りに関しては腹の中が煮えくり返っていたし、見ず知らずの金持ちがどんな被害を被ろうとも知ったことではなかった。
「それに……あと数日もしたら街中に胡椒が生えて実をつけるような気がするので、黒胡椒の相場は大暴落をすると思うんですよ」
そんなクーデルスのわざとらしい台詞を見計らったように、視界の隅を小さな何かが横切ってゆく。
虫では無い。
目の錯覚で無ければ、それは黒胡椒の粒であった。
ただし、芽が生えているどころか虫の様な手足まで生えており、まるで不恰好な蟻のようにゆっくりとした歩みで、彼らは街のいたるところに散らばってゆく。
そして数日中には街中に胡椒の蔓がはびこり、一斉に実をつけるのだ。
クーデルスが自分の手持ちの胡椒を法外な値段で売りつけた後で。
胡椒を扱っていた商店は、きっと悲鳴を上げることだろう。
もっとも、クーデルスとアモエナにとってはいい気味だと言うほかは無いが。
だが、この計画はこの街のとある事情により大きな変更を余儀なくされてしまうことを、まだクーデルスですら予想していなかった。
「さてと、そろそろ出かけますか」
「どこへ? 服屋ならもうちょっと後でいいよ?」」
アモエナのポットにはまだ半分近く茶が残っているし、頼んでおいた焼き菓子がまだ出てきていない。
「あぁ、アモエナさんはこのままここで待っていてください。
この街の領主に、ご挨拶に行くのです。 まぁ、たぶんいるのは代官だけでしょうけど」
今の時期、おそらく領主とその家族は王都のサロンで政治的活動に勤しんでいる。
春とはそういう時期なのだ。
中には領地に閉じこもったままの貴族もいるだろうが、そんな少数派は考慮する必要が無い。
代官であろうが、領主であろうが、権力さえ持っていれば相手は誰だって良いのだから。
「えぇっ? 何のために?」
おいてゆかれるのが不満なのか、アモエナが拗ねて頬を膨らませる。
だが、クーデルスは人差し指を振って彼女をたしなめた。
「オッサン同士の腹の探りあいなんて、聞いていてもつまらないだけですよ。
その前に色々と領主についての情報も集めたいと思っていますし」
なにぶん、突発的に始めたことなので、クーデルスはこの街についての情報をほとんど持っていない。
せいぜい賄賂を拒絶した門番のところで、後ろで待っている連中の噂話に耳を傾けていた程度である。
それもこれも、情報を集める前に事態が激しく変わり始めてしまったせいだ。
「そして何をしに行くかといわれたら、もちろん……たくさんの方が幸せになるためですよ。
せっかく起こした騒ぎです。 有効に活用しましょう」
それが自分の起こしたものであろうが、他人のミスで発生したものであろうが、発生したトラブルを利用して自分に都合の良い状況を作り出すのはクーデルスの得意技である。
物理的な争いを好まない南の魔王は、そのぶん実にしたたかであった。
「うわぁ、胡散臭い」
「何をおっしゃるのですか。 私は常に、みんなの幸せと豊かな生活について考えている、とても善良な存在なのです」
本人が愛と誠実に満ちていると思っているその顔は、まさに胡散臭さの見本品。
髪の隙間からちらりと覗く眼鏡のフレームが、日差しを反射してキラリと光った。
その胡乱な笑顔の後ろでは、ようやく変異した
――あたかも、凄惨な嵐の訪れを予感させるように。
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