86話

 クーデルスの問いに、男爵令嬢は少し考え込んだ後に自らの理想を口にした。

 そこに針と糸と毒が仕込まれているとも知らずに。


「幸せ……それは誰もが不満がなくて、満ち足りた生活を送ることです!!」

「はい、大間違いですね」

 一瞬も躊躇いを見せない、見事なまでの即答である。

 そして否定するクーデルスの声は、哀れみすら漂うほどに男爵令嬢を下に見ていた。

 その態度が癪に障ったのだろうか。

 男爵令嬢が掴みかからんばかりの形相で吼える。


「何が違うって言うんですか! あなた、私を馬鹿にしているでしょ!!」

 だが、その問いに答える前にクーデルスの口元が笑みの形に歪んだ。


「人間と言う生き物はね、そんな綺麗な生き物じゃないんですよ。

 そもそも、人と言うのは不満があるからこそ頑張る事ができるのです。

 頑張る必要が無くなったら、人は何もしません。

 すべてを与えてしまえば、その人は何か困っても誰かが助けてくれるのをただじっと待つようになります。

 貴女の掲げる理想とは、すなわち人を怠惰の罪に陥れることなのですよ。

 はい、あなたは悪人の……いえ、人を罪に誘う悪魔の仲間入りです。 おめでとう!!」


 もっとも、人が全てにおいて満ち足りるなど、それこそ悟りでも開かないことにはありえないのだが、クーデルスはあえてそこには触れない。


「違う! 私、そんなつもりで言ったんじゃ!!」

「お黙りなさい。 感情だけで筋の通らない言葉を口にしないでくださいますか? 耳が汚れてしまいます」

 感情の赴くままに言い訳を口にする男爵令嬢だが、クーデルスはその言葉をさえぎるように平手で机を叩いた。

 バシンと言う大きな音の後に、痛いほどの沈黙が生まれる。


「貴女が知らなかっただけで、そういうものなのですよ。

 愚かであるという事は、これだから怖いのです。

 しかも、自らが間違っていたと理解しても反省すら出来ない。

 最低ですね、貴女」

 まるで性格の悪い姑のようなやり方で、クーデルスは男爵令嬢を追い詰めはじめた。


「それと、貴女は先ほど言いましたよね。 がんばっているのだから、その努力を認めろと」

「それが何だというんですか! 努力が報われない世界なんて地獄でしかないでしょ!!」

 なかば自棄の混じったその叫びに対し、クーデルスは笑みを深める。


「がんばった結果、少し良い思いをする。

 すると、それを見たがんばっていない人も思うのですよ。

 アイツだけいい思いをしているって」

「だったらその人も努力すればいいだけじゃないですか!」

 たしかに、男爵令嬢の言葉は正論だ。

 だが、正論であるがゆえに、クーデルスは彼女の事を愚かだと嘲った。


「お馬鹿さんですね。 努力なんて、大概の人は嫌なんですよ。

 それに、同じだけ努力をしても、同じだけ報われなければ意味がない。

 人の口にする『幸せになりたい』という言葉の頭にはね、『何もせずに』と言う言葉が隠れているのですよ。

 そして、自分の思い通りにならないことを人は不満に思うのです。

 だいたい、この世に生まれた者は誰一人平等ではない。

 知性、体格、体質といったそれらの才能、そして家柄の差。

 これらの不条理を、貴女はどうしようというのですか?」


 それは、明確な答えを返し、その禁忌に触れてしまったならば、心を粉々に砕かれてしまう……実に恐ろしい魔物であった。

 だが、愚かな男爵令嬢は迂闊にもこの魔物に触れ、魔王の問いに答えを返してしまったのである。


「ならば、せめてすべての人間に平等な機会を! 生まれに囚われず、すべての民に学習する機会を与え、その能力が評価される場所を作るのです!」

 本来、彼女と同じく頭の中がお花畑であるがゆえに、彼女が何と答えるかをクーデルスが予測しているとも知らずに。


 ――あぁ、やはりそう答えてしまいましたね。

 そしてクーデルスは内心のため息を笑顔で押しつぶし、予め定められた言葉を口にする。


「そのやり方では、王家に従わないものにまで知識を与え、反逆分子を生みだしてしまうでしょう。

 節度をわきまえないものにまで知識を与えて、どうするのですか、貴女は」

「それでも機会は与えるべきなのです!

 罪を犯すものがいるかもしれないけど、それを克服できる知恵もまた、そこから生まれるかもしれないじゃないですか!

 いいえ、きっと生み出すことが出来る! 人類はそこまで愚かではないのだから!!

 そうすれば、今よりはずっと平等で公平な社会が出来上がります!

 私達の未来は、そうあるべきものなのです!!」


 そう、今の世の不条理を嘆く者ならば、誰だってそう答えるに違いない。

 自らの理想が、実現すべきものであると信じるがゆえに。

 だが……それこそが誤りであり、クーデルスの仕掛けた罠であった。


「貴女ね、それは傲慢と言うものですよ。

 今豊かな生活をしている人は、その先祖が、そしてその血を引くものが努力した結果です。

 だいたい、人という生き物がそんな上等な生き物だと思っているのですか?

 人類の未来を信じてほしい? それですら結局は人類のためのみの未来の事でしょ。

 それを正義などと呼ぶ……貴女たちはなんと邪悪な生き物でしょうか。

 自らの邪悪さも認められない生き物に、知性を口にする資格はありません。

 そもそも、幸福とは権利ではないのです。

 ……その正体は、ただのエゴだ!」


 あまりにも根本的な否定の言葉に、男爵令嬢のみならず周囲で聞いている者たちまでもが自らの肩を抱いて震えだす。

 アデリアやガンナードにいたっては、吐き気がするのか胸や腹を押さえていた。


「そもそも、下手に知性を持つ庶民なんて生み出されては困るのですよ。

 主に王族や貴族の方々がね。

 下にいる者が半端な知性を持てば、確実に今の社会のあり方に不満を憶えます。

 そしてその多くは、自らが支配者になろうとするでしょう。

 今の貴女みたいにね!

 そして支配者を踏み越えようとする者が増えれば社会が揺らぎ、多くのいさかいが生まれるでしょう」

「それは、今の社会のあり方が間違っているからです!! 貧しく、虐げられている人々が大勢いるのに、なぜ王族や貴族だけが安穏として暮らしているのですか!! そんなの間違っている!!」

 正義、理想と言う甘い言葉に酔いしれ、男爵令嬢は自らがどこに誘われているのかを理解しない。


 この場の会話を聞いていたアデリアが、言葉短く冥福の祈りを捧げる。

 そんな様子をチラリと横目で確認してから、クーデルスはその言葉の牙をついにあらわにした。


「じゃあ、貴女は……なぜその王族の中に食い込もうとしているのですか?」

「決まっているわ! それは私が王妃になって、この世の中を少しでも良くしたいと思っているからです!」

「その結果、王族や貴族の方々が困っても仕方が無いと? 今の社会がおかしいから、誰かを犠牲にしてでも変えてしまおうと?」

「だっておかしいのだから仕方が無いでしょ!

 なぜ、生まれや育ちで差別されなければならないのですか!

 人は生まれながらみんな平等であるべきなんです!

 王族とか貴族とか、そういうものが存在しているのがおかしいのです!!」


 すると、クーデルスは不意に後ろを向いた。

 そして、ここから視線が通らない衝立の向こうに話しかける。


「……だそうですよ? 王家の権威を否定し、社会の根底である身分制度を破壊しようとしている。

 これ、完全に王族への反逆ですよね?」

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