81話
その後、男爵令嬢の挑戦は何度も行われた。
だが進展は非常に遅く、一ヶ月近くたった今も王太子の救出はままならない。
……とはいえ、男爵令嬢が自力で助けるのは早々に諦めたらしく、攻略開始10日目からは別の冒険者ギルドから冒険者たちがやってくるようになった。
そして、毎日のように全員が全裸で戻ってくる。
原因は、クーデルスが開発してばら撒いた非殺傷生物兵器、通称フルモンティ・チックというダニのせいだ。
これは目に見えないほど小さいくせに、それが非生物であれば植物繊維だろうが皮だろうがすさまじい勢いで分解し、全てを良質な肥料に変えてしまうという代物である。
さすがに金属鎧や刃物までは分解できないが、有害な薬物もほとんどを無害なレベルまで分解し、それでも残る重金属などは体内で共生している別の微生物が膜に閉じ込めて無効化してしまう……という、なんとも優秀なお花畑のガーディアンであった。
お察しの通り、これは麻を管理している生体農具の応用だ。
そして、彼らが作り出した肥料を
なお、この世界ではすでにガラスをレンズに加工する技術があるため、目に見えないほどの小さな生き物の存在はすでに知られている。
しかし生憎と教育制度は貧弱で知識の格差が激しいため、情報弱者である一般の冒険者には全く知られていなかった。
むろん、生物学が専門ではない男爵令嬢も、その手の技術に興味が無い護衛連中も、そんな知識は持っていないので、この生物兵器に対抗などできるはずがない。
当然ながら、そんな状況では冒険など出来ない。
武具や防具はもとより、荷物を持ち歩く袋なども全滅してしまうからだ。
たとえ真っ裸で魔物の闊歩する迷宮に挑む蛮勇の徒がいたとしても、すぐに大怪我をしたりた食料が尽きて路頭に迷うのが関の山である。
よって、この攻防戦は完全にクーデルス側のワンサイドゲームになっている状況だ。
おそらく、よほどの幸運か神々の介入でもない限り彼らが攻略に成功する事はないだろう。
一方、ハンプレット村の外部では、無理な麦の育成で大規模な立ち枯れが起き始めていた。
まだ大騒ぎするほどの変化は見られていないが、冬小麦の苗は栄養不足と残留する鉱毒のために成長が遅く、そのほとんどがゆっくりとくすんだ黄色に変わり始めている。
ライ麦を植えたハンプレット村をのぞき、飢饉の影は確実に近づいていた。
そんな翳りゆく秋の最中、クーデルスの元へと一人の客が訪れる。
「ようこそ。 お忙しいのにご足労いただいて、ありがとうございます」
「なに、かまわんよ。 これも大儀のためじゃ。
そちらこそ、身内の恥に巻き込んで申し訳ない」
その男性から謝罪の言葉が漏れた瞬間、クーデルスとダーテンを除いた全員の顔が引きつった。
そして顔を凍りつかせる連中を代表して、アデリアが完璧に宮廷の作法を踏襲しつつ前に進み出て跪く。
「もったないなお言葉でございます。
「おお、アデリア。 見ないうちにすっかり大人の女になってしまったね。
君にも色々と辛い思いをさせてしまった。
あの時、病に臥せっていたとはいえ君のために何も出来なかった私を許してほしい」
その男性は包み込むような優しい笑顔に深い苦悩をにじませると、跪いているアデリアをそっと抱き寄せる。
「もったないなお言葉でございます」
感涙に打ち震えるアデリアであったが、そんな感動の空気を読まずに口を挟むものがいた。
クーデルスである。
「それで、その後のお加減はいかがですか? 陛下」
「
まさか、不治の病である脚気があのような方法で簡単に治ってしまうとは」
現在では多くの方がご存知だろうが、脚気の原因はビタミンB1の欠乏だ。
この病、小麦を多く食べる文化圏ではほぼ発生しない。
つまり、この国では本来発生しないはずの病なのだ。
それがなぜ脚気になってしまったのかと言うと、この男性……小麦を食べると熱が出て倒れる体質、小麦アレルギーだったのである。
しかも、他の重要なビタミン源である肉が好きではないため、慢性的にビタミンB1が欠乏していたのだ。
そして、クーデルスがこの男性に教えた事は、アレルギーを起こさずビタミンB1を多く含む食べ物、ライ麦とオーツ麦を食べることであった。
「あれから色々とお試しいただきましたが、ライ麦はどうでした?」
「今のところ問題ないね。
君の言うとおり少しだけ食べて様子を見てみた結果、大麦はダメだったが、ライ麦とオーツ麦ならば今のところ問題ない」
一口に小麦アレルギーと言っても、その症状はいくつかに分かれる。
アレルギーの原因物質はグルテンと呼ばれるひも状に長く連なった蛋白質だが、全ての麦がこのグルテンを含むとは限らず、麦の種類によってはグルテンがあってもアレルギーを起こさない事もあるのだ。
なお、麦は大まかに4種類に分かれ、小麦、大麦、ライ麦、オーツ麦がある。
そしてライ麦はアレルギーを起こしにくく、特に燕麦とも呼ばれるオーツ麦にいたっては、グルテンが含まれない麦であった。
「では、この村のライ麦を……」
「うむ。 この村で取れたライ麦を私の愛用品ということにして売りに出してもかまわないよ。 私の病を救った食物として、後日正式な書状を出そう」
「ありがとうございます」
クーデルスが深々と一礼すると、その男性は鷹揚に微笑んだ。
すでにお気づきだろうが、この男性……非常に地位の高い人物である。
そして、身分の高い人物が愛用し、褒め称えた代物と言うのは大きな価値がつく。
つまり、安い雑穀であるライ麦やオーツ麦も、高級品にはやがわりだ。
もちろん、クーデルスが実際の品質についても手を抜くはずが無い。
だが、商品を売るためには品質だけではダメなのだ。
そして、思い出しほしい。
この村は飢饉に備えて安価であるはずのライ麦を作り、そのライ麦を売ったお金で税を支払おうとしている。
なぜライ麦だったのか? その選択肢に多少の疑問は残っていただろうが、その答えがこれなのだ。
おそらく、クーデルスはこの男性を助けることでライ麦を高く売りつける事を最初から計算していたのである。
しかも、第一級の女神であるモラルが降臨している事も利用して、『第一級の女神の加護の元で育った、不治の病を治す麦』という
相変わらずの根回しのよさに、ガンナードはポカンと口を開けたままになり、アデリアは優雅に微笑み、サナトリアはニヤニヤしていた。
もっとも、残りの二人……ダーテンは苦笑し、エルデルは会話の内容がわからないのか途方に暮れているだけであるが。
そして話が一段落した事を感じ取ると、その男性は新たな話題を切り出した。
「それで……私の上の息子は今何を?」
「はい。 迷宮の奥、私の用意した楽園で、美しい魔物たちと優雅な生活を送っておりますよ」
クーデルスの言葉を聞くなりその男性の表情が一変する。
それは、怒りとも失望とも取れる代物であった。
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