26話

 ――あぁ、もう我慢できない。

 あの建物の中で、食欲と言う感情をたぎらせている奴らがいるかと思うと、食指がうずいて仕方が無かった。


 そして限界まで高まった渇望は、彼女にとって都合のいい妄想を悪魔のように囁きかける。

 ――もしかしたら、あの男は植物の操作に特化しているだけで、実はたいした攻撃手段を持っていないのでは無いだろうか?

 いや、きっとそうに違いない。

 だとしたら、注意すべきは二級神の若造だけと言うことになる。


 それならば、頼りない村人たちなどに任せず、自分がこっそり後ろから近づいて、襲いかかってしまおう。

 あの厄介なスイカの蔓は、水を引き抜いて枯らしてしまえばいい。


 そんな誘惑に、彼女の心は突き動かされる。

 単純すぎ……と思わなくもないだろうが、だいたい、そんな誘惑を断ち切る事ができるならば、国を滅ぼすようなマネはしないのだ。


 淫神モラルは陶然とした表情で舌なめずりをすると、そっと村人達の人垣から離れて建物の後ろに回りこんだ。

 そして無詠唱の水の魔術を使って建物の壁板を凍りつかせ、つづいて酸を使って音も無く削ってゆく。

 壁が薄くなるとすかさずスイカの蔓が飛び出してきたが、モラルはあわてずにその手のひらをむけた。

 すると、枯渇の魔術によって緑の蔓は一瞬で干からび、動く力を失って根元からポッキリと折れる。


 さぁ、これであの若造と中年男を守るものは何も無い。

 桁外れに魔力の強い彼らの欲望は、一体どんな味がするのだろうか?


「うふふ、こんばんは。 貴方たちがあんまり閉じこもっている者だから、私のほうから来ちゃった」

 夢見るような声に雌獅子の渇望をにじませ、バリバリと枯れた蔓をかきわけるようにして、彼女は色とりどりの光を放つ花園の中に足を踏み入れた。

 だが、中にいる連中もただそれを座ってみているわけではない。


「テメェ! この俺に対してほぼ正面から喧嘩を売るとか、ナメてんのか!!」

 即座にダーテンがその拳に魔力を纏わせて殴りかかってくる。


「あら、いやん」

 だが、あらかじめその動きを読んでいたモラルは、滑らかな舞のような動きでその拳を掻い潜り、猫のようなしなやかさでその向こう側に足を踏み入れる。


「しまった!!」

 モラルの足を向ける先に何があるかに気づき、ダーテンが切羽詰った声を上げた。

 彼女の狙いはダーテンの後ろで身構えているクーデルス。


 そう。 いくら彼女でも、闘神であるダーテンと殴り合って勝てるとは思ってはいなかったのだ。

 つまり、最初からモラルの狙いはクーデルス。

 穏やかで平凡な顔の下に、むせ返りそうなほどに濃厚な激情を匂わせた中年男であった。


「うふふ、さぁ、貴方はその分厚い眼鏡の下にどんな感情を滾らせているのかしら?

 わたしに教えてくださらない?」

 モラルはクーデルスの巨体を捕らえると、その分厚く逞しい胸に自らの胸を押し付ける。

 そして彼の眼鏡を取り払った瞬間、

「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 彼女は絹を裂くような悲鳴を上げた。


 そこにあったのは……いや、無かったというべきだろうか?

 前髪と眼鏡の向こうには、目も眉も無いのっぺりとした肌だけが広がっていたのである。

 しかも、その顔がパックリと縦に割れて、そこから無数の触手が彼女に向かって解き放たれたのだ。


「いっ、いやぁぁぁぁ! 助けてぇぇぇぇ!!」

 全身を緑の触手に絡みつかれ、モラルは涙混じりに助けを求めた。

 だが、頼るべき村人や団員たちは、飲めに歌えやの宴会真っ盛り。

 そもそも、クーデルスの放った遮音結界のために、小屋の中の物音は一切外には漏れないのだ。

 彼女がどれほど叫ぼうとも、それこそ神様にだって届かない。


「ちょっ、なによこの変なの! いやっ、どこさわってんのっ! あっ、ダメっ! そんなっ! らめぇっ!!」

 魔術を放って触手を引きかはがそうにも、使おうと思った瞬間にものすごい勢いで魔力が触手に吸い取られてゆく。

 しかも、触手は彼女が痛くない……むしろ気持ちよくなるよう意図したかのごとく、モラルを優しく締め上げ始めた。


「すげえなぁ、兄貴の言ったとおりになったわ」

 もだえるモラルを見つめながら、ダーテンが腕を組んで呆然とそんな台詞を呟く。

 その後ろで藁のベッドが盛り上がり、大柄な中年男が姿を現した。


「いやぁ、思ったより単純に引っかかってくださって、とても助かりましたよ。

 自分の欲望に忠実な貴女なら、きっと我慢できずに後ろから仕掛けてくる。

 さらに、ダーテンさんを狙わずに、私を優先的に落としにかかると読ませていただきました」


 穏やかな口調で語るクーデルスに、モラルは激しい怒りを覚える。

「ちくしょう、謀りやがったなこのエロ親父! 痴漢! 変態! あっ……だめっ、こんな……いやっ、やめて! お願い、とめて! おかしな気分になっちゃう!!」

「それは貴女がそういうことを求めているからでしょ? なにせ、それはダーテン君の鏡の力をこめた代物ですからね。

 貴女の欲望に従い、貴女の望むことをしているだけですよ。

 人のせいにしてはいけませんね」

 涙混じりにもだえるモラルを見下ろし、クーデルスは冷たく言い放った。


 脳味噌まで筋肉で出来ていそうなダーテンだが、その本当の属性は地であり、特性は太陽の写し身である鏡。

 クーデルスが色々と確認した結果、実は光を放つだけでなく、敵の能力を一時的に使ったり、反射したり、相手が強大であればあるほど自らの力も増してゆくという……かなりトリッキーな加護をもたらす闘神である事が判明したのである。

 もっとも、ダーテンが理解していない力まではコピーも反射も出来ないため、本人の知性がかなり足を引っ張っているのは否めない。


「さて、貴女にはおとなしく天界に帰っていただきましょうか。 さすがに第一級の不良神は私の手にも余りかねない」

「い、いやぁぁぁ! お願い、やめて! いま戻されたら、また封印されちゃう!!」

 彼女の特性を考えれば、それが一番妥当な扱いだろう。

 野放しにすれば、彼女はきっと我慢できずに人々の欲望を吸い尽くしてしまうからだ。


 だが、送還の魔術を発動しようとしたクーデルスの手を、誰かがつかむ。

 振り向くと、ダーテンが真面目な顔で何かを考えてこんでいた。


「いや、兄貴それなんだけどさぁ……俺と合祭ってことにはできないかな?」

「なぜです? 村の信仰を分散させてもメリットは何も無いと思いますが?

 それに、彼女の暴走を貴女に止められるとも思えませんし」

 思いもよらない提案に、クーデルスはおもわず首をかしげる。

 ダーテンにしても、彼女がいないほうが色々と都合がいいはずであるからだ。


「ほら、俺もなかなか地上に降りる事ができなくて色々とあったし……なんというか、嫌なんだ。

 わがままだって事はわかっているけど、どうにかできないかな?」

 大きな体を丸めて、ダーテンはすがるようにクーデルスを見つめた。

 その捨てられた子犬のような顔に、クーデルスはこっそり心の中で苦笑する。


「神である貴方が、神ではない私にお願いですか?

 まったく……立場が逆でしょう?」

「うぅっ、俺、すげーかっこ悪い」

 そんな指摘にがっくりと肩を落とすダーテンではあるが、クーデルスは仕方が無いとばかりにため息を吐いた。


「とりあえず、モラルさんの送還は一度保留と言うことで。

 あまり期待しないで待っていてください」

「兄貴!」

 パッと顔を輝かせるダーテンだが、そこにいを唱える者がいた。


「ふ、ふざけんな!!」

 一体誰であろう?

 その声に振り向くと、それは触手で雁字搦がんじがらめになっているモラルであった。

 しかもその姿は、触手に捉えられたまま無理に暴れたせいで、ただでさえ露出度の高い衣装がずれてしまい、もはや青少年には見せられないような有様である。

 そんなあられもない格好のまま、彼女は吼えた。


「格下のテメェに、なんでアタシが同情されなきゃならねぇんだよ! 寝言は寝てから言え!!」

 あぁ、なるほど。

 プライドと言う奴ですね。

 クーデルスは思わずポンと手を打った。


「では、今すぐ天界に帰りたいと?」

「はっ、やってみやがれ! みてろよ、いつかもう一度天界を抜け出して、お前等に復讐してやる!

 その時は、悲しみや絶望だけを残してお前等の感情を全部吸い尽くして……」

 モラルの意図を確かめるためにクーデルスが顔を近づけると、モラルはその顔に拳をたたきつけようと全力でもがく。

 その拍子に、クーデルスの眼鏡が触手にぶつかって飛んでいった。


「……あ」

 その瞬間、モラルはぼんやりした顔になって動きを止める。

 しかも、その頬が微妙に赤い。


「すいませんが、敗北を認めてくれませんか?

 でないと、今度こそ手荒な手段を使わなくてはならなくなります」

 真面目な口調で語るクーデルスの顔を、なぜかモラルはいつまでもぼんやりと見つめ、そして素直に頷いたのであった。

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