揚羽蝶 : 乙女よ、我と来たりてその衣を脱ぎ捨てよ
1話
魔族と人間の勢力のちょうど境目にある人里はなれた森の中。
鳥と獣の他は誰も足を踏み入れないこの場所に、突如として強い魔力の気配が揺らいだ。
その異様な気配に、鳥たちはバサバサと音を立てて逃げ惑い、茂みの中からはウサギがあわてて飛び出してくる。
やがて……不意に、木々の間から紺色の鮮やかな光が漏れ出し、そして消えた。
異変が終わり森が平穏を取り戻した頃。 茂みの奥から、深いため息と共に低い男の声が響き渡る。
「はぁ、ついにこの時が来てしまいましたか。 覚悟はしていましたが、いきなりでしたねぇ」
そんな台詞を吐いたのは、先ほど追放された男、クーデルスであった。
「みんなから疎まれているのは知っていましたが、まさか永久追放の呪いまでかけられるとは」
耳を傾ける者が誰もいないと分かっていても、口にせずにはいられないのだろう。
その中年男……つい先ほどまでは魔帝王を支える四天王の一人であったこの男は、眼鏡を外して頭痛をこらえるように額に手を当てた。
「亡き先代からは、次の魔帝王を助けてやってくれと頼まれていましたが……ここまで徹底的に嫌われているなら、もうそのお願いも無効ですよね?」
自らのやましさをごまかすように問いかけたところで、誰も返事をする者はいない。
ただ、聞かせる相手は一人だけいる。 それは彼自身の良心だ。
「もう、いいでしょう。 行き場の無い私を拾ってくださった先代への義理は十分に果たしました」
なぜそんな台詞を自分自身に言い聞かせるのかといえば、ひとえに彼の心が亡き先代魔帝王との約束を破ることに耐えられないせいである。
魔王の名を冠せられているにもかかわらず、彼自身はあまりにも善良であった。
……ただし、魔族のわりにはとつけなければ ならないが。
「そもそも、先代には恩だけでなく恨みもありますしね。
ええ、思い返すも忌々しい、膨大な仕事の海に消えた我が灰色の青春時代。」
苦い過去を思い出し、クーデルスは深々とため息を吐く。
なにせ、これまでクーデルスの元に配属された者は、クーデルスを蔑視するあまり全員が出勤拒否。
身内のコネを使ってそのまま一度も顔を見ないままに転属するか、クーデルスの下につくことに耐えられず退職するケースしかなかった。
そのため、魔帝国全体の食料供給を担当していた彼の業務は想像を絶する激務であったのである。
むしろ、この400年以上にわたる業務が、彼一人の努力でどうにかなっていたほうがおかしい。
もっとも、仮に仕事の状況がまともであったとしても、彼にモテ期があったかどうかは定かでは無いが。
考えているうちにそんな現実に行き当たり、クーデルスはガックリと肩を落とした。
そして数分後。
落ち込んでいたと思われたクーデルスだが、突如として自分の拳を握り締め、眼鏡をかけなおすとキッと真剣なまなざしで空を見上げる。
そして叫んだ。
「……いえ、まだ終わってはいません!
私の青春は、ここから始まるのです! そうです! 幸いなことに私は見た目が人間と変わりませんし、人間の世界に紛れ込んでしまえば、甘く切ない恋におぼれる事もできるはず!
あぁ、すばらしい! なんて、ステキな未来ではないですか!!」
そう。 彼の頭の中は、彼の属性同様なかなかにお花畑であった。
今までは悲惨な勤務状況のせいで押さえつけられていたが、もはや彼のお花畑な脳みそを阻むものは何も無い。
そして、ここから彼の暴走が始まる。
「心配があるとすれば、我が家の家畜さんたちの世話ですが……まぁ、彼らはほっといてもどうにかなるでしょう。
あぁ、そうです。 私にかけられた先代魔帝王の呪いは消えました。 私は……私は……もう自由なんだ!」
だが、晴れ晴れとした言葉とは裏腹に、彼の目から涙が
それはキラキラと森の中の木漏れ日を照り返しながら、頬を伝って顎の先から滴り落ちた。
「嫌ですねぇ。 いつかはこうなるだろうとわかっていたのに、まるで心の整理がついていない」
苦笑いを浮かべたところで、心の傷は欠片も癒されない。
おそらく、彼の傷を癒せるのば時間だけであろう。
「あぁ、そうですね。 感傷は後でいくらでも浸ればいい。
とりあえず、やるべき事をしましょう……と言うより、まずここはどこでしょうか?」
気分を変えるように、クーデルスは周囲を見渡して独り言を呟いた。
魔帝王の言葉通りであれば魔族が支配する領域ではないと思われるが、逆に言えばそれだけしか情報は無い。
これが風か地の属性を持つ者であれば魔術をもって調べる事もできたであろうが、あいにくと彼の属性は"お花畑"である。
いかに彼の魔力が魔帝国全域に影響を与えるほど膨大であったとしても、向き不向きばかりはいかんともしがたいのだ。
「どう見ても、近くで人間が生活している気配はありませんね。
これは……生活基盤を自分で作り上げろということでしょうか」
もっとも、近くに人里があったところでこちらは一文無しである。
考えてみれば、最初からそうするしか選択肢はなかった。
「まずは食料を何とかすべきですね。 そこはどうにでもなりますが」
そう呟くと、クーデルスは目の前の茂みに向かって指を伸ばす。
「
次の瞬間、目の前の茂みが白く染まった。
いや、一瞬にして白い花が咲き乱れたのだ。
その茂みを構成する、種類の異なる植物全てに同じ花が……である。
「
だが、次の魔術が唱えられると花が一瞬で散り、無数の青い果実が後に残された。
さらにその果実もまた、風船に息を吹き込むような速度で大きくなり、赤く色づき始める。
そして実を結んだのは……林檎だった。
異なる種類の植物に、草にも潅木にも大きな林檎が実っている。
もしもここにクーデルス以外の知的生命体が存在していたならば、その異様さに自分の頬をつねっていたに違いない。
植物の成長を促進するような魔術は地の魔術に存在するが、それはあくまでもその植物本来の姿の枠組みにとどまる話である。
だが、この現象はその部分を完全に逸脱していた。
たとえるならば、人の頭から髪の毛のかわりに無数のウサギの顔が生えてくるようなものである。
つまり、完全に理屈に合わない。
そんな不気味ともいえる技術を研究するような奴は、興味を抱いた時点でよほどの天才か完全なキチガイだ。
「ふむ、少し無理をさせたせいか味が薄いですね。 やはり果樹は時間をかけて優しく育てるに限ります」
収穫した林檎を一口かじると、クーデルスは不満げにそう呟く。
この奇跡のような結果を成し遂げてなお、その表情には微塵の達成感も存在していなかった。
なぜなら、属性"お花畑"とは、現実を捻じ曲げて『望む場所の、望むモノに、望む花を咲かせる』と言う異様な現象を司っている属性……つまり、この現象は彼にとって実に基本的な技術に過ぎないからである。
その性格と先入観のせいで見落とされつづけていたのだが、クーデルスの能力の異常性はまさに魔族の重鎮たりえる代物だったのだ。
この悪夢か冗談にしか聞こえない恐ろしい属性にわざと"お花畑"という名を与え、クーデルスを善良で小市民的な性格に育てた犯人こそ、先代魔帝王。
今は亡き彼は、実に性質の悪い詐欺師であった。
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