金色の海に沈めた種が花開く


 ~ 八月二十六日(日) early morning ~


 アキノキリンソウの花言葉 幸せな人生

 スイセンノウの花言葉 私の愛は不変




 おじさんの記憶。

 三人の記憶。



 去年の夏。

 海に行ったころまでは。


 日に、何度か。

 ぽつりぽつりと思い出していたのに。


 最近。


 それが少なくなった気がする。


 おじさんの教えてくれたことは。

 例えば食事の時。

 お箸を持つ前に手を合わせたり。

 例えば神社の鳥居は。

 隅っこの方を通るようにしたり。


 人として、俺を形作るいろんなところに生きているのだけれど。


 それが、自分の中の当たり前になると共に。

 おじさんの教えとしての色彩が薄れていくような気がして。


 だからだろうか。



 俺は今。



 おじさんの顔を。




 上手く思い出せない。




 ――大好きだったおじさん。

 いつも一緒に遊んでくれたおじさん。

 その記憶は薄れていくのに。


 大好きだった穂咲。

 いつも隣にいた穂咲。

 その記憶は、色鮮やかに胸に残っている。



 …………そう。

 大好きだった穂咲。



 もともとは。

 好きなのか嫌いなのか。

 そう言った感情ではなく。


 父ちゃん母ちゃん。

 犬や猫。

 ハンバーグ。

 それと同義で。


 好き。


 そう言っていたと思うのだけれど。


 好きという言葉の意味が。

 俺の成長と共に変化を遂げていくと。


 本当に好きなのか。


 改めて、考えるようになってしまった。




 ……いや、ひょっとしたら。




 俺は、あの頃の穂咲が好きなのでしょうか。




 昔は。

 あの頃は。


 おじさんがくれた景色、体験。

 新しい扉を開いてもらうたび。


 過去の事も。

 未来の事も。

 何も気にせず、ワクワクしていた。


 そんな、無邪気な君の笑顔が。

 俺は好きなのだろうか。


 でも、穂咲の横顔から、その頃の面影が消えてしまったのは。

 大人びた憂い顔を見せるようになったのは。


 きっと、おじさんから。

 新しい扉を開いてもらえなくなったせい。



 ……だったら。

 あの頃の君に会うためには。

 大好きだった穂咲に会うためには。


 子供の頃のように。

 ワクワクするような扉を。


 俺が開いてあげればいいんだ。



 ……そう。



 俺が。



 …………おじさんには。



 もう、それが出来ないのだから。




 ~🌹~🌹~🌹~




 ほとんど眠ることなく。

 過去を、未来を。

 いろんなことを考えた夜を過ごして。


 ようやくちょっとだけ、うとうとできたと思ったら。

 ほんのり、空が明るくなってきました。


 日の出はもうちょっと先。

 すっかり昼間みたいに明るくなってから。

 意外とここからが長いのです。



 ……それにしても寒い。

 明け方が一番冷えるって言うけど、ほんとその通りなのです。


 とくに顔が冷たい。

 剥き出しですし。

 なにか被るものはないかしら。


 その質問に、頭の隅からオレオレと返事をしたのは。

 すぐそばに転がっているであろう、オレンジチェックの毛布くん。


 でもきみ。

 片面はびっしょりで。

 片面は、穂咲の香りをさせてるじゃない。


 無理よ?

 却下。


 …………いや、寒い。


 オレオレ。


 却下。

 寒い。


 オレオレ。



 …………ねえ、聞いてる?

 却下だってば。



 オレオレ。



 ……ええい!

 背に腹はかえられん!



 もぞもぞと寝袋から腕を出して。

 仕方なく穂咲面を顔にかぶせると。



「ふごっ!? …………とらーっぷ」



 地面に落としていたもんだから。

 乾いていたはずの穂咲面が、朝露でびしょびしょ。


 濡れタオル状態になっていたので。

 窒息するかと思いました。


 ……危うく、俺の死因の欄に。

 『穂咲のせい』と。

 怒り心頭で書きなぐる事になるとこでした。



 もう、こうなったら起きてしまいましょう。

 ガスバーナーで火をおこせば、多少は暖かいでしょうし。


 眠たい目をこすりこすり、寝袋のまま腰をおこすと。

 目の前に広がっていたのは美しいお花畑。


 すっかり雲が消えているので。

 優しい色彩が寝ぼけ眼にゆっくりと溶けて行きます。


 アキノキリンソウが群れ咲いて。

 黄色い穂先を重たそうにお辞儀させて。


 だから、思わず口をついた言葉は。


「おはようございます」


 深々と頭を下げた後。

 寝袋のファスナーだけ開いて。

 寒さと引き換えに自由になった両手で。


 身をよじって。

 紅茶を沸かすのに必要なものをかき集め。


 小さなケトルに水を張って。

 ガスバーナーに火をともして。


 面倒なので、先にティーバッグを突っ込んで蓋をすると。


「うおっ!?」



 ケトルの蓋から垂れ下がったティーバッグの持ち手が炎上しました。



 ……なんか、ダメだなあ。

 俺が登山を趣味と口にしていいのは、随分と先の事になりそうです。


 でも、昨日と違って、お星さまは今の醜態を見ていませんし。

 お日様だって、まだ山の向こうですから見えるはず無いでしょうし。


 と、いう事で。

 今のは無かったことにしましょう。


 ……そう、思っていたのですが。


「きみ。今の、見てた?」


 すぐ目の前に首を垂れるアキノキリンソウ。

 黄色いお花の中から、俺を見つめるテントウムシ。


 これも、金色の中の赤いものかな。

 でもきみ。


「べつに、綺麗じゃないのです」


 そんな失礼な言葉を聞いたテントウムシは。

 ぶぶぶと羽根を広げて、飛んでいきました。


 ……女の子だったんだろうな。

 ゴメンね、女性の扱いに慣れてなくて。



 そんな小さな失恋劇を演じていたら。

 穂咲がもぞもぞとテントから出てきました。


「…………寒いの」

「ああ、今沸いたとこなので、これでも飲みなさい。紅茶、いくつ?」


 いつもはスティックシュガー二本ですけど。

 寝起きはもう一本多めかしら。

 そう思って聞いたのに。


「……いっぱい」


 紅茶の数で返事をしやがりました。


 当たり前です。

 俺の分と、二杯分しか沸かしていませんよ。


 大きなマグカップに半分、紅茶を注いで。

 スティックシュガーを三本溶かして渡してやると。


 寝ぼけたタレ目が膨れ面。

 おかめみたいな生き物が俺をにらみます。


「……いっぱいって言ったの」

「まじか。ややこしいやつなのです」


 仕方が無いので、ケトルに沸いた紅茶を全部注いで手渡すと。

 ようやくいつもの無表情。


 そして飴色を口に含んだ寝ぼけ顔が。

 ほうと息をついて、マグカップを撫でまわします。



 ……穂咲のぼさぼさ髪。

 見慣れてはいますけど。


 なんだか、今は特別に見えて。


 そんな穂咲が、柔らかく微笑みながら。


「朝ごはん、いつものでいい?」


 などと言い出すので。

 俺は、未だ山の向こうで寝ぼけているお日様より先に。

 赤い顔で辺りを染めることになりました。



 さっきまでは。

 俺が楽しい思い出をあげなきゃ、なんて思っていたのに。


 君はいつだって、忘れられない思い出を。

 俺にくれるので…………、あれ?



 今。


 いつものやつって言いました?



「いやいやいや! 玉子なんて入れたの? さすがに割れてるだろ!」


 呆れた俺の視界を横切って。

 アタックザックの前に、ふらふらと揺れながら近付いた穂咲は。


 馬鹿でかいあくびをふわあとしながら。

 なにやら宅配の箱みたいなのを取り出すと。

 手も出さずに、こっちも向かずに。


「……ん」

「便利ですね俺は。えっと、はいどうぞ」


 俺が、声だけで切るものを欲した穂咲に十得ナイフを渡してあげると。


 こいつはコルク抜きのぐるぐるを起こして。

 ガムテープを破き始めました。


「一番苦手そうなヤツに任せちゃいましたね。らんぼーです」

「……段ボールだけに」

「くだらないこと言ってないで、ちょっとお貸しなさい」

「だいじょぶ。あとは破けるの。……さあ剥けたぞ! 実験結果を確認するぞロード君!」

「びっくりした。急にスイッチ入れないでくださいよ、教授」


 玉子を手にすると、マッドサイエンティストに変身する穂咲が。

 もとい、教授が。

 段ボールの中から、たっぷりの綿を掻き分けていくと。


「おお! 教授、奇跡が起きました!」

「ふふん! まずはここまでの実験は成功なのだよロード君!」


 玉子を掲げて、高笑いを始めた教授が。

 バーナーにフライパンを乗せたので。

 俺は火をつけながらサラダ油を手渡します。


「見事に生きてましたね、玉子」

「じゃあ、早速息の根を止めるの」

「言い方ね。もっと食べ物に感謝なさいな」

「感謝してるの。ありがとうなの」


 まあ、知っていますけど。

 君はどんな食材にもありがとうって心で言いながら包丁を下ろしますものね。


「いやまて。バイト中、トマトに酷いことしてやがりましたよね?」

「なんのことなの? あたし、食べ物は必ず美味しくいただくの。変な事を言う道久君なの」


 ……これですよ。


 どうして君の記憶は自分に都合の悪いことから順に消えていくの?

 俺は、君からトメイトウスプラッシュを浴びたことは生涯忘れませんからね?


「玉子には、ちゃんとありがとうした?」

「当然なの。おっとっと」


 寝ぼけまなこで足元のおぼつかない穂咲が。

 石にけつまずいたかと思うと。


 転びながら放り投げた玉子が。

 逃げる間もなく俺のおでこでスプラッシュ。


 ……まったく。

 舌の根も乾かぬうちに。


「俺がこれ以上お肌ツルツルになったら、どう責任を取ってくれるのです?」

「パックは、夜やった方が効果的なの」

「言いたいことはそれだけか」

「一機死んだの。あと二機しか無いから慎重に行くの」


 ごめんねと、玉子に謝りながら顔を拭いて。

 食べ物は大事になさい。

 そう口にしようとした俺は。

 ふと、思い出したのです。


 同じ言葉を、俺に向けて言ってくれたのは。

 真剣な表情をしたおじさんでしたね。


 ……いえ。

 真剣な表情、だったはずなのです。


 でも。

 やっぱりその顔を。



 上手く思い出すことができません。



 ……だから、俺は何も言えなくなって。


 

 楽しそうにフライパンを振る穂咲の笑顔を。



 見つめていることしかできませんでした。



 

 ~🌹~🌹~🌹~




「結構楽しかったの」

「そうですね」


 おいしい目玉焼きを食べ終えて。

 俺が食器をティッシュで拭いていると。


 ああそうだと、何かを思い出した様子で。

 穂咲がザックの中を漁ります。


「記念に、タイムカプセル埋めてくの」

「また!? そんなのまで入れてたのですか」


 ザックから取り出して、俺に押し付けてきたものは。

 紺色に白いお花模様の楕円形のクッキー缶。

 そこにでかでかと『22号』と書かれておりますが。


 以前、おじさんの埋めたタイムカプセル探しをして以来。

 こいつはいろんなとこに埋めるのですけど。


 ほんとはダメなのですが。

 どうしても止めることが出来なくて。


 学校、公園、俺の家の庭。

 おじいちゃんの豪邸にも埋めてきたらしいのですが。


「覚えているのでしょうね」

「何をなの?」

「埋めた場所」

「もちろんなの。十か所全部」

「十一個が迷宮入りっ!」


 ほんと呆れた。

 君は、自分が書いた缶の数字を読めないの?


「えっと、どこがいいかな……」


 溜息をつきながら見つめる穂咲の背中が。

 山道から、盆地側の灌木の方へのそのそ進んで行きます。


 下ばっかり見て、柔らかそうな土を探していますけど。

 その先、結構急な斜面に見えますので。


 スキーウェアのまん丸穂咲なら。

 落っこちて、どこまでも転がって行きそうなのです。


「危ないので、フードを掴んでおきましょう」


 そう言いながら立ち上がった俺から。



 …………たった一瞬で。

 すべての思考が奪われました。



「……穂咲」

「なんなの?」


 振り返った穂咲の手を引いて。

 灌木の小山を掻き分けて。


 今まで、地べたに座り込んでいたせいで。

 灌木の高さのせいで見えなかったものを。



 今、視界のすべてで捉えました。



 ――まるで。

 雪で作られた大海原。


 真っ白な海に、十、二十……。

 百を超えて、幾重にも重なる波が躍り。

 一つ一つの波頭が、透き通る光を放って。

 それが遥か彼方まで広がる盆地を隙間なく覆い尽くしていたのです。



 これが雲海。

 なんという自然の神秘。



 昨日、うっすらと見えていた盆地の街並み。

 そこに暮らす人々にとっては。

 ただの曇り空。


 でも、俺たちから見れば。

 山々で切り取られた、巨大な箱庭の中に。

 神様が一晩かけて作った大海原。



 ……アルバムの写真、きっとこれだ。

 おじさんは、これをカメラに収めたんだ。



 でも、色が違う。



 …………いや。

 そうか。



「綺麗なの」


 少し冷たい、小さな手。

 握った手から、ほうとため息が漏れます。


「ずっと探してた金ぴかより、嬉しいかも」

「…………そのまま待っていて」


 穂咲は俺の言葉に不安げな視線を向けると。

 一つ頷いて。

 再び、雲海へ目を落とします。



 俺が見せてあげるから。

 君の探し物を。




 …………おじさんの代わりに。




 思わず手に込めた力が。

 小さな君を驚かせてしまったようだけど。


 でも、まるで返事をしてくれるかのように。

 君の手が。

 俺を信じて握り返してくる手が。


 いつもより。

 熱く感じられたその時。



 雪の世界を。

 大海原を。



 山から現れたスポットライトが。

 幻想的に染め上げていきます。



 高さの揃った白い波が、同時に縁から眩しく輝きだして。

 雲海の中に。

 無数の太陽が昇ります。


 そんな子供たちを見つめながら。

 真っ白な雲海を金色に染め上げた太陽は。



 自らは。



 赤く。



 赤く煌めいていたのでした。




「……金色の中に、赤いのが浮かんでるの」


 穂咲は、ため息をついて。

 俺から離した小さな手を胸の前に組んで。


 瞬きもせずに。

 祈りをささげる少女になると。


 ずっと探し続けていた景色を。

 その胸に焼き付けるのです。


「……太陽の光は、水平線に近いと波長の長い赤色になるのです。……でも雲海と太陽、同じ色になっちゃってますし。君の探し物とはちょっと違う?」


 そんな問いかけにも。

 こいつは首をふるふると振って。


「金色の中に、赤いのが浮かんでるの」


 さっきと同じ言葉で。

 ずっと、口にし続けてきた言葉で。



 ……少し、涙ぐんだ声で。

 繰り返し。

 呟くのでした。





 ――おじさんとの思い出を探し歩いて。

 こんな形で俺たちの前に姿を現した、金色の中の赤いもの。


 ずっと探し続けていたゴールを前にして。

 君は、何を想うのでしょうか。


 それを推し量ることが出来ないのは。

 朝日に照らされて。

 水晶のように透き通る君の横顔が。


 大人びた微笑に。

 何かの諦めを滲ませていたせいなのです。



「道久君が、見つけてくれたの」



 喜びに溢れた言葉に。

 喜びとは違う感情をのせて。

 君は言います。


「いや、俺じゃないよ。おじさんが連れて来てくれたんだ」


 そう諭しても。

 大人びた横顔は、ふるふると首を振り。


「違うの。……これは、道久君が見つけてくれたの」


 まるで自分に言い聞かせるように。


 …………まるで、過去を振り切るように。


 同じ言葉を。

 繰り返しました。




 おじさんとの思い出は。

 金色の海に溶けていくように。

 俺たちの記憶から消え始めているけれど。


 これからはこうして。

 自分で新しい扉を見つければいいのですね。


 そして君も、まだ見ぬ誰かのために。

 金色の中の、真っ赤なキラキラを伝えていくことになるのです。


「穂咲。次は、俺たちが伝える番なんだよ」

「…………不安なの」


 そう呟いた、ずっと隣にいてくれた人。


 その人は。

 震えるような息を、ひとつ吐くと。



 大人びた横顔に、きゅっと決意を込めて。



 こくりと。



 頷きました。





 …………ユズリハは。

 若い葉の為に。

 古い葉を潔く落とすけれど。


 次の葉は。

 もう、すぐそこに生まれているのです。


 君は、もう。

 与えられる側では無く。


 思い出を。

 作ってあげる番になるのです。



 ……でもね。



 それを。

 一人でしなさいと言っているのでは無くて。




 今、決めたから。




 俺が。




 半分手伝ってあげるから。




 ――まるで昨日の夜みたいに。

 白と黒の霧に包まれた世界。

 そこを十一年。

 ずっとさまよい歩いていた俺たちは。


 晴れ渡る青空の下。

 金色に輝く海を前に。


 遥か彼方に浮かぶ真っ赤な太陽を目指して。

 舟をこぎ出せばいいのだと知ったのです。


 不安だらけだけど。

 きっと大丈夫。


 だって、二つの船が。

 並んで進めばいいのだから。



 誰にでも、いつかは訪れる船出の日。

 そんな日が突然訪れたことに戸惑いつつも。



 俺と穂咲は。

 暖かな岸辺から。


 今。


 小さな小さな船に乗り込んだのです。





 …………そんな船を。



 おじさんが。





 岸から、そっと押してくれました。





 大きな手が。

 遠くで大きく、おおきく振れています。


 でも、その姿は。

 次第にぼやけはじめて。


 すると穂咲は。

 小さな、ちいさな声で。



 こうつぶやいたのです。




 「……いってきます」




 これからどうなるか。

 まるでわからないけれど。


 俺たちをのせた船は。



 白い海を。

 今、走り始めたのです。





 ……ヒバリの声がどこからか聞こえる中。

 ううんと大きく伸びをした穂咲が。

 スキーウェアの袖で涙を拭くと。


「背中を押してくれて、ありがとうなの」


 誰に向けて言ったのか。

 曖昧な言葉を口にします。


「頑張らないとなの」


 そして。

 きっと未だに残る未練を断ち切るように。

 自分に言い聞かせると。

 ふわりと朝日に背を向けました。


 すると。


 光に梳かれて、真珠の粒がするすると滑る金糸が広がり。

 大人びた横顔を御簾に隠すのですが。



 ……このまま、何も伝えずに帰すわけにはまいりません。



 胸が詰まっていますし。

 上手く言葉に出来るか分かりませんが。


 見るからに不安そうな君に。

 今にも心が折れてしまいそうな君に。



 伝えないと。

 俺の気持ちを。



 そう思って。

 口を開いた瞬間。




 …………俺たちの間を。




 まるで長い年月もの間、せき止められていたかのような突風が吹き抜けました。




 その突風は。

 辺りからは一切の音を拭い去り。


 穂咲からは、時を盗んでしまったよう。



 立ち止まったままの穂咲が。

 目を大きく、大きく見開いて見つめる先。



 盆地の反対側。

 湖を臨む花畑。

 そのすべてを覆い尽くすアキノキリンソウ。



 黄色い穂先が。

 朝日に照らされて、金色に煌めいて。



 ……そんな、金色の真ん中にぽっかりと。



 まるで、後から塗りつけたように。



 群れ咲くスイセンノウの、小さな花びらが。



 十数年の時を越えて。



 赤く。



 咲き誇っていたのでした。








 ねえ、おじさん。




 これを穂咲に見せるために。

 植えてくれたおじさん。




 ……聞こえますか?




 俺はまだ。

 教えて欲しいことが、ひとつあるのです。




「……俺たちはまだ、おじさんの子供でいて、いいんですね?」




 子供だから。

 どう表現したらいいか分からないから。


 穂咲は。

 瞬きもせずに。


 震える自分の体を。

 爪を立てて抱きしめると…………。




「ああああああああああああああああああ!」




 泣くでもなく。

 誰かに伝えるでもなく。


 ただ。



 ただ、声を上げ続けたのです。




「ああああああ! ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」




 膝が地に落ちた音も。

 俺が肩に手を置く音も。


 すべてを消し去る声が。



 金色の真ん中に。

 赤いものを塗りつけただけの。

 他愛もない世界に。




 …………大きな、大きな優しさの中に。




 ずっと、響き渡るのでした。





 ~🌹~🌹~🌹~





 タイムカプセルに、雲海の写真を詰めて蓋をすると。

 俺たちは、昔みたいに。

 二人でスコップを握って、穴を掘りました。


 何も口にしていないのに。

 お互いの胸の中がよく分かります。


 ……だって、きっと。


 君も、俺も。

 何も考えていないから。


 過去の事。

 未来の事。


 俺たちは。

 何も考える必要なんてない。


 だってすぐそばで。

 おじさんが見ていてくれるから。


 今は、こうして。

 穴を掘るという遊びを楽しんでいれば、それでいいのです。



「……さくさくが、楽しいの」

「そうだね。さくさくいうね」


 シャベルをどこに刺すか決めるのは穂咲の仕事で。

 それを押し込むのは俺の仕事。


 そして、声もかけずに同じタイミングで力をかけて。

 てこの要領で土を掘り返します。


 風に乗って聞こえてくるヒバリの歌声に合わせて。

 右へ左へ、一緒に揺れる俺たちは。


 そのうち自然に出発したくなるその日まで。

 ここで遊んでいるねと言いながら。


 苦笑いで頭を掻くおじさんに見守られて。

 砂遊びに興じているのです。


 ……いつもと同じ優しいタレ目で。

 困ったときのいつも通りに、左側の唇を持ち上げたので。

 犬歯の一本奥の銀歯が、いつものように顔を出しています。



 まったく、そんな顔しないでほしいのです。

 自分で引き留めたくせに。



 ……とは言え、あれです。

 穂咲と、約束だけはしておかないと。



 一緒の船で行こうね、なんて言うのはハードルが高すぎるので。

 そうですね、ここは、並んで船を漕ぎませんか、くらいが妥当でしょう。


 向こう一ヶ月分くらいの涙を流した穂咲の赤い目を見つめながら。

 俺は、覚悟を決めて、落ち着いたトーンで語りかけます。


「こっ! 漕ぎ船を並んでしませんか!」

「…………プルコギ? なに言ってるの?」


 くううううっ!

 ダメな道久君っ!


 まずは落ち着かないと。

 両手を広げて深呼吸です。


「あ、忘れてたの」

「すーーーーーー、はーーーーーー。どうしたのです?」


 一大イベントを前に深呼吸中の俺を放って。

 穂咲がアタックザックへかけていくと。


 見覚えのある革の財布を引っ張り出して。

 中から千円札を何枚も抜き取ります。


「こら。この間、君がすっからかんにしたから母ちゃんに泣いて頼んで前借りした小遣いをどうする気ですか」

「だって、あたしお財布持って来てないの」

「答えになってません。何する気か聞いているのです」

「タイムカプセルに必ず入れてるの」


 ……ああ。

 そんなこと言ってましたね。


 でも、今まで二十個以上埋めてきたのに。

 全部にそんな大金いれてるのですか?


「君がここの所、お金が無いお金が無いって呟いていた理由はそれですか」

「……お金が無い理由? それは、専門学校の授業料を貯めてるからなの」

「へえ! 偉いなあお前! …………ん? えっと、どういうこと?」

「人の話はちゃんと聞くの! だから、専門学校の……」

「じゃなくて。タイムカプセルにお金入れてるんだよね?」

「うん」

「お前のお小遣いから」

「ううん?」


 首を横に振った穂咲が。

 いつもの無表情のまま。


 片手に持った革製のものに。

 逆の手で指を向けているのですが。


 ねえ、知ってる?

 君のやってること。




 少女A。




 ……………………うん。


 決定。


「やっぱやめました!」

「急にどうしたの?」


 世界の全てに優しいくせに。

 どうして君という人は。

 俺にだけはそうなのです?


「穂咲の隣にいたら! すべて吸われる! やめやめ!」

「ねえ、何をやめたの?」


 お札を缶に詰めながら。

 眉根を寄せて俺を見上げる穂咲を置いて。


 俺は、灌木を掻き分けて。

 すっかり雲海が流れて消えた盆地に向けて。




 高々と。

 高々と、宣言しました。




「俺は! 考えるのを! やめたーーー!」





「秋山が立たされた理由」欄のある学級日誌 13.9冊目

 金色の海に浮かべた花は色褪せて


 おしまい♪


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