フヨウのせい



 ~ 八月二十五日(土) afternoon ~


   フヨウの花言葉 幸せの再来



 覚えているような。

 いないような。



 キャンピングカーで、穂咲とおでこをくっ付けながら眠った記憶はある。

 でも、まーくんがその旅行で一緒だったことはよく覚えていない。


 穂咲と山へ登った記憶はあるけれど。

 おじさんが一緒だったかどうかは、定かじゃない。



 曖昧な、昔の記憶だというのに。

 穂咲のことだけは、よく覚えているもので。


 俺の思い出とは、つまるところ。

 こいつとの思い出なのかもしれない。



 そういえば。

 こいつとケンカしたのはどこだったっけ。


 髪を引っ張り合って。

 お互いの名前をバカにしあって。


 そんな俺たちに。

 おじさんが、仲良くしなさいって。

 花の種を二つずつくれたんだ。


 ケンカなんかしていたことも忘れた俺は。

 夢中になって、地面をスコップで掘って。

 元気に育ちますようにって言いながら種を植えると。


 俺の前にしゃがんだこいつは。

 まあるい顔を、もっと真ん丸にさせて。

 ニコニコしながら種を見つめていたっけ。


 お花が綺麗に咲いたら、また見に来るの。

 そう言いながら俺の手を取って。

 一緒にスコップで土をかけて。



 ――君は知らないだろうけど。


 俺はその時。

 多分、生まれて初めて。



 ドキドキしていたんだ。



 だって。

 スコップを握る俺の手に。

 優しくかぶせた小さな手。


 ぷにっと柔らかくて。

 暖かくて、優しい手が。

 俺と、ほんの少し指を絡ませて。



 ……そんな手が。



 握っていたはずなのに。

 君の分の種。

 二つぶ。


 それは、どこへ行ったの?




 ……なんで君、口をもぐもぐさせてるの?




 ~🌹~🌹~🌹~


 


 朝の高原は涼しい。

 朝は。


 そう、朝は。


「あつい……。おもい……。むり……」

「だらしない道久君なの。あたしが荷物を持ってあげてるのに」

「……君が俺の荷物と呼ぶお茶のペットボトルが、空に見えるのですけれど」

「ちゃんと中身も持ってあげてるの」


 そう言いながらくるりと回った赤いナップザックが。

 白いワンピースのお腹をぽよんと叩いて。

 けぷっと喉を鳴らしたので。


 俺は、がるると喉を鳴らしました。



 ――ヒメジオンの花咲く。

 のどかな田舎道は。

 遠くまで見渡せる緑の茶畑と。

 山の景色に囲まれて。

 目には大変優しいのですが。


 どうにも、このわだちというものが。

 重い荷物を背負う俺を。

 とっても苦しめるのです。



 ひょんなことから登山と相成った。

 藍川穂咲とそのご一行。


 ご一行に数えられるのが俺一人なので。

 荷物は全部、俺のアタックザックの中。


 すげえ重いのですが、何入れやがりました?



 狭い田舎道を右へ左へ。

 楽しいものを探しながら歩く君に対して。


 ズシリと、一歩一歩を運ぶ俺は。

 とうとう後ろから飛んで来たちょうちょにも追い抜かされました。


 すると何を思ったか。

 ふわふわと漂うちょうちょが引き返して。

 肩に乗ったりするのですけど。


 ……ごめんね。

 今は、その数ミリグラムがうっとうしい。

 そして、穂咲のにやけ顔もうっとうしい。


「ゆっくり歩くの。ちょうちょ、捕まえるの」

「ご安心ください。ゆっくりとしか歩けませんから」


 穂咲が抜き足差し足で。

 俺との相対速度をゼロにしたその時。


 ……ゆらめく陽炎の向こう。

 草むらの中。

 木の幹に寄り掛かって倒れ込んでいる人の姿が目に入りました。


「穂咲!」

「ああ! 騒ぐから飛んでっちゃったの!」

「ザックを持ち上げろ!」

「え……? はい、なの」


 穂咲に支えてもらっている間に、急いでアタックザックのベルトを外し。

 身軽になったところで病人と思しき人のそばへ駆け寄ると。


「大丈夫ですか!」


 驚くほどの汗を流した、虚ろな目をした女の子が。

 遠く、ぽつんと見える民家を指差します。


 あそこまで連れて行けと言うのでしょう。

 病人さんを、下手に動かすのはダメだと教わったことがありますが。

 この暑い中、放置しておくわけにはいかないのです。


 俺は意を決して、彼女をおぶろうとしたのですが……。


「え? ……ウソ?」


 ちょっと待って欲しいのです。

 俺たちより年下に見える、この女の子。



 ……大きなお腹をされていらっしゃる。



 俺の隣で、口を両手で覆った穂咲は。

 どうしたものかとオロオロするばかり。


 その様子を目にしたおかげで。

 俺は、意を決することが出来ました。


 ……俺に出来るのだろうか。

 普段なら、そう考えるところでしょうけど。


 君にそんな泣きそうな顔をされたら。

 できるかどうかなんて考え、浮かびません。



 ……俺がやるんだ!



「ふんむっ!」



 さ、さすがは二人分の命。

 お姫様抱っこをした肘から。

 メキッと嫌な音が鳴ります。


 辛くて泣きそう。

 でも、早く。

 そして揺らさないように。


 俺は、泣きそうな目で見つめているであろう穂咲と共に。

 歯をこれでもかと食いしばりながら、民家を目指しました。




 ~🌹~🌹~🌹~




 フヨウの花咲く縁側で。

 足を投げ出して、麦茶をすする俺たち。


「ピンク色で、ふわふわなお花が綺麗なの。この辺の名物?」

「南のお花ですから自生できないでしょ。観賞用に植えているのだと思います」


 俺の解説に、ふーんと気のない返事をする穂咲は。

 輝く切子のグラスに浮かんだお日様をジッとのぞき込みながら。

 ぽつりとつぶやくのです。



「道久君、お花に詳しくなったの。勉強してるの。置いて行かないでほしいの」



 ……穂咲の言ったこと。


 不安そうに口からこぼした言葉は。

 最近、俺が感じているものとおんなじで。


 こいつも同じ思いをすると知って。

 ちょっとだけ安心しましたけれど。


 でも、やっぱり。


 午後の日差しに輝くワンピース。

 胸元や袖口を飾る刺繍の大人っぽさ。

 汗ばむうなじに張り付いたおくれ毛。

 ほうと息つく唇のつやめき。 



 俺の方こそ思うのです。

 置いて行かないでほしいと。



 ………………

 …………

 ……



 カメの歩みの俺を置き。

 穂咲が民家へ駆け込むと。


 中から姿を現した、割烹着姿のおばさんが。

 俺が抱えた女性を見て目を丸くさせて。

 はす向かいの診療所へ声を張りながら駆け出して、お医者様を引っ張り出してきたのです。


 ぱっと見、年下にしか見えないお姉さんを風通しの良い玄関先へ横たえているうちに、お医者様と助手の皆様が到着したので。

 俺と穂咲は場所を譲るために、仕方なく家の奥へ入りました。


 靴を脱いで上がってしまったせいで、治療が終わるまでどうすることもできず。

 縁側をお借りしてじっとしていたのですが。


 数分すると、玄関の方で明るい笑い声が聞こえましたので。

 俺は穂咲とともに、ほっと胸をなでおろしたのです。


 そのうちに救急車が到着して。

 縁側から玄関先を覗くと。

 先ほどの女性が、お父様と思しき方と一緒に乗り込まれたのですが。


 お医者様は笑いながら。

 こんなの呼ぶほどじゃなかったけど、呼んじまったのだからしょうがないと。

 割烹着姿のおばさんと共に見送るのでした。


 ようやく出れそうだね。

 そう穂咲に声をかけて立ち上がると。


 俺たちの荷物と共に。

 割烹着のおばさんが廊下から顔を出して。


「この度は本当にありがとうございました」


 手をついて頭を下げたりするものだから。

 俺たちも慌てて正座して。

 頭を下げたのでした。



 ……ええと、この場合。

 すぐにおいとまするのは失礼ですよね?



 ……

 …………

 ………………



 畳敷きの古いお宅は。

 窓もふすまもまるで開けっ放しで。

 お家の境界も。

 一体どこからどこまでなのやら。


 そんな田舎の邸宅では。

 なにかとご不便もあるのでしょうけれど。


「診療所がすぐ目の前なんて。恵まれたおうちなのです」

「本当にね。こういうところではね、お医者様が神様なのよ?」

「まったくですね」

「そしてお二人は命の恩人。ありがとうね」


 先ほどから下にも置かぬほどの扱いを受け。

 恐縮するばかりで、心底困ってしまいます。


「お嬢さんも、お腹のお子さんも。無事だと良いですね」

「お医者様が笑ってたの。安心なの」


 おばさんに声をかけたのに。

 穂咲が返事などするものだから。


 くすくすと笑われてしまって。

 恥ずかしいったらありません。


「気に病んだりするといけないから恥を承知で言うとね。あの子、寝不足のまま散歩に出て気持ち悪くなったんですって。お医者様に笑われて、恥をかいちゃった」

「……でも、やっぱり心配なのです」

「本当に大丈夫ですよ。あの子がお腹の中にいた時、あたしも似たようなことがあったから。きっと免疫がついてるの」


 免疫って、そういうものでしたっけ?


 改めておばさんを見ると。

 オレンジの花模様の水筒からお代わりの麦茶を注ぐ笑顔は。

 俺や穂咲の母親と大差ないくらいのお歳に見えます。


 そんなおばさんは、正座を斜めに崩しながら遠くの空に目を向けて。

 昔話をはじめました。


「東京にいた時にね、お腹に子供がいるのに、気分が良かったから、つい喫茶店でタバコを吸ってしまったことがあったの」

「ダメなの」

「そうなのよ、絶対ダメよ? だって、あっという間に気持ちが悪くなったんだから。もうどうしたらいいか分からないから、あたし、荷物を持ってトイレに行こうとしたのよ」


 客観的に見たら座ったままの方が良いのは明白なのに。

 自分も当事者になったら、無茶なことをするものなのでしょうか。


「その時、ちょうどお手洗いから出てこちらへ向かってきた方がいてね。あたしったら、タバコの煙で具合が悪くなったってその方に泣きついたのよ」


 おばさんが、身振り手振りを交えて楽しそうに話すので。

 穂咲も足を崩して前のめり。


 ほんと女性ってこういうお話好きですよね。


「そしたらその方、さっきのあなたみたいにお姫様抱っこしてくれて、タクシーへ乗せてくれたのよ? その時にお店のチラシをいただいてね。何かあったら連絡をくださいって」


 ふむふむとしきりに頷く、ドラマ大好きなこいつはさておき。

 なんとまあ優しい方がいたものだ。


 東京って、そういう時には誰も助けてくれないような印象があるけれど。

 偏見、良くないな。


「おかげであたしもおなかの子も助かったっていうのに、お礼が遅くなっちゃって。一か月くらい? それからはちょくちょく連絡取り合って、あの子が小学校に上がったばかりの頃、この実家に引っ越して来た時にはお子さんを連れて遊びに来て下さって」


 ニコニコとお話されるおばさんは。

 座ったままで戸棚の引き戸を開くと。

 中から臙脂のアルバムを取り出して。

 懐かしそうにページを捲ります。


「それで、向こうに見える山に登って行かれたわ。垣根の切れ目から道が出てるでしょ? そのまま行くとすぐに山道になるの。二時間ほど登ったら見晴らしがいい広場があってね、朝は雲海が綺麗なのよ?」


 満足そうにお話を終えたおばさんが。

 失礼と声をかけつつ、一抱えと呼ぶには少々つつましい寄木の箱を手繰ると。


 小さな引き出しからライターとタバコを取り出して。

 ぷかあと煙をくゆらせます。


「結局。あれからやめられなくてねえ」


 優しい笑顔から立ち上る紫煙を通して。

 日本家屋特有の焦げ茶が透けるのを眺めているうち。


 それが、銀幕のスクリーンに映し出されたセピア色の風景に見え始めます。




 天井の木目がカウンターに。

 柱の染みがウェイターさんに。


 そして欄間の辺りに見えるテーブルには。

 まるで映画女優のような女性の姿。





 彼女の正面には、着古したセーターに薄汚れたデニム姿の大きな男性が座り。

 携帯が鳴ると、女性は席を立ってお店の奥へ消えてしまいました。


 仕事の要件でしょうか、ちょっと長引きそうな様子に。

 男性は、席を外してトイレへ立ちます。


 そこへ入店された別の女性が、てっきり空いているものと思って腰かけたテーブルで、久しぶりに火をつけたタバコに具合を悪くしてお手洗いを目指していると。

 トイレから戻って来た男性に気付いて、助けを求めました。


 その男性は、女性を抱え上げてタクシーへ乗せてあげて。

 戻ってみれば、テーブルには口紅のついたタバコの吸い殻と、禁煙すると約束してくれたはずの恋人が待っていたのです。


 彼女が約束を破ったせいで、妊娠されている方に苦しい思いをさせてしまった。

 そう勘違いした男性は、恋人をきつく叱りつけたのでした。





 ……なぜこんな映像が思い浮かんだのか。

 それには理由があります。


 最近、穂咲のおばさんが話してくれた昔話。

 自分が吸った覚えのないタバコの吸い殻が灰皿にあったせいで、おじさんとケンカしたという話。


 禁煙を破ったくらいで。

 優しいおじさんが、おばさんと一月も話をしないほど怒るでしょうか。


 ずっとひっかかっていた糸の結び目が。

 割烹着姿で煙を楽しむこの方のお話と合わせると、するりと解けていくのです。



「……すいません。アルバム、拝見してもいいですか?」

「ええ、もちろん。優しそうな方でしょ? どことなくお二人にそっくり」


 そう言って、おばさんが畳を滑らせて差し出してくれたアルバムには。

 ……予想通りの人が。

 懐かしい笑顔で、二人の子供を抱きかかえていたのです。


「パパ……! パパなのっ!」


 まるでしがみつくように。

 アルバムを手に抱えた穂咲の様子を見て。

 おばさんが、目を丸くさせて声を上げます。


「まあ……、まあまあ! それじゃあ、お父さんに教えてもらって来てくれたのね? 大きくなったわねえ!」


 でも、嬉しそうな笑顔だったのも束の間。

 にわかにぽろぽろと泣き出して、写真に指を添わせる穂咲を見ると。

 おばさんは、眉根を寄せて尋ねます。


「どうしたの? お嬢ちゃん、なんで泣き出しちゃったの?」

「……おじさん、もう十年以上前に亡くなってしまったのです」

「え……?」

「俺たちがここに来たのは、偶然なのです」


 いつまでも鼻をすする穂咲を見つめながら。

 おばさんは、力無く崩れて。


 そして、寄木の箱へ優しく手を添わせると。

 ぽつりとつぶやいたのです。


「……そうなのね。最後にお会いした時は、あんなにお元気だったのに。……あの方に助けていただいた命ですもの。できることなら代わってあげたい……」

「だめですよ、そんなこと言ったら。……おじさん、きっと悲しそうな顔します」


 俺の言葉に、穂咲はえぐっとしゃくりあげながらも一生懸命うなづくと。

 大切そうにアルバムを閉じて。

 おばさんのひざ元へ差し出しました。


「……パパがね、連れて来てくれたの。おばさんに、あたしたちの元気な顔を見せてあげなさいって」

「ほんとに……、なんて奇跡なんでしょう。それに今度は、娘と孫の命まで救っていただくなんて……」


 ほろりと涙するその頬には。

 喜びよりも、悲しさが未だに濃く差していますが。


 穂咲に手を取られると。

 ようやく笑顔を浮かべて。


 ……そして、とんでもないことをおっしゃったのです。


「……お二人のお名前を教えてください。あなた方から、生まれてくる孫へ一文字ずつ頂戴したいので」

「ええっ!? そそ、そんな! 勘弁してください!」

「ふふっ。あの方と、同じことを言うのね」


 名前を差し上げるなんて。

 そんな大それたことできるはずもなく。

 必死に抵抗していた俺たちを前に。


 おばさんは、居住まいを正して。

 透き通った微笑で、こう言ったのです。



「……お二人が助けてくれた娘の名前は、藍子と言います」


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