トマムの浴衣

わたなべ りえ

トマムの浴衣


 私は、心霊現象など信じない。

 世の中、不思議がたくさんあれど、原因を突き詰めれば限りなく真実に近づけるものだと思うし、真実を知ってこそ物事は不思議だと思うから。

 何か要因があり、それが複雑に絡み合って、結果に結びつく。

 だからといって、おかしなものが見えたり、幽霊を見たりする人を疑うわけではない。むしろ、興味深い。そういったものに鈍感ではあるが、まったく見たことがないわけでもないからだ。

 人間、一生のうちのある期間、妙に霊感が強くなる時期があるらしい。妙に不思議な夢をみたり、体験をしたりする時期が。

 私の場合、それはあの夏といえるだろう。




 平成元年・夏。

 私は夏バテに悩まされていた。

 寝ても寝ても、眠った気になれない。食欲もなく、体重も激減した。

 当然、疲れやすく、すぐにばて、仕事もままならない日々が続いていた。休みの日には、どこへ出かけることもなく、部屋で扇風機が揺らす風鈴の音をぼんやりと聞きながら、ごろごろし、ストローで冷たい飲み物でも飲みながらくつろいだ。

 眠っているのか、起きているのか、わからない日中と、やはり別の意味で、寝ているのか起きているのかわからない夜を過ごしていた。



 樺太からふとという地に興味をもったのもこの時期だ。

 夜な夜な、夢の中で地図が浮かび、ここだ……ここだ……と声がする。見ると、草ぼうぼうの草原にぬかるんだ道があり、その向こうに集落の跡地らしきものがある。その途中、ボロボロの服を着た村人たちが、幽霊のように突っ立って、ぼうっと私を見つめているのだ。


 ここだ……ここだ……。

 ここにいる。見捨てられて、誰にも見つけてもらえんから、せめて骨でも拾ってくれ。 


 その夢は、樺太から日本人らしき骨が発見されたというニュースを見るまで、何日も続いた。

 地図は、北海道の南の先端、函館から札幌あたりまでのものかと思っていた。やや、縦長に伸ばしたような、噴火湾の湾曲をなくしたような。

 後から見比べると、なんと、樺太に似ていることだろう。しかも、夢の地図には当時ソ連領だった北半分はなかった。

 夢から解放されたあとも、どうも気になって仕方がない。

 それで時々、気がついたように、この地でどのような歴史があったのか、見たり読んだりするようになった。


 単なる夢だろう。


 だが、北海道の北の端には、樺太に思いをはせ、その地で亡くなった人を悼むモニュメントがある。氷雪の門だ。

 そして、樺太の地で最後まで電話交換業務を果たし、若き命を散らした女性たちの碑もある。


「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」




 とにかく、その夏は、こんな調子で神経が高ぶって仕方がなかった。

 寝ても覚めても、夢か現か幻か……よくわからないことが多かった。





 姉が夏の国体に出ることになり、家族総出で応援に行くことになった。

 姉は、カヌーの選手だった。正しくは、カヤックというべきか。

 激流の中、パドル一本でカヤックを操り、川に設けられたゲートをくぐって、ゴールする。背後から前方から、時に川上から川下から、流れに乗り流れに逆らい、ゲートをくぐるのだ。しかも、ゲートに触れてはならない。

 このようなスポーツがあることを、知っている人は多くないだろう。そう、私だって姉がやっていなければ知らなかった。

 はまなす国体。地元開催。

 それなりの成績を残したいのだが、選手層が浅く、活躍できそうな選手がいない。そこで、既に引退した姉にぜひもう一度……と、声が掛かった。

 比較的お気軽にこのスポーツを楽しんでいた姉にとって、地元の期待に後押しされて、というのは、かなりのプレッシャーだったようだ。

 実績のある選手だった――といっても……。

 今までの国体予選は、三人出て二人が選ばれるというような有様だった。実績があるといってもたかが知れている。全国レベルにははるか遠く……が、実態だった。後半はそれなりに成績を残したが、全国トップに比べると、かなり水をあけられていたと思う。

 だが、これが、最後の花道となる。

 地元開催で期待を背負い、優勝して有終の美を飾れれば、一生の思い出になるだろう。姉は、鈍った体に鞭打って、日々練習に明け暮れた。夫を置いて合宿に参加、かなりの気合いの入れようだった。


 そうなれば、家族総出で応援したくもなるだろう。

 このような状況で上位入賞を狙わなければならない姉だったが、絶対的な有利条件があった。

 地の利である。

 川の流れというものは複雑だ。競技コースとなった南富良野は、いわば姉の練習コースでもあった。

「私にしか読めない絶妙の流れがある」

 それが姉の強みだった。

 ところが、運命とは皮肉なもので、大会前に大雨が降り、川は氾濫寸前にまでなり、流れが変わった。姉にも見知らぬ川になってしまったのである。

 こうなってしまえば、期待していた地の利はない。完全実力勝負になってしまった。

「もう、彼女の時代は終わったんじゃないの?」

 という心ない声の中、姉は話しかけられないほどに緊張していた。


 さて、我々家族総出の応援団は。

 父が買ったばかりのビデオ撮影を試みていた。母と私、それに姉の夫は、岩にへばりつくようにして応援していた。

 練習や準備には長い時間がかかるというのに、競技はあっという間の一瞬だった。

 なんとも、花火のようである。ぽたん……と落ちた燃えさしのように、我々は肩を落としたのだった。

 ただ、父だけは必死にビデオを回していた。

 結果は三位。まずまずともいえるが、もう一歩というところか。

 完全燃焼……これで本当に姉は選手を引退した。


 ホテルは、富良野からは少し距離のあるトマムにとっていた。

 カタカナの地名は非常に珍しい。きっとリゾート開発のために改名されたと思う人もいるだろうが、れっきとした地名である。

 当時もてはやされたスキー・リゾートで高級感ある施設だった。回りが全くの自然たっぷり田舎なので、そのギャップが大きかった。

 私と父と母は、タワーと呼ばれる高いビルの一部屋に泊まり込んでいた。


「映っていない……」


 ホテルのテレビに接続して、父が呟いた。

 どうやら、姉の活躍は、父の操作ミスによってビデオに残らなかった。

「仕方がないよ、映っていないんなら」

 母と私が交互に言ったが、父は諦めが付かないらしく、何度もビデオを回し、テレビをいじった。

 父がビデオを諦めたのは、かなり遅い時間になってからだった。


 その夏の夜がすべてそうだったように、その日も寝苦しかった。

 無理に運び込まれたソファーベッドの上で、何度も寝返りを打っている間に、寝巻の帯が体に絡み付き、息苦しくなった。トマムの文字がプリントされている帯と浴衣である。

 私は起き上がり、父と母を起こさないよう、灯りもない中、帯を締め直した。


 すると。

 誰かの気配がした。

 暗闇の中、目を凝らした。


 ベッドの横に椅子があり、そこに誰かが座っている。

 ほんの、すぐ。目の前にだ。

 思わずぎょっとした。 

 誰だって、眠っているすぐ側に座られていたら、気持ちが悪い。

 暗闇の中、その人はテレビをぼっと見ていたのだ。気のせいか、テレビのブラウン管が、たった今消したばかりのように青白く光っていた。

 はげ上がった後ろ姿に、私ははじめ、父だと思った。

 ベッドに横になったものの、どうしても映らないビデオが気になり、起き出してガシャガシャやり始めたのだと思ったのだ。


「お父さん! いったい何やっているのよ!」


 つい、驚きすぎて、怒鳴ってしまった。

 トマムの浴衣を着たその人は、ゆっくり振り向いて、私の顔を見た。そして、びっくりしたように目を丸くした。


 だが、びっくりしたのは、私のほうだ。


 父ではなかった。

 細面の顔は、むしろ母に似ているくらいだった。父でなければ、ここにいるのは母しかいないのだから、暗がりで母だと思うのは当然だろう。

 しかし、はげ上がった頭は確かに男の人だった。

 年は六十、七十だろうか? 痩せこけて頬の落ちた顔、薄い唇から漏れてしまうやや梳けた歯。どこかで見たような顔なのだが、その誰とも一致しているようで一致しない。

 私は、じいっとその人を観察した。

 パクパクと口を動かし、何か言うのか? と思ったその人は、青白い肌をますます青白くして透けてゆき、最後には消えていなくなった。

 私の目には、最後の最後まで、白地に青い文字の『トマム・リゾート』の浴衣が残ったのだった。


 私の怒鳴り声に驚いたのか、母がむくっと起き上がった。

 その隣のベッドには、父が気持ち良さそうに眠っている。少なくても、今の人は両親でないことは間違いなかった。


「どうしたの? 眠れないなら、ベッド取り替えるかい?」

「ううん、いいよ」

「何か、恐かったかい?」

「いいや、別に……」


 私は寝ぼけたのかも知れない。

 この夏、寝苦しいことが続き、眠っているのか起きているのか、よくわからない状態が続いていた。となれば、とてもリアルな感覚の夢を見た可能性もある。

 でも、誰かを見て、怒鳴り声をあげたのは間違いない。でなければ、母が起きるはずがない。

 いや。

 夢を見て、思わず怒鳴り声をあげてしまったのか?

 私本人にも、よくわからないことだった。



 さて。

 この話を、心霊現象ととるだろうか?

 ただの、寝ぼけととるだろうか?


 心霊現象と思うには、あまりに恐怖が伴わない。

 むしろ、懐かしい人にあったような気がした。

 それに、立派な新しいリゾート・ホテル。由緒ある幽霊が住み着いているはずもない。

 かといって、寝ぼけと思うには、あまりにもリアルだった。

 なんせ、一番の印象は、幽霊らしきものが着ていたトマムの浴衣の残像なのだから。


 そこで、私は考えた。


 あの夏、家族総出で姉の応援をしたのだ。

 となれば、両親が毎朝、お経をお上げているご先祖様だって、姉の応援についてきてもおかしくはない。

 そりゃあ、ご先祖様が生きていたころには、リゾート・ホテルなどなかったはず。ならば、ちょいと泊まりたくもなるだろう。

 うつつでない存在ならば、まぼろしとなったビデオだって、再生して見られるのではないだろうか?

 みんなが寝静まった時間を利用して、リゾート・ホテルの浴衣に手を通し、ゆっくり姉の活躍を観賞して、悦に入っていたのだろう。

 そこで、なぜか私に怒鳴られ、びっくり仰天。慌てて消えてしまったのではなかろうか?

 そう考えれば、何となく納得できる。

 いや、その前に。

 そういった筋書きのほうが、楽しいし、うれしいし、面白いではないか。


 その夏が過ぎれば、私の体調は元に戻り、怪しい夢は見なくなった。

 よかったような、残念なような?


 私は、お盆が来るたびに、あの浴衣の人の顔を思い出しては、そういえば親戚の誰かに似ているんだよな……などと思いつつ、チーンと仏壇に手を合わせるのだ。




=了=

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