以心伝心

神城 朱

蕎麦一杯

 くだらねえ。


 北斎は死の床で、続々と訪ね来る古い知り合いを見て、そう思った。数年前に引っ越してきた、こんな田舎までわざわざ出向いて来るとはご苦労なこった。そんな無駄にする時間があるんなら、こっちに分けて欲しいってもんだ。


 どうにかなりませんかねえ。


 北斎は枕元にどっかと座る死に神に、心の声で話しかけた。もう体を動かすことも、声を出すことも出来なくなっていた。


 なりませんな。


 死に神が答えた。北斎はへえと思った。口を開かなくとも話が出来るのかい。便利なもんだなあ。もっとも、娘のお栄もそうだ。指示が無くとも、自分の意図を汲み取り、筆に乗せてくる。


 何もひと月って言ってるんじゃあないんです。ほんの数日恵んでもらえないかって相談です。


 あなたね、ご自分がお幾つかご存知ですか。既に他人よりずっと長く生きてらっしゃるんですよ。


 ええ、そこを承知でのお願いです。せめて一日。


 たとえ一日差し上げても、あなた、動けないじゃありませんか。


 そこはあなたのお力で何とか動けるようにしていただいて。


 あなた、とことん厚かましいひとですねえ。それじゃあ、こういうのはどうです。あなたの命はあと一刻ほどです。これをちいとばかり短くする。その代わり、体を動かせるようにする。これだと、あなたも私も助かります。仕事は早めに終えたいですから。


 のった!


 いいんですか。まだ、どれほどの間か言ってませんが。


 いかほどです。


 蕎麦一杯喰い終わる間てことにしましょう。


 あなた、けちですね。


 これでも、まけてるつもりなんですよ。


 いいでしょう。蕎麦一杯の間、与えてください。


 死に神はにやりと笑って、北斎に手を翳した。北斎は体から重い鎖が解き放たれたのを感じた。そしてやおら起き上がると、スタスタと自分の遺作になるであろう絵の前に歩いた。


 周りの驚きは尋常ではなかった。一杯喰わされたと怒って帰ろうとする者もいた。お栄は父のもとに駆け寄ると、父の使いやすいよう手入れしてある筆を差し出した。北斎は力強く頷き、それに絵の具をたっぷり含ませると、絵に向かって一筆払った。絵を見てまた頷くと、ガックリと崩れ落ちた。既に事切れていた。


 皆が北斎の死に騒いだ。しかし、お栄にはそれより最後の一筆が気になって仕方がなかった。なぜ、あんなところに筆を入れたのだろう。父と共に絵を描いたり、時には、父に代わってその名で絵を仕上げたりしたものだった。父の意図を理解し、思うところに筆を入れた。分身と言ってもよかった。しかし、最後の一筆だけは、どうしても理解出来なかった。


 おーい


 その時、父の声を聞いた。画号の応為とも、ただの呼び掛けとも思える、娘を呼ぶ声。


 お前の絵を描け。お前が描きたい絵を。


 北斎亡きあと、どっと依頼されて来るであろう北斎風の絵で、自分を殺してしまうなと父が伝えてくれたのだ。


 はい、そうさせてもらいますよ、おとっつあん。


 お栄の目から安堵のような暖かいものが零れ落ちた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

以心伝心 神城 朱 @AKA_KAMI

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る