花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 3
【解説】
※プロではないため、学校の知識、書籍、ネットでの情報をあわせたなんちゃって解説です。大雑把に裏設定として受け止めてください。
以下の知識を踏まえてオマージュした作品、というだけで、読まなくても本文に支障はありません。本作品は史実と異なる部分があります。
《文屋康秀 歌》
吹くからに 秋のくさきの しをるれば むべやまかぜを あらしといふらむ(古今249)
(大体の現代語訳)
山から秋風が吹くと、すぐに秋の草木が萎れはじめる。なるほど、だから山風のことを荒らしと言うのだなあ。
(補足)
・山風、嵐といふらむ
→「嵐」は「荒らし」との掛詞です。草木を「荒らして」枯れさせるので「あらし」と言うのだろうな、という意味が込められています。
同時に、「山」と「風」の漢字2文字を合わせれば「嵐」になる漢字の遊びも含まれています。
ちなみに漢字の部品を離したり合せたりして遊ぶ詩を離合詩といい、古今集では紀友則の「雪ふれば木毎に花ぞさきにけるいづれを梅とわきてをらまし」もその一例とされます。蛇足ですが平成初期のネット語でも一部そんな遊びがありました。
・歌について
→是貞の親王の家の歌合の歌。
892年の秋だか893年だかに、光孝天皇の第二皇子、宇多天皇の兄の是貞親王が自邸で催した歌合。
大江千里・藤原敏行・紀友則・貫之・壬生忠岑など有名歌人が参加していたとか。ただし判定の記録などは残っておらず、紙上の撰歌合であったとの説が有力だそうです。
《小野小町 歌》
1、秋風に あふたのみこそ 悲しけれ わが身むなしく なりぬと思へば(古今822)
(大体の現代語訳)
激しい秋風に吹かれた田の稲の実がこぼれ、空になってしまったら、悲しいことだ。そう、美しい黄金色を纏っていた稲も、たわわな実がなくなってしまえば、後は朽ちるだけ。深く頼みにしていた人に飽きられてしまったこの身が、虚しく朽ち果ててしまうように。
(補足)
・たのみ
→「田の実」と「頼み」の掛詞。
・わが身
→おそらく上記の「たのみ」に 「我が身」を合わせて対比している。
2、花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに(古今113)
(大体の現代語訳)
桜の花が、春の長雨が降っている間にむなしく衰え色あせてしまったように、私の美貌もむなしく衰えてしまいました。
私が恋や世間のことなど、日々の暮らしの中で物思いにふけっている間に。
(補足)
・花の色
→花は古典では「桜」を指しています。また「色」は視覚に訴える表現方法でもあり、容色の意、つまりこの歌では「女性の若さや美しさ」を暗喩しています。
・世にふる
→世は「世代」という意味と「男女の仲」という意味がある掛詞です。
また、「ふる」も「降る(雨が降る)」と「経る(時が流れる)」が掛けてあり、「降り続く雨」と「時間の経過を止められない自身」の2重の意味が含まれています。
・ながめせしまに
→「眺め」は「物思い」という意味と「長雨」の掛詞です。
3、わびぬれば 身をうき草の根をたえて さそふ水あらばいなむとぞ思ふ(古今938)
(大体の現代語訳)
このように落ちぶれて、我が身を憂しと思っていたところです。
浮草の根が切れて水に流れ去るように、私も誘いの水さえあればどこにでも流れてお供しようと思います。
(補足)
・うき草
→「浮き草」に「憂き」の掛詞。
・歌について
古今集の前文では以下のとおりです。
→「文屋康秀が三河の掾になりて、県見にはえいでたたじやと、いひやれりける返り事によめる…」
つまり文屋康秀が三河の掾になるにあたり、「私と田舎の見物に行ってくださらないですか?」と言ってきた返事に詠んだ歌。
本作品では康秀と小町の間に恋愛感情があったため、求婚のようにとれる使い方をしましたが、古今集では「恋の部」ではなく「雑の部」に収録されているように、実際は冗談混じりの贈答歌だったそうで、一緒について行くことはなかったとされています。
また作品でも触れましたが、プライドの高い小町が三河掾などの下級官吏である康秀についていくはずがないことや、歌を詠んだ時はすでに小町はすでに高齢であったと思われるなど諸説あるようです。本作品では歳をとったといっても、アラサーのイメージで書いていましたけれども。
《人物紹介》
1、文屋康秀
・六歌仙の一人。
・別称に文琳。形部中判事、三河掾、縫殿助など官職は低かった。
・仁明天皇の国忌の日に詠んだ歌があり、同じ天皇に近侍したと思われる小町とはその時点で知り合いだったかもしれません。
2、小野小町
・言わずと知れた伝説の美女。六歌仙、三十六歌仙の一人。祖父が小野篁だとか諸説ありますが、正確な出生は謎。
・惟喬親王の乳母だったという説もありますが、これも謎。
・続日本後記には、842年に仁明天皇の後宮で、正六位上に任じられた小野吉子という女性がいたとされています。小野吉子か、彼女に近しい人が小野小町だったかも、という説も。
・ 出羽国(秋田、山形の間)に生まれ、13歳で上京し、20年間宮中に出仕したそう。非常な美人で才女な小町に並ぶ女性はいないといわれ、数多くの男性から求婚されたそうですが、彼女は全て拒み続けたそうです。多くの男性の誘いを断り続けた小町は、その後次々と親兄弟に先立たれて、権力の後ろ立てを失って一人になり、やがて没落してしまいます。
宮仕えをやめてからは、晩年、世を避けひっそりと香を焚きながら92歳で天寿を全うしたという説もありますが、別の説もいくつかあるようです。
3、深草少将
・史実には実在しない人。
・百夜通いの際、小町の屋敷は京都の山科の隨心院と思い描いた上で書きました。
文中で「1里を超える距離」と表現しましたが、大体毎日1時間半~2時間ほどかけて歩くイメージです。
4、在原業平
・いわずと知れた有名歌人。美男子。
・在五中将と呼ばれていたそうです。
・平城天皇の孫。阿保親王の第五子。
・六歌仙・三十六歌仙の一人。
・紀静子の姪を妻としているので、朝廷では惟喬親王派として見られていました。また、伊勢物語にも彼と惟喬親王に親交があったと記述されています。
・なお、業平と文屋康秀、小野小町、良岑宗貞は同世代であったという説も。
5、小野宮
・惟喬親王のこと。
・文徳天皇の長男。お母さんは紀静子。
・跡継ぎ争いに敗れます。京を去った惟喬親王は出家し、小野の里に隠棲。小野の里は小野篁と関係がある地のようです。
・そのため、本作品では小野小町は彼の乳母役だったという過去を作っています。
・乳母であった(としている)小野小町はもちろん惟喬親王派。ほかに文屋康秀、在原業平も惟喬親王派。
・したがって上記の惟喬親王派は親王もろとも失脚します。(文屋康秀でいうと、作中の三河国に赴任になったことも左遷のひとつ)
6、水尾帝
・惟仁親王のこと。858年に9歳で清和天皇として即位。
・文徳天皇の息子。お母さんは藤原良房と文徳の伯母にあたる潔姫の娘である明子。あの藤原。つまり母方の実家が太いわけです。
案の定、良房は文徳天皇に圧力をかけ、結果生後8~9ヶ月の惟仁親王を皇太子に。
《時系列について》
・本作品での時系列のイメージです。
①小野小町の全盛期(10代?)の深草少将の百夜通い。
②アラサーになった小町が秋風の歌を詠む。
③同時期に文屋康秀が吹くからに…の歌を詠み、小町はそれを耳にする。(①の回想)
④康秀が小町の噂や秋風の歌を耳にする。
⑤康秀、小町に雑談を書いた手紙を渡し、やりとりが始まる。
⑥秋から冬、春にかけて手紙のやりとり。
⑦春先に清和天皇即位。惟喬親王と惟喬親王派は失脚する。
⑧春、中頃に小町は花の色の歌を詠む。美貌だけでなく、惟喬親王の失脚により権力も失墜。たぶんこのころにはすでに親兄弟も死亡。
⑨春、中頃に業平にばれる。また、康秀の左遷命令も同時期。
⑩数日後に御簾ごしに小町と康秀は対談。浮き草の歌。
⑪三日夜通いの後、二人は三河国へ。
・以下史実との相違。
・吹くからに…の歌(③)は、史実は892~893年に詠まれたといわれています。
・また清和天皇は858年に即位(⑦)。
・浮き草の歌(⑩)のころの小町はアラサーどころか、高齢であったという説もあります。
・三河国に誘うときも従者に手紙を持たせていたそうなので、対面はしていません。
・そもそも康秀と小町は恋愛関係ではありませんでした。
・三河国にも小町は行っていません。
・つまり、時系列も内容も「この物語はフィクションです」。
(補足)
小町が最後に「三日夜餅を用意する」といっている意味について。
・三日夜通い
→平安時代、三日連続で女性の部屋に夜通い続けることで結婚の契約が成立していました。
1日目は女性側の親に挨拶したり、女性の部屋に→後朝の文を交わし、二日目、そして三日目と通います。
三日目に「三日夜の餅」が彼らのところへ届けられ、お餅は二人で共食いするそうです。なお食べると基本的に離婚はできないそう。
百人一首 第九首 春の歌 および 第二十二首 秋の歌 相田 渚 @orange0202
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