花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 2

                ◇◆◇◆◇◆


吹くからに、と素晴らしい歌を詠む文屋君についてどのような人物なのか思いを十分に馳せる間もなく、当人から文が届いて驚いたのは、随分前のことである。


こんな私に文なんて、と不審に思いながら手紙を広げてみると、その文からは一切求婚の気が感じられなかった。

ますます彼の意図が見えず、もしかしてこんな身になった私に文をよこして仲間内で哂うお遊びをしているのだろうかと穿った考えが頭をよぎる。

そうはいかなくてよ、と思いつつも真摯な文面でよこされた文を無視することもできず、小町は無難な文をしたためた。


その一回きりだと思っていたら、その後も康秀からの文はまめまめしく届いた。

そのどれもに恋の歌はなく、徒然な事柄が巧みな言葉遣いで面白く書かれているのみであった。

始めのうちは警戒しながらも無難に文を返していた小町だったが、次第に彼の秀逸な文に惹きこまれ、彼に合わせるように技巧を凝らした返しを考えることに楽しむようになった。

そうしているうちに、いつの間にか秋どころか冬も過ぎ、桜の花が咲く季節となった。

相変わらず康秀の目的はわからないが、このまま彼とは良い文通相手でありたい、と春の暖かな風を感じながら小町は庭を眺めた。


昨日までの長い雨に桜の花は耐え切れなかった様だ。

さわさわとひっきりなしに数多の花びらが舞い落ちている。木の根元には夥しい数の花びらが散らばっていた。


秋は何かにつけて切ない気持ちを抱かせるが、こうして終わりを迎え舞い落ちる桜もまた、小町の心をざわめかせた。

若いころはその儚さに美を見出していたが、今となっては色あせた花びらが地面に散る様がむなしく思えるのだ。

そうして自然と「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」と口から零れた歌は、もちろん独り言のつもりだった。けれども話題に飢えた宮では隠し事ができるはずもなく、すぐに人から人へと伝わってしまったようだ。

数日後に届いた文屋からの文にも小町の歌について触れてあった。

まったく、おちおち一人で感傷に浸って歌を詠むこともできない。

文屋君に歌をお褒めいただいたことだけは良かったけれども。


口元を緩めながら文を読み進めていた小町は、最後の文章に目を見開いた。


                ◇◆◇◆◇◆


「突然の訪問をお許しください」


優しい、落ち着いた声。

御簾越しで顔はよくわからないけれども、この柔らかな声音は文から受け取っていた彼の印象から外れなかった。


直接お話ししたいことがある、という康秀の文に書かれた申し出は、先ほど本人が延べたとおり、青天の霹靂であった。

今まで求婚の気も、会いたいとすら一度も書かれたことのない、相手だったのだ。驚くなという方が無理である。


「…本来であれば季節の折に触れた口上を申し上げるところですが、まずは常日頃私と文を交わしていただいているお礼を申し上げます」

「…私も、貴方にお礼申し上げます。毎回楽しみに返歌させていただいています」


小町の口から出た声は、自身でも意外なほどに細く頼りないものだった。

これでは御簾越しの康秀に届かない、と小町は少し声を張る。


「まめまめしく文を交わす仲です。形式ばった口上を抜きにお話ししましょう」

「ありがとうございます。…では、お言葉に甘えて」


そこまで言うと、康秀は口を紡いだ。

姿や表情がはっきりと見えない小町からでもわかるくらい、康秀はそわそわとした様子で、しきりにふーっと息を吐いた。

三度はその動作を繰り返したかと思うと、意を決したように口火を切った。


「…実は、三河掾の任をいただくことになりました。したがって、私は近々都を出て三河国へ下ることになるでしょう」

「…まぁ、そうでしたの」


なるほど。

別れの挨拶だったのか、と理解するとともに小町は自身の心が沈んでいることに気がついた。落ち込んでいなければ、もっと機転を利かせた返しをしている。


この方も、また私の前から去るのね。


律儀に挨拶に来てくれる気遣いが嬉しい反面、自身から離れる彼に寂しさを覚える。

心なしか寒さを感じて、小町は暖をとるように自身の手を重ね、そっとさすった。


「私は、歌に少しばかり自信を持っておりますが、かつて貴女が歌を詠み交わしていた名立たる方々と比べるまでもない身分です。ですから、恋の歌はおろか、秋風の歌を詠まれた貴女を支えたいと思う気持ちを抱くことさえ、おこがましいとは重々承知しております」


どうぞお体に気をつけて、と予想していた言葉から大きくずれた内容を語る康秀に、小町は手を止めた。


「このような身の上ですから、想いを忍び、遠い地で貴女を想い我が身を焦がす日々を過ごすつもりでした。…けれども、いくら己の分を理解していようと、秋風や花の色につけて儚く歌を詠む貴女を置いて離れた地に赴くことはできそうにありません。どうか、どうか私と共に三河国へ下っていただけないでしょうか」


祈るように告げられた言葉に、小町は息を呑んだ。


「わびぬれば 身をうき草の根をたえて さそふ水あらばいなむとぞ思ふ」


このように落ちぶれて、我が身を憂しと思っていたところです。

浮草の根が切れて水に流れ去るように、私も誘いの水さえあればどこにでも流れてお供しようと思います。


三河につけて返歌したけれども、もう少し可愛げのある返しをすればよかったかしら、と少しばかりの後悔を覚える。

しかし、康秀はぱっと花咲くように明るい声をあげた。


「あぁ、都と違い不便な思いをさせてしまうかもしれませんが、この先貴女が寂しさに枕を濡らすようなことはさせません。私は貴女の美しいとされた噂に心惹かれたのではなく、貴女の美しい歌を詠む心等、日々の文のやりとりを通して貴女という存在に焦がれているのですから」


私も、貴方が秋の草木の歌を詠まれた時から、貴方という存在が気になっていた。と、内心思うものの小町の口からは「そう」と質素な言葉しか出なかった。


「明々後日には三日餅を用意させますから」


御簾越しでよかったと思うほど頬を赤く染めながら、小町は細い声で呟いた。

熱を逃すために風を感じようと窓辺にすりよると、榧の実がころりと転がっていることに気がついた。

春の夜にあるはずもないものだ。しかし不思議と訝しさは感じない。


小町はそっとそれを拾い上げて優しく手のひらで包み込んだ。

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