第2話 変われぬ人

 幼なじみのめぐみからこっちに戻ってくると聞いたのは寝る前の貴重な読書時間の最中だった。

 現役高校生が書いたことで話題になった青春小説。

 いつものようにベッドに寝転びながらゆっくりと読んでいた。 主人公が好きな先輩に告白し、振られるという場面で、机に置いていたスマートフォンから電話を知らせるバイブ音が四畳半の部屋に響いた。無視しようかと思ったがとりあえず相手を確認するためにベッドから起き上がる。

 スマートフォンの画面には『恵』と名前が出ていた。

 恵から電話をしてくるのはかなり珍しい。何か大事な用かもしれないと判断して通話ボタンをタップする。

「もしもし」

「『あ、出た。もしかして寝てた?』」

「寝てない。急にどうした?」

「『うん、直樹なおきにとってはたいしたことじゃないと思うけど一応伝えておこうかなって。私、近いうちにそっちに帰ることにした。』」

「はっ、なんで?」

 突然のことで思わず聞いてしまった。恵がどうしようが、どんな理由があろうが俺には関係ないのに。

「『なんでって聞かれるとうまく説明できないんだけどね。簡潔に言えば帰ろうと思ったから』」

 ほとんど答えになっていない。恵は自分のことになると、周りとの間に壁をつくる。そうして一人でなんでもやってしまうんだ。

「そう。なにか手伝うことでもある?」

「『まだ帰る日も決めてないんだ。退職届もまだだし。いろいろ決めたら何かお願いするかも』」

「分かった」

「『じゃあ、それだけだから。おやすみなさい』」

「おやすみ」

 プッと通話が切られる。

 恵が帰ってくる? あまりに突然すぎる知らせでついさっきまでの会話も夢のようにふわふわしている。ただ平穏だった心が微かにざわついて落ち着かない。

 もう読書を続ける気分ではなく、部屋の電気を消して布団に潜り込んだ。俺は、いつものように二度と目が覚めないことを祈りながら深い眠りに落ちていく。

 一日の始まりはなんの前触れもなくやってくる。朝顔が朝日を浴びると大きく花開くように、カーテンの隙間からこぼれる日差しや鳥のさえずりで目が開いてしまう。そして自分に「今日」がやってきたことに少しだけ絶望する。

 まだぼーっとする頭で記憶を読み出す。今日は六月十三日、水曜日。大学の講義は、三講義目の英語と五講義目の心理学がある。

 枕元の電子時計はまだ七時だ。三講義目は午後からだからまだ寝ていられるけれど、二度寝はもったいなくてできない。

 ベッドから起き上がり洗面所で顔を洗う。冷水が刺激になって眠気が飛んでいく。すっきりしたところで、昨晩の恵からの電話を思い出した。


ーー帰ろうと思ったから


 あの電話越しに聞いた声には何か決意が含まれていたような気がする。地元を離れると聞いたときにも、まるで自分に言い聞かせるような決意が優しくて澄んだ声に滲んでいて、一人取り残されるような寂しさと自分の弱さを引っ張りだされた。

 俺は誰でも入れるような地元の私立大学に進学し、消去法で経済学を専攻して田舎者の大学生になることしか選べなかったから。

 恵のように大切なものを背負って生きる強さなんてないし、叶えられるか分からないような夢を追う勇気もない。

「あら、起きてたの。今日は早いの?」

 母さんに話しかけられて思考から抜け出した。

「あ、いや目が覚めただけ。午後から大学に行く」

「そう。ご飯は食べる?」

「うん」

 母さんは起きたばかりのようで、目を擦りながら台所へ入っていった。

 朝食は白飯、みそ汁、野菜、焼き魚の四品だった。今までどれだけ母さんの作ったご飯を食べてきたか分からないけれどいつも美味しい。このご飯を食べられる自分は幸せ者だろう。生まれたときからある当たり前で、誰かにとっては幸せと言えるもの。

 幸せになる方法と題する本はたくさんあるけれど、どれもだいたい等身大の自分でいようとか、他人と比べない生き方が書いてある。俺はゆとり本と勝手に名付けた。ゆとり教育と同じだと思ったから。

 他人と競わず、自分らしさを大切にし、良いところを伸ばそうという教育。その結果、俺たちは何者にもなれず、とりあえず新社会人という肩書きを背負う。

 幸せを探すのは簡単だ。ただ自分にあるものがない人を想像するだけでいい。ない人と比べて自分は幸せだと思うことができる。

 でも、こうして絞り出した幸せで自分を慰めるのは滑稽だと思う。当たり前なことを特別とは思えないし、愚かな人間は理性で幸せと言うだけだ。失って初めて価値を付けられるのだから。

 思考と一緒にみそ汁でご飯を流し込んでいるとテーブルに置いていたスマートフォンが短く二回震えた。メールだ。

 片手で画面を操作して新着メールを開く。

 送り主は同じ大学に通う、付き合って二年になる彼女の美月みつきだった。 「今日、ゼミの打ち合わせだからね! すっぽかしたらご飯奢ってもらうんだから!!」

「やば。忘れてた」

 手帳に予定を書く習慣が全くないため忘れることが多々ある。 美月は俺のことを正確に理解しているし、重要なことはこうやって教えてくれる。本当にありがたい。「ありがとう、忘れてた。 ちゃんと行くよ。」最初は文字の入力が苦手だったけれど、今ではタイピングと同じで入力したいことを考えながら指を動かすことができる。それでもメールは面倒でつい短文になってしまう。 送信ボタンをタップして、残りのみそ汁を飲み込んだ。

「お、あの子かわいいー。今年の新入生はかわいい子が多いんじゃね?」

「興味ねー」

「おまえには美月ちゃんがいるもんなー。くそぉ、おれも狙ってたのに」

 そう言いながら学食のメニューを見ている雅人まさとの表情に悔しさは全くない。お昼の大学はとても賑やかだ。大学生が、大学生らしい服装で大学生らしい話をしている。特に食堂は、若いキラキラしたオーラがいっぱいに広がっている。自分もちゃんとこの空間に馴染めているだろうかと思う。表面だけでも普通でいたい。 「おばちゃん、天ぷら定食」

「おまえいつも定食だな。おれはカツカレー!」

「お前もいつもカツカレーだろ」

「このうまさを知って他を食べられるかよ」

「失礼ね〜。他のも美味しいでしょう!」

 おばちゃんのツッコミをヘラヘラ笑って誤摩化しながら雅人はカツカレーを受け取る。雅人がカツカレーを頼むのはボリュームがあって安いからだ。味ではない。俺の定食は単品より高いけど、バランスよく食べたいからいつも選ぶ。

 空いている席を探していると美月を見つけた。

 ゆるく巻いたセミロングの髪をうしろでしばっている。派手すぎない自然なメイク。そして隙がない。いつもそんな印象を受ける。

「おーい、ここ空いてるぜ」

 いつの間にか雅人は席を確保していた。

「美月ちゃんとは仲良くやってんの?」

「普通だよ」

 雅人はわざとらしく顔をしかめる。

「おめーはボケッとしすぎなんだよ。美月ちゃんに尽くさせてばっかだろ。草食系亭主関白か?」

「草食系亭主関白」という言葉が勘にさわった。だがはっきり否定する言葉も出てこない。

「うるせぇ。服にカレーつけて説教すんな」

 カレーがスプーンからこぼれ落ちるのを見ながら説教をかわすしかなかった。げっ、と雅人は白いTシャツについたカレーを布巾でゴシゴシと擦る。

「雅人くん、擦るより水かけて叩いた方が落ちるよ」

「あ、美月ちゃん。叩いて落ちるもんなの?」

「やってみてよ」

 美月は空になったトレーを持って雅人の後ろに立っていた。

「直樹は、ちゃんと放課後にゼミ来てね!」

「分かってるよ」

「そう言ってこの前は来なかったじゃない」

「悪かったよ」

 美月は疑いの目を向けながら、トレーの返却口へと去って行った。その様子をじっと見ていると、雅人がニヤニヤとこちらを見ていることに気づくのが遅れた。

ゼミの研究室に着いた時は、他のメンバーは集まっていた。先生はいつものようにいない。自分は研究に没頭して、学生には雑用ばかりだ。

「直樹、今日はこのノートを英訳な」

同じゼミの隼人はやとがノートを渡してくる。

「またか。たまには他の人がやってよ」

「他には何もしないでしょ、直樹」

 美月が睨んでくる。彼女にその目を向けられると何も言えなくなる。

「分かったよ」

 仕方なく鞄からノートパソコンを取り出し、ノートを広げ、書かれている日本語を英語に直していく。

 教授の執筆は汚い。最初は読めたものではなかった。それがいつの間にか教授の崩し文字を読めるようになっていた。

 ひたすらキーボードを指先で弾いていく。黙々と作業するのは嫌いではない。他のメンバーは各々の研究をノートにまとめたり、発表用の論文を作成している。俺も卒業論文だけは進めなければいけない。

 研究室を出たのは二十時を過ぎていた。作業に没頭していると時間を忘れてしまう。

 自転車を押しながら歩く美月と肩を並べて歩いていた。

「ねえ、アパート寄ってかない? カレーでも作るよ」

「んー、今日はいいや。疲れて眠いんだ」

「先生の英訳しかやってないくせに」

 美月にまた睨まれた。本当は読みかけの小説を読みたいからだ。

「今週の土曜日、水族館でも行こうよ」

「ほんと? やった!」

 嬉しそうに笑う彼女を可愛いと思った。そう、美月は可愛い。頭もいい。スポーツだってできる。それなのに、なぜだか俺から壁を作ってしまう。どうやったらこの壁を無くせるのか、自分でも分からない。

 彼女のアパートで別れた後も、家に着くまで考えていたけれど、何も浮かばなかった。

 恵から再び着信があったのは金曜日の夜だった。

「『土日にそっちに帰ることにしたから、できたら荷物の片付け手伝ってくれない?』」

「ごめん、土曜日は無理だわ」

「『そっか。日曜日だけでもお願いできる?』」

「日曜日はいいよ」

「『ありがとう』」

 そう言われて電話は切れた。

 なぜか恵が帰ってくることに胸騒ぎを覚える。何かが起こるような気がしてしまう。

 俺は読みかけだった本を閉じることにして、ベッドに入った。


 土曜日。美月を迎えに行き、水族館に着いたのはちょうどお昼だった。一緒に蕎麦を食べ、大きなジンベエザメやエイが泳ぐ青の世界を見て回った。美月はジンベエザメが気に入ったらしい。

「あ、ほら、近づいてきたよ。やっぱり大きいね」

「ジンベエザメのぬいぐるみでも買ってあげようか?」

「馬鹿にしてるでしょ」

「してないよ」

 美月のアパートにはたくさんのぬいぐるみが置いてある。旅行に行ってはぬいぐるみを集めることが好きらしい。

「でもお土産は見たいな」

 美月と一通り水族館を回り、イルカショーも見た。最後にお土産のお店に立ち寄った。

 サメやイルカのぬいぐるみや文房具、お菓子が狭い空間に並べられている。他のお客さんとすれ違うのも大変だ。美月はイルカの形をしたお菓子を買っていたけれど、自分は何も買わなかった。

「お土産ぐらい買っていけばいいのに」

「スーパーで買うクッキーの方が安いし美味しいよ」

「またそんなこと言う。気持ちだよ、気持ち!」

 ご当地グルメでもないものを買う気になれない。

 お土産屋を出て、帰路に着いた。家の玄関を開けると、恵が俺の母親と話していて驚いた。

「あ、おかえり。久しぶりだね」

「ただいま。今日は荷物整理手伝えなくてごめん」

「いいよ。デートだったんでしょ」

 母さんが恵に話したらしい。

「母さん、余計なこと言わないでよ」

「いいでしょう。あんたらは幼馴染なんだから」

「ごめんね。もう帰るから。あ、明日お願いね」

「直樹、送っていきな」

「いいですよ。すぐそこだし」

 恵の家は歩いても五分ぐらいだ。でも恵の家には誰もいない。事故で両親が死んでしまったから。

「いいよ。送ってく」

「ありがとう」

 玄関を出て、恵と一緒に短い道のりを歩いていく。

「一人で住むには広いし、大変じゃないのか?」

 疑問だったことを聞いてみた。

「まあね。でも、家を捨てることはできないなって思ったから。帰る場所失くしたくないなって」

「そう」

 俺にとってはずっと実家が帰る場所だ。だから自分には分からないことかもしれないと思った。

「直樹も、もう卒業でしょう。就活は終わったの?」

「……まだ」

「そっか。時間はまだあるしね」

 就職活動は始めているが、まだ一社も受けていなかった。このまま就職していいのか迷っていたからだ。かと言って院生になるつもりもなかった。

「恵はどうやって就職先決めた?」

「私は給料だったね」

 恵は自分のためではなく、両親のために働いていたのを知っている。自分にはできないことだ。両親には感謝しているけれど、それを形にすることができない。

「直樹なら何にでもなれそうじゃん」

「え?」

「だって英語できるし、頭はいいし」

「そうでもないよ。俺みたいな人はたくさんいる」

 そう、たくさんいる。だったらやる気のある人がやるべきだ。今の自分が他人のポジションを取っちゃいけないように思う。

「直樹らしいね。じゃあ、明日ね!」

 恵の家の前まで来ていた。

「また明日」

 玄関に消えていく恵を見届けて帰ろうとしたとき、ガシャと音がした。音がした方に振り向いたけれど何もなかった。家に着いた頃には日が落ち始め、青と赤が入り混じる空だった。

 次の日、恵の家に着くと大きな段ボールが部屋に散乱していた。

「こんなに荷物あるとは思わなかった」

「だからお願いしたんだよ」

「向こうのリサイクルショップで処分してくればよかったのに」

「家にあるものの方が古いから、こっちのを処分するつもりなの」

「なるほどね」

「直樹は家電を設置して」

「はい、はい」

 台所に置かれた『電子レンジ』と書かれた段ボールを開ける。まだ新しそうな電子レンジが入っていた。恵らしい。綺麗好きな恵はこまめに掃除していたのだろう。

 家に置かれていた古い電子レンジと交換する。段ボールから出しては交換する作業を続けていると、お昼のチャイムがなった。

「お昼、そうめんでもいい?」

「いいよ」

 じんわりと汗が出て暑い。そうめんがちょうどいいように思った。恵がそうめんを茹でるのを椅子に腰をかけて、お茶を飲みながら眺めていると、美月のことを思い出した。

 料理をする彼女の後ろ姿が好きで、呆けて眺めてしまう。

 美月には今日のことを話していない。やましいことなんてないけれど、話すと怒るのではないかと想像したからだ。

「はい、そうめん」

「ありがとう」

 氷で冷やされたそうめんと麺つゆ。トマトが添えられて、彩りも綺麗だ。あっという間に食べてしまった。

午後からも汗をぬぐいながら作業を続けると、全ての段ボールを片付けることができた。

「ありがとう。私一人だと終わらなかったよ」

「いいよ。じゃあ、また」

「またね」

 家に帰ると母さんが心配そうに言ってきた。

「あんた、今さっき美月ちゃんが来たんだけど。約束でもしてたんじゃない?」

「え? 美月が? 別に約束なんてしてないけど」

「恵ちゃんのとこ行ってるって言ったら、落ち込んだように出て行ったんだけど……」

 恵のことを話した? 俺は急いで自転車に乗って美月を追いかけた。美月も自転車のはずだ。飛ばせば追いつけるかもしれない。

 コンビニの角を曲がったところで美月を見つけた。俺は叫んだ。

「美月! 待てよ!」

「直樹?」

 美月はびっくりしたように止まった。急いで追いつく。

「何よ。幼馴染の用事は終わったの?」

 美月はこちらを見ようとしない。

「終わった。恵はただの幼馴染だから」

「さっき直樹のお母さんから聞いた。私、そんな話聞いたことなかったんだけど」

「ごめん。ずっと東京にいたんだよ。恵とはずっと会ってなかったし、言う必要ないと思って」

「別に。もういいよ」

「よくないだろ。泣いてるのか?」

「うるさい! もういいって!」

 美月は突然叫んだ。そのまま自転車で行ってしまう。俺はその場から動けなかった。

月曜日。雨が降っていたので、車で通学することにした。

あの後、いくら電話してもメールをしても返事はなかった。

このまま別れてしまうのではないかと頭に浮かんで仕方ない。別れたくない。その気持ちをどうやって伝えればいいのか、伝えたところで無駄なのではないかと不安でいっぱいだ。

 食堂で彼女を見つけても話しかけられず、気まずいままの食事は、喉が締め付けられるようでうまく飲み込めない。

 ゼミの集まりにも顔を出さずに帰ることにした。

 もうすぐ家というところで白い猫が道路に飛び、急ブレーキを踏んだ。猫はそのまま行ってしまった。

「あぶねえ」

 なんとか当たらずに済んだよう。車を家に駐めて降りると、猫は道路を挟んだ向こう側からこちらを見ている。

 見たことがあるような猫だったけれど、もう十年以上前のことだ。きっと違う猫なのだろうけれど、よく似ていた。

 しばらくして、猫はそのまま向かいの家の脇へと消え行った。

「傘、いりますか?」

「え!?」

 突然後ろから声がし、振り返ると傘をさした女の子が立っていた。気配がなかったし、湧いて出て来たように立っていた。

 さっきまで誰もいなかったはずだ。

「誰?」

「傘、いりますか?」

「いや、ここ、俺の家だし。いらない」

 白いワンピースに野球帽をかぶっている。見たことがあるような気がする。さっきの猫と同じ感覚だ。でもはっきりとは何も思い出せない。

「では、彼女の悲しみは分かりますか?」

「彼女?」

「大崎美月さんのことですよ」

「なんで美月が出てくるんだよ」

 美月と喧嘩していることを知っているような口ぶりだ。

「彼女が泣いているのに、あなたには何も伝わっていません」

「……どうすればいいのか分からないんだよ」

「あなたは自分から距離をとって、踏み込まれないようにしてきましたね。自分の大事なところを誰にも見せない」

 そうだ。小さい頃からずっとそうして生きてきた。だからどうやって自分の気持ちを伝えればいいのか知らないままだ。

「どうすればいいのか。まずはちっぽけなプライドを捨てることです」

「プライド?」

「あなたには泣いてもらいます」

「泣く?」

 女の子が何をしたいのか分からない。でも俺にはどうすることもできないという諦めの気持ちが強かった。

「ちょっと無理やりですけど」

 そう言うと持っていた傘をくるくると回し始めた。傘で八の字を描くように踊る。まるで女の子の周りに花が咲いているようだ。

「ここなら誰もいません」

「え?」

 いつの間にかい自宅ではなく、川辺に立っていた。雨も降っていない。

「ここなら誰にも見られずに泣けますよ!」

「どうやって泣くんだよ」

「それは、これをこうします!」

 女の子はポケットから瓶を取り出し、蓋を開けた。すると中の液体が蒸発し、頭上で雲になった。


――ぽつ、ぽつ


 雨が降り出した。景色の変化と不思議な雲。状況の変化についていけない。一体何が起こるのだろう。

 見上げる頬に雨粒が当たる。雨は次第に強さを増してきた。濡れるほどに身体が暑くなってくる。心臓の音がうるさい。

「う……あぁ」

「泣いていいですよ」

 女の子の一言で涙が溢れた。人前で泣くのはいつ以来だろう。おもちゃをねだって泣いた小さい頃以来かもしれない。

「くっ、うぁ」

恥ずかしいという気持ちが端っこに押しやられている。ああ、そうか。こうやって自分に打ち勝てばいいのか。失っちゃいけないものがあるなら自分で守らなくてはいけないのだ。

「そうです。こうやって自分を追い込んで戦うのですよ」

 それからしばらく泣き続けた。涙が出なくなった後は妙な爽快感があった。

「後は自分でなんとかしてくださいね」

「ああ。それよりも、君は何者なんだ?」

「私はただの降らし屋です。それ以外はお答えできません」

「俺は君を知っている気がする」

「気のせいです」

 女の子はそう言うと、また傘を持って踊り始めると、いつのまにか自宅に戻っていた。女の子の姿はない。まるで夢でも見ていたかのように、全てが元通りだった。

 次の日、美月に「会いたい」とメールした。けれど返事は変わらずにない。もう直接話に行くしかないだろう。

 仕方なく、ゼミの研究室に顔を出すことにした。ドアを開けると美月だけがいた。

「話があるんだ」

「……私にはない」

 俺は前かがみになって一気に言いたいことを伝えた。

「ごめん! 俺は意気地なしだから、勝手に壁を作って、その外からしか接することができなかったんだ。本音をいつも言えなくて、不安にさせてばかりで、本当にごめん。このまま別れるのは嫌なんだ。美月のことが好きなのは本当なんだ!」

「……馬鹿。やっと本当のこと言ってくれた」

 顔を上げると、美月は困ったような泣きそうな顔をしていた。

 俺は美月に腕を回し、お互いの肩を濡らしても抱きしめ合っていた。

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雨音を連れて 雨月 葵子 @aiko_ugetsu

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