雨音を連れて

雨月 葵子

第1話 過去を想う人

 目を閉じるといつも思い出す風景がある。

 季節は夏。さわさわと元気よくのびた青草が揺れ、真上で太陽が、熱すぎる光を容赦なく浴びせてくる。

 そこに小川の流れる音が潤いを、風が柔らかなひんやりとした冷たさを与えてくれる。

 とても気持ちがいい。心臓はとくん、とくん、とくん、と穏やかに同じビートで鳴っている。

 このまま消えてしまえたら、と思う。これ以上の幸せは思いつかない。

 十秒、二十秒、三十秒と時間は過ぎていく。そして一八時にセットしていたタイマーが耳元でうるさく鳴り響き、私の幸せな時間をあっさりと壊してくれた。イラつきながらタイマーを止める。

 心を落ち着かせたいときは、こうしてふるさとのお気に入りだった場所を思い浮かべる。

 東京での暮らしは二年が過ぎたが、今でも慣れていない。

 街の中心部には高層ビルが立ち並び、大通りを外れるとほとんど隙間なく建てられた住宅街。

 きれいに整備された公園はあるが、住宅地にぽつりと置かれた公園は息苦しい空間でしかない。

 私は都会を嫌いになったのか、最初から嫌いだったのか分からない。

 都会にはなんでも詰め込まれている。いろんな人の夢がここで叶うように。

 人もモノもぎゅうぎゅうで、ごちゃごちゃ。いや、むしろぐちゃぐちゃだ。受け入れることができない景色が、私の心に住み着いている。

 東京は四七都道府県のなかで三番目に面積が小さい。そして『一度住んだら離れられない』人が多い。まるで箱庭のようだ。みんな都会の暮らしの華やかさと便利さに酔ってしまうからだ。それでいて、どこか物足りないという顔をしている。

 私は都会で暮らす人も嫌いだ。自分も含めて。

 ああ、こんなことを考えていたらまた気分が悪くなる。

 明かりをつけていない部屋の中は薄暗い。住宅地では沈む太陽の光もない。

「お腹、空いたな」

 どこかに出かけようか? 料理を作るような気分じゃない。

 でも街に行くのは億劫で、着替えるのも面倒だ。こんな私はダメな人間だと思う。

 数分悩んだが、どちらもやめることにした。

「チロルに会いたい……」

 チロルは近所の公園を縄張りにしている野良猫だ。名前は私が勝手につけた。

 全身ふさふさで真っ白、きれいなブルーの瞳をしている。見た目はお金持ちの家にいそうな風貌をしている猫だ。

 警戒されて最初は触れられなかったけれど、ニボシで誘ってみるとすぐに懐いてくれた(その前はマグロを与えてみたが好みではなかったらしく失敗した。意外と庶民的な猫らしい)。

 私の心を否定も肯定もせず隣にいてくれる存在。

 チロルにとっては『ニボシをくれる人間』だろうけれど。

 

 ニボシをポリ袋に詰め込んで、ジャージ姿にクロックスを履いて公園へと向かった。

 夕方の公園に人気はなく、静かだ。薄暗さが寂しい空間を演出している。

 チロルは人間の子どもが嫌いだ。子どもの手が届かなくて公園の入り口がよく見えるベンチ横の自動販売機の上にいつもいる。

「やっほう、チロル」

 自動販売機の上で寝そべっていたチロルにニボシ入りの袋を見せる。チロルはあくびを一つしていつものようにベンチに降りてきた。

 私はその隣に腰を下ろし、ニボシを左手に乗せて差し出す。

 チロルは舌でニボシをすくっては、よく噛み砕いて飲み込んでいく。

 その間に右手でやわらかい毛並みの背中や頭を撫でることができる。柔らかな毛に指が包まれる。この触り心地が最高だ。自然と口元がゆるんでしまう。

 お腹を空かしていたのか、あっという間にニボシをすべて食べてしまった。

 満足したチロルは丸くなって寝てしまう。

 なんだろう。とても幸せそうでうらやましい。

 もしも私が猫なら、もっと楽に生きられただろうか?

「私は人間に向いていないかもね」

 たくさんのモノがお金を払えば手に入る。そのほとんどがなくてもいいもの。そ『なくてもいいもの』で世界は回っている。絶対に必要なものなんてないように思う。私という一人の人間だってそうだ。

 猫はどんなことを思って生きているのだろう。

「そんなこと考えないか」

 しばらくチロルを撫で続けていると気持ちが落ち着いてきた。

 アパートに戻ってカレーでも作ろう。

「じゃあね。チロル」

 薄っすらと目を開けて鼻を動かすのがチロルのあいさつだ。
私もチロルのように気楽に生きてみたくなる。

 公園を出ようとしたところで傘をさした人とすれ違った。雨は降っていない。

 日傘でもなさそうだ。変だなと思って空を仰ぎ見ても雨を降らしそうな雲もない。

 振り返ってみると、その人はベンチに座ってこちらを見ているようで、慌てて視線を戻した。
チロルの姿もなかった。

 傘をさしていて顔は見えなかったが、ワンピースを着ていた。もしかして口裂け女のような妖怪なんじゃないかと怖くなる。不審者かもしれない。
不安から逃げるように急いでアパートに戻った。


 月曜日。雨が降っていた。
今日は午前から大事なプレゼンがあったにも関わらず、昨夜準備した大事な資料を家に置いてきてしまう失態。「すみません、資料をとりに戻るので遅刻します」
課長にそう連絡を入れ、反対のホームまで走る。脇や背中から汗がにじむのを感じながら電車に乗り込む。

「あれ? めぐみ?」

「え? あやか!」

 突然の再会に驚いて少し大きな声が出た。あやかは退職した元同期だ。

「恵も転職したの?」

「違う、プレゼンで使う資料を家に忘れてきちゃって……」

「また忘れ物しちゃったのか」

 あやかは困ったような表情を浮かべる。私が忘れ物をすることが多いのは入社当時からだ。

「あやかは仕事順調?」

「うん。私は転職して正解だったよ」

「いいなー」

 うちの会社は残業代が出ない部署が多い。私が所属している技術部も残業代がないのが不満だった。

 あやかは安月給を理由に入社1年で辞めてしまった。私とあやかは仲がよかったから最初のうちはショックだった。

「あやかは元気そうでよかった」

「恵は、なんかあった?」

 心臓がぎゅっと締め付けられるような圧迫を感じた。あやかは人の心をすぐに見抜いてしまう。
でも私は笑って誤魔化してしまうのだ。

「なんでもないよ。あ、ここで降りるから、またね」

「またね。今度ご飯行こうよ」

「うん」

 人混みに紛れて電車を降りる。家に着くと資料のデータが入ったUSBを鞄に入れ、会社に戻ると時間は九時を過ぎていた。

 上司からの叱りを頂戴したが、落ち込んでいる暇もなくプレゼンの出力紙を配り、医療機器のプラグラム開発について説明する大役を務めた。


 アパートのドアを開けると同時に着信音が鳴った。確認するとあやかからだった。


 やっほー(´ω`)ノ

 仕事お疲れさま!

 さっそくだけど、金曜日の夜ご飯行ける?


 金曜日。土曜日は休みなので「行けるよ!」と短くメッセージを返信する。

 すぐに着信音が鳴る。「やった! 新宿にできた新しい焼肉屋に行こう!」

 焼肉という単語に頬が緩む。「焼肉! いいね」と返信をする。


 あやかは手際よく肉を注文し、メニューを戻しながら聞いてきた。

「で、何があったの?」

 あやかは自分から他人に関わろうする。そのおせっかいが私は嫌いだった。私は本当のことをやはり言えず、思い出したくもないから別の話題にするしかなかった。

「会社でプレゼンやるようになってから残業が多くて……。給料も上がらないし」

 眉を寄せて、首を横に振る。

「あー、恵も転職すればいいのに」

「私もしようかな」

 実際、転職を考えたことも何度もある。転職サイトに登録して情報も得ている。

「恵ならいくらでも雇ってくれるところあるよ」

「そうかな。まだまだ新米だよ」

「そんなことないよ。だって真面目だし、物覚えいいじゃん」

 上司や先輩社員から褒められることがほとんどない。こうやって褒めてくれるのはあやかぐらいだ。前はもっと褒めてくる人がいたけれどーー。

「そう言えば、彼とはどうなったの?」

 あやかには付き合っていた彼氏がいたはずだ。「結婚するかも」と話していたことを思い出した。

「今も付き合ってるよ。でも結婚の話題はまだだね。彼、結婚する気あるのかわかんないんだよね」

「えー、彼は三歳年上だったよね。もう結婚してもよさそうなのに」

 あやかは私より四歳年上の二六歳。結婚してもいい年だと思う。

「そうだよ! 結婚して専業主婦になって子ども産みたいのに!」

「あはは」

 あやかならきっと今の願望を叶えてしまえるだろう。私には彼氏もいない。

「恵は? いないなら誰か紹介しようか?」

「いいよ、私なんて仕事ばっかりだし、一緒にいてもつまんないよ」

「まーたこの子は! そんなんじゃ彼氏できるものもできないぞ」

 あやかは世話好きだから本当に誰かを紹介してきそうな勢いだ。今は恋愛をする余裕なんてないのに。

 きっと相手をないがしろにしてしまう。傷つけてしまうなら、最初から関わらない方がお互いのためだ。

「そういえば、たまに実家顔出してる?」

「うえ?」

 不意の質問に間抜けな声が出てしまった。

 あやかが吹き出しそうになる。私は慌てて取り繕う。

「あんまり帰ってないかな。田舎に戻っても何もないから暇なだけだよ」

「だよねー。でもたまに帰るとお客さんみたいにもてなしてくれるから嬉しい」

 ズキンと心臓が疼いたところで、注文した肉が運ばれてきた。

 あやかは手際よくお肉を焼いていく。仕事の愚痴をおかずに焼肉とビールを口にする。「明日の天気予報は雨。傘を忘れないようにしましょう」

 騒がしい店内のテレビから流れる音声を聞いている人は、きっといない。


 土曜日の朝、日差しの眩しさで目を覚ました。 

 頭が重い。昨日は飲み過ぎたかもしれない。ビールは悪酔いしてしまう。うまく思考できない脳を起こすために珈琲を淹れる。
苦手なブラックのまま飲み込むと苦味で口がいっぱいになる。脳はびっくりして起きてくれる。今日は何をしよう。何をしたらいいだろう。誰も答えてはくれない。
虚しい気持ちになる前に外の空気でも吸いに行こうか。

 ジャージに着替えて外に出ると晴天だった。雨なんて降りそうではない。公園の外周を走る人は多いが、少ないよりいいと思っている。一人では風景に溶け込めないように感じて、恥ずかしくなるから。

 通行人A、B、Cになることができればいい。

 つま先に力を入れて走り出す。風の音が耳元でなる。息を吸って、吸って、吐いて、吐いて、体は浮き過ぎないように。

 公園の周りを十周したところで休憩することにした。自動販売機で水を買う。水滴がついたペットボトルはよく冷えていて、額に当てると気持ちがいい。ベンチに腰をかけて水を飲む。今日は暑い。蝉の声が、暑さを証明するかのようにうるさく響いてくる。

 しばらく誰もいない公園のベンチで休んでいると。


ーーぽつ、ぽつ


「ん? 雨?」

 鼻先と頬に冷たい雫が当たって弾けた。

 空を見上げると黒い雲が浸食している。公園があっという間に暗くなり、雨が降り出す。

「あー……」

 傘は持っていない。本降りになる前に帰った方がよさそうだ。

「傘、いりますか?」

「え?」

 突然の声に驚いて顔を正面に戻すと傘をさした女の子がすぐ目の前に立っていた。

 この前、雨も降っていないのに傘をさしていたあの子だ。

 話しかけられるまで全く気配を感じなかった。

「えっと……」

 私は動揺していた。

「あ、傘いらないですよね。雨に濡れちゃえば泣いても分からないですから」

「泣くって、誰が」

 女の子は勝手に話を運んでいく。私は全く状況を飲み込めない。

 分からないものを人は嫌う。私のなかで警鐘のサイレンが鳴りだす。

 身構えながら改めて女の子を見る。たぶん高校生だろう。髪は男の子のように短いが、小顔でかわいらしい。

 真っ白のワンピースになぜか野球帽をかぶっている。 

 雨が強くなる。雨音がうるさい。

 これ以上絡まれるのは危ないと判断し、早々に立ち去ることにした。

 それに雨に濡れて寒い。このままでは風邪を引いてしまう。

 意を決した私は女の子の隣を走り抜けようとした。

 が、女の子はわたしの思惑を察したのかすばやく前に立ちはだかる。

「逃げちゃダメですよ。」

「いやいや、このままだと風邪を引いてしまうのだけど。警察呼ぶよ?」

「ひどいですね。この場所では泣けませんか? あそこでないとイヤですか?」

 どんどん頭に血が上っていく。怒りが沸点に達するのを必死で堪える。落ち着こう。大人の私が子どもに振り回されるなんてみっともない。

 強く握った拳を小さくと振るわせながら言う。

「いやね、場所の問題ではないの。ちっとも泣きたい気分じゃないの。わたしは家に帰りたいの。だから邪魔しないでくれる?」

「仕方ないですね。最後に泣いたのはいつか覚えていますか?」

 女の子は左手を腰にあて、右頬を膨らませて聞いてくる。

 もう女の子の話しにつき合う方が早く帰られる気がしてきた。

 私は年下の女の子に負けた。

「いつ泣いたとか覚えてない」

「やっぱり! そうだろうと思いました。あなたは一年半も泣いてないんですよ!」

「なんで分かるの?」

 女の子とは初対面だ。私が一年半の間に泣いていないなんて断言できるはずがない。

 確かに上京してから泣いた覚えはない。いや、一度だけ大泣きをした。でもそれからは涙が枯れてしまったように「泣ける」と言われた映画や本を読んでも目から溢れるものはなかった。

「あなたの目を見れば分かります。泣くことを忘れている目です」

「忘れている?」

「このままじゃ、一生泣けなくなりますよ?」

 一呼吸を置いて、女の子は急に真剣な眼差しを向けてきた。黒く澱みのない眼に怪しい光が宿っている。先ほどまでのおどけた雰囲気が一変して鋭い空気に身体が硬直してしまう。

「泣けなくなる?」

「だから、涙を取り戻しましょう」

「どうやって?」

「思い出すのです。あなたが見失った心を」

「思い出す。何を?」

「あなたはずっと思い出すことをやめているんです」

「でも、私はずっとあの場所を……」

「あなたの心は過去に捕われています。そう、この場所に」

 そう言うと、女の子は傘を持ちながら舞のような踊りを始めた。

 傘をくるくる回しながら全身を大きく使って。

 開いた傘が咲き誇る花のよう。手の動きに合わせて女の子の周りに花が咲く。

「この場所に見覚えはありますか?」

「え?」

 言われていつの間にか公園がなくなっていることに気づいた。自分と女の子がいるのは、あの場所だった。

 何度も目を閉じて思い出していた場所。

 雨は降っていなかった。

「どうして……」

「なぜ、ここを想っていたのですか?」

「なぜ? なぜって……分からない」

「ウソ。ちゃんと思い出してください」

 思考がうまく働かない。いや、脳が拒否している。

 突然変わった景色にどう対応すればいいのかも分からない。

「では、あたしの質問に答えてください。あなたはなぜ上京したのですか?」

 誘導するように女の子は質問を始めた。女の子は私のすべてを知っている!なぜかそう確信できる。

「家が貧乏で、両親の自営業だけじゃ生活が厳しかった。だから、私は短大を卒業して上京したの。ちょっとでも良い会社に就職して、実家にお金を送るために」

「あなたは一人で頑張って働いた。両親も嬉しかったんじゃないですか?」

「そう。心配して何度も電話をしてきたけど、ありがとうって、わたしのおかげでちゃんと生活ができてるって。そう言ってくれるのが私も嬉しかった」

「あなたは頑張ことができる理由があった。なのに、なぜ今のあなたは後ろを向いているのですか?」

「それは……」

 考えないようにしていたことを、女の子は表に引っぱり出そうとしてくる。

 答えは出ている。でも口にしてはいけないと、ぎゅっと唇を固く結んでしまう。

 もし言ってしまえば自分の中に押さえていたものが溢れ、壊れてしまうように思えて。

 私は懇願の眼差しで女の子を見つめ、首を横に振る。

 きっと今の私は情けない顔をしているだろう。でもそんなことを気にする余裕はもうない。

「ダメです。ちゃんと向き合ってください」 

 女の子はわたしの願いを断ち切った。

 唇が震える。私も分かっている。向き合うことは避けられないと。

「……両親が事故にあって」

「それで?」

 心臓がドクドクと激しく動いているのが分かる。息が上がっているように呼吸をする。

 苦しい。でも、逃げられない!

 私は目を閉じ、いっきに言い放った。


「死んでしまったの!」


 私には都会にいる理由も帰る場所もない。

 叫んだ瞬間、全身から血の気が引いていくのを感じた。立ちくらみに襲われ、平衡感覚がなくなる。

 私はその場にへたりこんでしまった。頭上で女の子の声が聞こえるけれど顔を上げることができない。

「ようやく言えましたね。大丈夫、あなたはまた泣けます。」

 何が大丈夫なのだろうか? 今の私は絶望しか感じない。

 私は生きながらに死んでいるも同然だ。

「あなたはずっと帰らなかった。ここに来たいという気持ちはありながら、両親を無くした絶望を思い出さないために。でも帰ってきたのです。あなたと両親の思い出の場所に。だから、ちゃんと思い出してください。ここにいたときの想いを」

 ここにいたときの想い? ここはよく両親と過ごした場所。私の幸せの記憶はここがほとんどだ。

 父はここで何でも教えてくれた。一緒に捕まえた虫や鳥、魚の名前はもちろん、その生態のことも詳しかった。生物だけではない。分野を問わず、聞いて答えが返ってこなかったことはない。わたしの知識は父からもらったものばかりだ。

 母は優しさと厳しさをもっていた。私を撫でるとき、抱きしめるときの温かさと優しさが好きだった。愛されているという安心感に勝るものなく、余裕がない生活でも不満に思ったことはない。また、母は甘やかすことはしなかった。私が約束を破ればまさに鬼のような形相で怒り、近所も構わずに怒鳴るのは当たり前。私が他人とちゃんと共存できるように、人として生きるための術を教えてくれた。

 

ーー!


 私ははっとした。そうだ、両親の想いをいつも感じていた。いつだったか父はこの場所で言った。


ーー恵、強くなりなさい。たとえ一人になろうとも生きていけるように。


 顔を上げると女の子は柔らかな笑みを浮かべており、一瞬だけ母と重なった気がした。

「……思い出した」

「よかったですね。また泣けて。ほんとうによかったです」

「え? 私、泣いてる?」

「その目からこぼれているのは涙ではありませんか?」

 震える手で右頬に触れると、微かに温かい雫が指を濡らした。私はその指を口に含んだ。

「しょっぱい。泣いてる」

 私は本当に泣くことを忘れていたみたいだ。そのせいで自分が泣いている実感がない。

 泣くことに心が追いついていないようだ。

 大粒の涙が決壊したダムのようにだらだらと垂れ流しになっている。

 自分では止めることも、声をあげて泣くこともできない。だんだんと焦りが出てくる。

「どうしよう、これ」

「うーん、半分手をくれでしたか。「悲しい」という感情が今のあなたにないようです。心を守るために捨ててしまったんですね。生理現象のように泣いているんです。」

「わたし、ずっとこのまま?」

「いえ、少々無理矢理ですが方法がないわけではありません。今から雨を降らします。ただの雨ではありません。『悲しい』感情の成分入りです!あなたはただ雨に打たれているだけで皮膚から悲しみ成分が吸収され、感情を取り戻せます」

「そんなんで本当に?」

「はい、体験すれば分かりますよ!」

 確かにそうだ。自分ではどうしようもないのだから女の子に任せるしかない。

 ただ女の子に世話になりっぱなしであることが悔しい。もうこんな情けない自分は嫌だ。

 元に戻ったら、もっともっと強い人になろう。両親の想いに応えたい。強い人になるために必要なものはもう両親からもらっているのだから。

 私はこれが最後と決めて言った。

「お願い、私を救って」

「もちろんです。そのためにあたしがいるのですから」

 女の子はワンピースのポケットから小さな瓶を取り出し、蓋を空けた。

 すると中の青い液体が蒸発し煙のように頭上にのぼっていく。しばらくすると煙が密集し、小さな雲になった。

 いったいあの液体は何でできていたのだろう。もう十分不思議を体験しているせいか、驚きよりも雲に対する興味が湧いている。

 

ーーぽつ、ぽつ


「あ……」

 雨が降り出した。雲を見上げるわたしの顔に雨粒が当たる。

 どんどん雨は強くなっていく。

 そして、濡れれば濡れるほど身体の内側から熱いものが込み上げてくる。

 私は泣くときの感覚を思い出し始めた。

 顔が、胸が、熱い。熱があるように。口が、手が震える。顔が歪み、あとはーー

「あ……ぁあ……」

「大丈夫、雨音で誰にも聞こえません」

 女の子の言葉が合図になったように、雨音が他のすべての音をかき消すほどの強さになった。

 そして雨音がわたしの合図になった。

「わぁああああああ!!」

 ついに泣き叫んだ。精一杯、声を絞り出す。それを雨音が綺麗にかき消してくれる。

 私に打ち付ける雨が苦しい気持ちを綺麗に流してくれる。


 どれだけそうしていたか分からないけど、声も出なくなり、涙ももう流れてこない。私は口で大きく呼吸をする力しか残っていなかった。

 泣き疲れるのは二年ぶりだ。でも二年前とは違って、晴れ晴れした気持ちだ。全身ずぶ濡れだけど。

「もう大丈夫ですね。ここから人生の再スタートって顔しています」

「ありがとう」

「じゃあ、帰りましょう!」

「うん。そうだね、帰ろう」

 今度は自分でここに戻ってこよう。

 女の子は来たときと同じように踊った。とても嬉しそうに。

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