FIND ME.

むなく草

第1話(完結)

「疲れた」「死にたい」「あいつがうざい」「大学やめたい」「死にたい」俺の目の前で踊っているそんな文字列は、言わずと知れたソーシャル・ネットワーキング・サービスのツイッターを利用する大学生たちが、八十パーセントの惰性と、十五パーセントの本心と、五パーセントのその他何かを込めて投稿したものに違いない。


 俺は無味乾燥な投稿がごまんと繰り返されているディスプレイの電源を落とし、外出する準備を始めた。窓の外を見れば立派な五月晴れ。天気予報通りなら一日中この調子らしい。俺は鼻歌を歌いながら、髪を整えた。


 コーヒーを飲みながら、スマートフォンでメールをチェックすると、新着通知が一件ある。どうやら俺が就寝した後に届いたらしい、ガールフレンドの佐久間英梨からのメールだった。


『明日は晴れるみたいで良かったね! 予定通り駅のロータリーで待っています』


 俺たちは今日、近所でデートをする約束をしている。可愛らしい絵文字の添えられたメールは、寝起きで冴えていない俺の脳を十分に覚醒させた。


『ごめん寝てた。俺も楽しみにしてるよ』

 もう少し愛想のこもった内容にするか散々迷ってから、結局そのまま送信ボタンを押し、残ったコーヒーを一気に飲むと、椅子にかけてあるシャツに袖を通し、浮足立って家を出た。


 そろそろ英梨との関係が始まってから一ヶ月半になる。学年が上がり、新しく履修した授業で最初に彼女を見たとき、彼女の外面的な魅力に惹かれ、適当な口実をつけて話しかけたのが、彼女との関係の始まりだった。


 しかし、彼女の本当の魅力は、端正な容姿や、常に成績上位をキープする学力や、高校の頃に体育祭で自分の組を優勝へ導いたという運動神経に存するのではないと気づくのに、そう時間はかからなかった。なんというか、彼女は俺に似ていたのだ。自分に似ていた人間に惹かれるというのも気色の悪い話だが、事実は事実なので仕方がない。


 英梨は高潔な人間だった。

 彼女は自分のことを必要以上に語ろうとはしない。俺といる間を除き、決して弱音や不満を人に漏らしたりはしない。それでいて、その気高さを人に押し付けたりすることもなかった。

 そんな英梨の振る舞いと整った顔立ちからか、彼女は同級生から一目置かれており、いわゆるマドンナのような存在だった。

 彼女自身は勤勉であるし、授業をサボったり他人のレポートを写したり、そういった不正を自らに許さず、また周囲にそれを許していた。他人に優しく(「甘く」と言った方が適切かもしれない)、自分に厳しく。それが彼女の行動を動機づけるプライマリーな理念だった。

 もちろん、英梨自身の口からそのポリシーが語られることもない。更に彼女は、意図的にその掟に従って行動していることを隠しさえする。懐疑論者がいくら粗を探そうとしても見つからないのではないかと思えるほど、徹して彼女はエゴを臭わせなかった。俺自身、身近にいる人間としては恥ずかしい話であるのだが、英梨が万人に対して人当り良く接するのは、彼女の本性として、自然体でそのような振る舞いをしているのかと思っていた。


 しかし、それが間違いであると俺が知ったのは、彼女と知り合って一ヶ月ほど経ったある日のことだ。

 その日、英梨と同じ授業を終えたあと、構内にある喫煙所で一服していると俺は講義のノートを教室に忘れてきたことに気づいた。本来ならば、次の授業が始まる前に急いで取りに行かなければならないのだが、その授業は5限目であり、続く授業もなかったため、そのままゆっくりとガラムの甘い香りを愉しんだ後に、俺はノートを取りに教室へ向かおうとした。その時、窓から見えた小学生の男の子たちが元気に追いかけっこをしていたことを、どうしてかよく覚えている。


 階段を昇り、目的の部屋のドアの前まで行くと、小窓を通して黒板の前に立つ人影が見えた。それが英梨だと気付くのに時間はかからなかったが、何やら様子がおかしい。彼女は黒板の前で身じろぎもせず立っていたのだ。

 誰もいない西日が射す教室で、何か思い詰めたような表情を浮かべている彼女はどこか神々しく、世界史の教科書で見たギリシアの彫像を彷彿させた。

そのような彼女を見るのは初めてのことだったので、すっかり教室に入る気も失せてドアの外から様子を伺っていると、彼女はこちらに気づきもせず、思い立ったかのようにチョークを手に取り、黒板に何かを綴り始めた。

 いよいよ俺は面白くなって息を潜めていると、すぐに彼女はチョークを元あった場所に置き、手で黒板に書いたそれを軽くこすった。そして、側に置いてあった自分のトートバッグを手に取って、俺のいるドアと反対側にあるドアから出て行ってしまった。

 忘れたノートのことなど、頭からすっかり抜けて俺は教室に入り彼女が佇んでいた黒板の前に立った。彼女は残したメッセージを完全に消す気はなかったようで、手油で軽くくすんだ文字はかろうじて読める程度には原型をとどめていた。

 『FIND ME.』

 その短文は、まるで身体に電流が走ったかのように俺の心を強かに打った。

 俺は元より他人に強い興味を抱く人間ではなかった。それは俺が一人でいることを好む人間であるという意味ではない。忙しい大学生活の中、自身に課された日々のタスクをこなすだけで精一杯で、自分の立場を守るのに精一杯で、他人を直視するほど心に余裕がない、そんな精神状態が俺の属性として結果を導いたに過ぎなかった。

 ただ、俺は誰しもがそんな一面を持ち合わせているように思われる。だってそうだろう? 自分より大切なものなど、この世にあるのだろうか。己が思索を巡らすとき、その対象として最も頻繁にあげられるのは紛れもなく己自身だ。だから「彼ら」は毒を吐くのだ。「辛い」「苦しい」「忙しい」と。時に顔を向き合わせて、時にネットワークを介して。

 ここで重要なのは、「彼ら」が何を求めて他人の心を動かすことの決してないような(もっとも他人の愚痴を聞くのを喜びとする聖人も広い世の中にはいるのかもしれないが)言葉を吐き捨てるかではない。その行為の根底には自己愛が横たわっているということが、その凡俗な加減こそが、どうにも俺の神経にいちいち障っていた。

 だからこそ俺は英梨に惹かれた。英梨の自己を一切匂わせない態度の根源に何があるのか、一種の人文的な興味が沸いたのだ。


 しかし、その謎は黒板に残されたメッセージが解いてくれた。彼女は、よりにもよって俺の前で、僅かに殺しきれなかったエゴの痕跡を残してしまったのだ。まるで一度は水に溶けたミョウバンが再結晶を成すように、彼女への興味は強烈な愛情へと変わった。

 彼女がありのままに行動した結果として、あのような振る舞いをしていたのなら、俺はここまで彼女を愛おしく想うことはなかっただろう。彼女は驚くべき自制心をもって自身の気高さを保っていたのだ。


 そもそも、他人に自分の話をしないのは徳であったとしても決して得ではない。自分が辛い時に、他人に愚痴をこぼし、形式的ながらも慰めてもらい承認欲求を満たす。その一連の行為には、空疎ながらも確かに一定のカタルシスが存在する。目先の衝動に駆られ、自己憐憫の情に押し流され、動物的に他人の同情を求める。それは確かに得なのだ。

 また、他人に自分が苦労していることをアピールするのは、度を越えた主張にならない限り、特定のコミュニティにおいて、それ自体としてプロフィットになるように思える。というのも、エゴの自制という観点のみから人間を見るとき、英梨のように極端で特別な人種を除き、人間はみな中途半端な存在だ。その差異は、ただ程度の問題で語られる。

したがって、自らの苦労話をすればするだけ、忙しさ自慢はすればするだけ、当人のステータスとして還元される。辛くない人間は悪だ。謳歌しているように見える人間を「いいよな、お前は暇で」の一言で断罪する、そんな倒錯した価値観を共有するコミュニティは少なくない。

 俺は「彼ら」を見下したりはしない。だが俺は得よりも徳を重んじたいと思う、そんな現実に徹することのできない子供だからこそ、彼らを好ましく思うことができなかったのだ。


 俺の父親は、俺が高校生のころ過労死した。彼は勤めていた商社の人間関係にうまく行かず、また嫌とは言えない典型的な日本人であったためか、上司部下の別を問わず、仕事を押し付けられており、日曜日も出勤しなければならないほど多忙な日々を送っていた。

父親の妻、つまり俺の母親との夫婦関係も決して円満とは言えず、忙しかったためか、普段俺ともコミュニケーションをとることが出来なかった父親は手に余るストレスを一手に抱え込んでいたが、辞職して一家を路頭に迷わせる訳にも行かず、結局無理を押して死ぬまで働き続けた。

 父親が日付も変わった頃にくたびれた様子で帰ってきては、薄暗いダイニングで一人、酒を飲んでいるのを何度か見たことがある。蛍光灯が作った影の射す彼の横顔は、決壊寸前のダムのようだった。

 俺は「彼ら」の慣れ合いを見るとき、あの父親の全てを諦めたような表情を思い出す。「彼ら」は父親のように語りかける相手を失ったとき、どうなってしまうのであろうか。

 一人で生きていけるようになりたい、それを俺は切に願ってきた。「彼ら」のように、他人に依存しなければ生きていけない存在になりたくはなかった。何事もそつなくこなし、飄々と日々を送る、そんな美しい人間へ至りたかった。


 だが、そんな思い描いたヒーロー像は遠すぎる理想であることを英梨は教えてくれた。黒板に書かれたたった一行の命令文は、本来の趣旨とは全く異なる方向性に俺を導いてくれた。

 俺はしばらく黒板を見つめ、おもむろに黒板消しを手に取ると、その文字列を丁寧に消した。秘かに胸に抱いた決意を誰にも見せないように。俺は忘れたノートを回収すると早足で教室をあとにした。


 それから数日後、英梨と二人きりになるチャンスを伺っていた俺は授業が終わった後、彼女を学校近くのケーキ屋に誘うことに成功した。彼女は人気者なのでスケジューリングを図るのにも苦労するのだ。


「高峰君と二人でどこかに行くのなんて初めてだね。ケーキなんて久しぶりに食べるから楽しみかも」

 いつも通り完璧な笑顔を浮かべた英梨を横目に俺もはにかんだ。これからその笑顔の下の本性を暴こうというのに彼女は暢気なものだ。


「俺も甘いものは好きでさ。店の前を何度か通りかかっていて気にはなっていたけど、中を覗いたら女の子かカップルしかいないから、男一人で行くのは気が引けたんだよね」

 もちろん嘘だ。既に店の下見は済ませている。

「ふ~ん、私たちも周りからカップルだと思われているのかな」

「どうかな」

 それから他愛のない話を続け、目的の店に着いた。店内は暖色系の色取りがなされており、ゆっくりと落ち着けるように、各所に工夫がこらされていた。

席につき、俺がモンブランのケーキセットを注文すると、彼女も同じものを頼んだ。


「いい雰囲気のお店だね、これから通っちゃおうかな」

「太るから止めたほうがいいんじゃない?」

 俺は笑いながら身も蓋もないことを言った。これからのことを思うとあまり面白い冗談も思いつかない。

 しばらくしてケーキが運ばれてくると黙々とそれを口に運んだ。英梨もそれにならうと、二人の間には沈黙が流れた。店内に流れるクラシックのBGMがやけに大きく聴こえる。下見で来た時と同じように、モンブランは上品で柔らかな甘さを基調によくまとまっていた。


「数日前にね、教室にノートを忘れたんだ」

 ケーキを食べ終えてからサーブされたコーヒーを飲みながら、まるで今日の天気についてでも喋ろうとするかのように、軽い調子で唐突に話を切り出した。

「ところが俺がそれを取りに戻ろうとしたらさ、誰もいないはずの教室に英梨がいたんだ」

 彼女は驚いたように顔を上げ、目を見開いた。察しのいい彼女のことだ、もう事実に気づいたのだろう。

「見てたの?」

「まあ本当に偶然なんだけどね、ああいうこと何回もしているの?」

 彼女は酷く混乱しているようで、俺の質問にはなかなか答えようとしなかった。まくしたてるように俺は続ける。

「黒板に落書きなんて英梨以外の人がやったって気にも留めないんだけどね。あの時の英梨が真剣な顔して向かっているものだから何かあったのかなって」

 一拍おいて英梨の方に目をやると、彼女は身じろぎもせず俺をじっと見ていた。

「なんてね、あの文を見た瞬間に分かったよ。英梨はみんなと変わらない本性を持っていて、優等生の英梨は表面的な英梨に過ぎないんだって」


「勝手なこと言わないで」

 ここにおいて初めて英梨は口を開いた。それは感情を押し殺したような低い声色だった。

「そうだね、確かに勝手な想像に過ぎないし、もしそれがただの妄想なら、俺は脈絡のないことを口走っている滅茶苦茶恥ずかしい奴ってことになるだろう。でも、俺が言ったことは事実じゃないか?」

 そこでまた英梨は黙ってしまった。更に俺は力説する。

「勘違いしないで欲しいけど、決して俺は英梨を有象無象の中の一人だと弾劾するつもりは毛頭ないんだ。むしろ、あの文句を見たときに、俺は英梨に対して崇拝の念すら覚えた。普通でありながら普通でないように振る舞う、そんな芸当をやってみせる人を俺の周りで初めて見つけたからね」

 俺は一息おいて残ったコーヒーを一気に口に含んだ。脳がガリガリ回って続く言葉を探した。

「そもそも、俺は優等生の英梨という像にも惹かれていたし、そういう意味で好意のベクトルは変わったけれど、俺が英梨を『いい』人間だと思っていることについては、出会ってから今まで一度として変わっていないよ。黒板に書かれた君の叫びを見たとき、真っ先に覚えたのは英梨への思慕の情だったけど、次の瞬間には、むしろ俺はやっぱり自分自身のことを考えていたんだ」


 英梨はずっと口をつぐんでいる。


「これから俺は君が最も忌避した自分語りをするよ。できれば、俺の事を見下したりしないでほしい。そう、あの黒板の文字を見たときにね、端的に言えば俺は徳を積むことを諦めたんだ。なぜって俺は英梨のようにはなれないと自覚しているからだ。俺は弱い人間だから、辛いことがあれば『辛い』と、苦しければ『苦しい』と言ってしまう。そんな弱い自分を押し殺して、誰にでも愛嬌を振りまく、そんな美徳を貴びかつ実行する人間を目指そうとして、辿り着く先は英梨のような悲しい人間だと、他ならぬ英梨自身が教えてくれたんだよ。結局みんな根っこの部分は変わらなくて、最初から我欲をもって生まれた人間は、最後までそれを手放せずにはいられない。英梨だってその例外じゃないんだって分かった瞬間、俺は徳というものがいかに虚しく下らない代物なのか少しだけ分かった気がしたんだ」


「……私はあなたたちとは違うわ」


 やっと口を開いた英梨の言葉は、それ自体、矛盾を孕んだものだった。


「違うもんか。いや、英梨がそう思うのは構わないけど、少なくとも俺はそう思わない。『人と違う』なんて言葉はエゴ以外の何物でもないだろ? 大体だね、徳を積みたいだとか人と違う存在になりたいだとか、そういった感情だってよくよく考えて見れば、結局は我欲から演繹されたものに過ぎないじゃないか。でも確かに徳は美しいものだ。今だって本当にあるかどうかも分からないのに、俺は徳に焦がれている。だから、それを激しく求める英梨に好意を持ち共感するんだ。でも、その道の果てにあるのは破滅だけだと、俺は諦観したよ」


 俺は続ける。テーブルの下で握りこんだ拳はじっとりと汗で濡れていた。


「俺の父親はね、俺が高校生の頃に会社でのハードワークがたたって過労死したんだ。父親は全てを抱え込んで生きていた。父親の顔はいつも苦しそうで助けを求めていたよ。俺は今まで『彼ら』、今俺たちの周りにいる沢山の人たちが、共感と同情を求める相手を失った時に父親のようになるんだと思っていた。でもね、本当に父親と照らし合わせるべき人間は『彼ら』ではなく英梨の様な人だったんだよ。なぜってもう英梨なら分かるだろうけど、人に助けを請うことを自らに禁ずる人たちは、自らの意志で俺の父親のようになろうとしているからさ。俺はそうはなりたくない。徳のように美しいものは、自ら実行するのでなく鑑賞するにとどめた方がいいのかもしれないねぇ。だから長く険しい徳の道を行くことを諦めようと思ったんだ。俺より遥かに進んだ場所にいる佐久間英梨の僅かな弱音を見てしまったからね。俺は英梨のようにはなれない。英梨がどれだけ苦労しているか推して知ることも出来ないけど、だからこそ、ようやく諦めがついたんだ」


 そこまで一息に言って俺は言葉を切った。長々と語る俺を前に英梨は幾分か落ち着いた様子に見える。

「とにかく、俺はここらでドロップアウトするよ。こんなことを考えるのはもう今日を限りにやめだ。実はその決意をさせてくれた英梨にお礼が言いたくて今日は誘ったんだ、ケーキは確かに美味しかったけどね」


 英梨の顔色を窺うと、彼女はどう反応していいものか戸惑った顔でこちらを見ている。俺は一つ息をつくと彼女に尋ねた。

「英梨はどうするつもりなの? このまま誰にも自分のことを理解してもらわないまま、ずっと生きていくの?」

 急に話題を振られたからか、彼女は虚をつかれたような表情をしたが、すぐに表情を硬くした。やはり、並大抵のことでは彼女から本音を引き出すのは難しいらしい。ここからが正念場だ。


「俺自身の意見を言わせてもらえば、英梨ももっと自分を大切にするべきだと思う。いや、英梨が嫌でも俺がきっと自分を大切にしてみせる。何故って、俺は英梨が好きだからだ。何故って、俺は英梨が助けを求める声を聞いてしまったからだ。誰も見ていない努力だってお天道様は見ているなんて話、そんなの嘘だ。みんながみんな、自分が一番大切だから、そんなの自分からアピールしなきゃ誰にも気づいてもらえないんだ。万人が英梨のことを、ただのキャパシティが大きな人間だから何でもこなせるんだと思っても、俺だけは絶対にそう思わない。英梨も、ただの人の子で、並々ならぬ努力で今の英梨を維持しているって知っている俺にだけは、もう意地を張らなくてもいいんだ」

 彼女は俯いて肩を震わせていた。

「俺はもっと英梨のことが知りたい。もっと一緒にいたいんだ。だから今度、そうだね、二人でもっと落ち着ける場所で、公園なんていいかもしれない、もっと英梨のことを話そう。英梨のこれからのことを」

 そこまで言って俺は英梨が嗚咽を漏らしていることに気づいた。それから彼女は吃逆を交えながら、訥々と話し始めたのだ。

「私は、私はどうしたらいいか自分でも分からなかったの……自分本位で話す人たちをみんな好きになれなくて、だから自分を好きになるためには、そうしていたら駄目なんだって、信じ込んでいた。でも、それは予想以上にとても大変なことで、そこまで頑張ってすることでもないんじゃないかって心のどこかでは思ってた。ずっと誰かに自分が頑張っているって気づいて欲しいと思っている自分がいて、でもそんな自分を客観的に見る私は、普段好きになれないと思ってきた人間と同じだって否定し続けていて。欲求と願望がそれぞれ矛盾していて、結局私はどうすればいいか分からなかったの……」

 それは、初めて彼女が自らの想いを口にした瞬間であった。


「それはゆっくり考えていけばいいんだよ。それにこれからは微力ながら俺だって側にいる。英梨が心を開いて素直に話してくれたら、俺は親身になるよ。それこそ自分と同じくらい大切なことだから、それを苦だとも思わないし、だから英梨も俺に気を遣う必要なんてないんだ」

 そう言って俺は伝票を持って席を立った。彼女には考える時間が必要だと思ったからだ。

「結局中庸が一番なのかもしれないね。変化は連続的だから、急に性格を変えることなんて無理かもしれないけど、それもこれも、これからゆっくりと考えよう。それこそ幸せになる一歩なんじゃないかな」

 それだけ伝えて俺は会計を済ませると、彼女を残して店をあとにした。



 結果から言えば、彼女は何も変わらなかった。もちろん、急に人が変わったように雄弁になるのもおかしな話なので、当たり前のことなのだが、あの日のことなど無かったかのように、俺に対してもいつもの完璧な笑顔で接するので、俺自身あれは夢だったんじゃないかと思うほどだった。

 しかし、それから少し日が経ったある日、つまり今から二日前のことだが、俺が教室でプリントを整理しているところに英梨がやってきてこう言った。

「高峰君、今週の日曜日、空いてるかな?」


 俺は少し驚いたが、すぐに表情を柔らかくして言葉を返した。

「空いているよ。ちょうど課題が終わる目途もついたし、どこかに遊びに行きたい気分だったんだ」

「そうなんだ。ちょっと退屈かもしれないけど、私に付き合ってくれないかな。駅前にできた新しいラーメン屋に行きたいんだけど、女一人で行くのには抵抗があって」

 彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。言ってくれるじゃないか。

「いいよ、でもあそこのラーメン屋はニンニクが沢山入っているから覚悟した方がいいかもね」

 英梨は笑いながら応えた。


「そうなんだ、じゃあ食べた後に都市公園で散歩するのもいいかもね」

 彼女が席に戻ると、すぐに周りからの嫉妬の視線が感じられた。ハハハ、羨ましいだろう。俺は誇らしいような、むず痒いような落ち着かない気持ちでその日を過ごした。頭の片隅で当日のプランを考えながら。



 そして俺は今、駅に向かう坂を上っている。彼女は今日、どんな話を聞かせてくれるのだろうか。気を抜くと顔が緩みそうになる。こんなにワクワクしているのは、いつ以来だろうか。

 最初に大型デパートの天辺が見え、次に遠くへ延びていく線路が見え、そして最後にロータリーが見えた。この近くで遊ぶ場所なんて駅前ぐらいしかないので、休日だというのに人でごった返している。

 俺は辺りを見回し、英梨の姿を探した。目を引くように可愛らしい恰好をした彼女はすぐに見つかった。学校では見たことのない服装だったので、今日のためにコーディネートを考えてくれたのかなんて妄想をして締まりのない顔になる。

 彼女もすぐに俺に気づいたようで、手を大きく振ってきた。俺も振り返す。


 I FOUND YOU.

 たった一つの冴えたやり方なんてきっとない。でも、人っていうのは、多分、答えの無い問題を考え続けてしまうようにできているんだ。おそらく長いであろう人生において、死ぬまでに本当にやるべきことなんて何も存在しない。だから、俺は今日英梨の話を聞くことにした。他にやることなんてないからね。

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