第8話 小さな美術館
それから、雨傘は数日学校を休んでる。身の回りの処理があったんだろう。空を見上げれば、ぐずついた空模様ってか。小雨振ってる。
こんな日には、必ずっていいほど、雨傘の後ろ姿を見つけるんだよな。
ほら、居たよ。
「やあ、晴くん」
「もう、いいのか?」
「あんまり休むと、赤点が濃厚に……」
あぁ、そういえば、雨傘は赤点ギリギリって言ってたな。
「そいつはいい心がけだ」
「ねー。ボクがこんなに勤勉になる日が来ようとは。あれ? その手にあるのって」
タイミングは見計らうつもりでいたが、今なら大丈夫だろう。それに、いつでも渡せるように持ってた物だしな。
「これは、雨傘のもんだ。実は、お前の親父に会った。で、これ」
手に持ってた鞄を雨傘に預ける。渡した鞄の中身をなんとなく察したのか、目を見開いてる。
「お母さんの……」
言うべきか、迷う。言うにしても、時期を選ぶべきだと思うほどには、時間が経ってない。
「ボク、行く場所が出来た」
言葉に色が無い。ただ、伝えられた言葉。
「何処だよ」
「お母さんの絵のモデルになった場所。完成させなきゃ」
「は? この調子だと時期、大粒に変わる。雨だぞ?」
濡れたら、絵なんてぐちゃぐちゃになっちまう。
「大丈夫。晴れるから。それに、今じゃないと、描けなくなっちゃう。怖くて……」
どういう事だよ。思考は回れど、言葉に出来ないでいると、雨傘が、再度言葉を俺に投げかける。
「晴くんも付いて来てくれる?」
「わーったよ、何処にでも付いていってやる」
電車とバスを使って、辿り着いた場所。無言の短い旅路。いつ騒がしい雨傘が黙っちまえばこんなもんだ。
辿り着いた場所は、広い敷地内にぽつんと家がある。誰も、居ないのか?
「ここ」
雨傘が椅子とキャンバスを立てると、グズついていた、雨が止む。
本当に晴れやがった。
「ね? ボク晴れ女だから」
なんで、晴れた? いや、そんな事よりも何処かで見た張り付けた笑み。無理をして、その顔をしたのは俺にも理解は出来る。
「ボクの晴れはへそ曲がりなんだ。晴くんと違って、負の感情が高まると晴れる。晴くんとは真逆なんだよ。ごめんね、黙ってて。でも今晴くんと一緒に居るのは、嫌じゃないからだよ」
「俺の心配なんぞしてないで、描けよ。俺は、雨傘が否定しない限り、傍に居てやる」
その言葉と同時に、雨傘の意識はキャンバスに移る。深呼吸をして、母親の筆を手に取って、目尻に溜めていた涙を拭い去ると筆を入れる。
邪魔をするつもりは無いが、前にちょっと、と言葉にして三十分も絵に没頭していた。今の雨傘に何を言っても、きっと気づかない。
誰の家なんだ? そんな疑問も推測でいいなら出せる。多分雨傘達が三人で暮らした家だ。
草なんて生えっぱなし。家の周りも、お世辞にもいいとは言えない。
仮に、ここが雨傘の幼年期を過ごしていた場所とするなら、懐かしい場所であり、苦しい場所のはずだ。雨傘がどういう意味で言ったのかは分からないが、描くのが怖い、か。
無駄な思考をしたり、雨傘の絵を眺める。
気づけば、雲に覆われて夕焼けに染まっている。
雲から漏れる光。なんて言ったっけか。確か、天使の階段だったっけな。
「出来た」
書き始めてから、横に置いた水以外口にしないで仕上げた絵。家を背景にして、やぱり雨が降ってる。
「お腹減った」
あの凛々しかった顔は何処へやらだな。ふにゃりと顔を緩ませる雨傘。こっちの方がいい気もする。
「大人しかったと思えば、出た言葉が腹減ったか。何か、食って帰るか」
「その前に、この絵。置いて来ないと」
「置いて行くって、そこの家にか?」
「お母さんとの約束だったんだ。出来れば、守りたくない約束だったけどね」
描くのが怖いって意味も、想像でしかない。
「なら、どうして描いたんだよ」
「描き残した絵をボクが勝手に持ち出したんだ。完成した絵が見たい。それが、お母さんのお願いだった。あの絵を完成させたら、何もかも消えちゃうそんな気がして。だから、描きたくなかったんだ。でも、あの絵の具を渡されたとき、描かなくちゃいけないんだって、そう思ったんだ。でも、何も消えなかった」
放置されてるわりには、綺麗だ。定期的に誰かが掃除をしに来てるとしか思えない。
「画材部屋はここだったっけな」
扉を開けると、絵具やらの匂いが鼻を刺激する。匂いだけじゃない特殊な部屋。
そんな感じが漂ってくる。完成してる絵がここに並び、誰に見られることなく、そこにある。小さな美術館。
「これは、ここでいいかな」
「見渡す限り絵だらけなわけだが、こんなに飾ってお客でも来るのか?」
「稀に誰かが来て、絵を見るだけの部屋。お客さんは、多分一人だけ」
雨傘の言葉が終わると同時に、ドアは開かれる。ここに来れる人物。そして、見る来るのだという人は、雨傘の親父さんしかいない。
「そうか、完成したのか。そうか……」
憑き物が取れたような声が聞こえる。この場所に入れる人この場所を知ってる人。
視線を入り口に向けると、やっぱり雨傘の親父だ。
「奏、何故、葵は奏に完成した絵が見たいと言ったのか、本当の意味を知ってるかい?」
野郎の、それも、いい年をしたオッサンの涙。長い間出す事の無かったその雫は、とても、重いような気がする。その涙は、誰かを思う涙だからだ。
「分からないよ」
「描きかけの絵の中心の人物は、奏だ。それも、成長をしたね。葵は、生きたかったんだよ。成長を見守りたかった。それが叶わないからこそ願いを込めて、絵を描いた。それが完成すれば、病は治るなんて願掛けもして。その絵は、願いそのものだ。願いは叶えられたんだよ」
「お母さんは居ない。もう居ないんだよ? そんな願い……」
「あぁ、その通りだとも。葵が何処かでこの絵を見ているだなんて、そんな事も無いだろう。だから、これは残された側のエゴ。けれど、それが無駄だとは私は思わない。思いは、常に残っているのだから。そんな事に気づかされるのに、一体何年かけたのか」
雨傘の親父のここに溜まった膿を吐き出してる。きっと、全部正しくて、少しばかり、ボタンを掛け違えただけ。
それを理解したからこそ、雨傘は大粒の涙を目に溜めて、零れ落ちると、声を震わせる
「ずるい。ズルイよ、今更、そんな事」
「すまない、奏」
「ズルイ……」
祖母の時と同じ、それ以上かもしれない。溢れだした雫は止まらず、流れ続ける。祖母と時と違う場所があるとするなら、雨傘の親父さんが、雨傘を抱きしめている事くらいだ。
この光景が親子である本来の姿のはずだ。それが遅すぎただけ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます