バナージ

 帝政オピアの領土の東端の村に、齢六十を超えた老人が住んでいた。

 これは彼が語った物語。そしてすべてを語り終えた彼を看取るのは、老人の友人の妹であった。

 当事者でありながら、頑なに歴史の表舞台には立とうとせず、治安の悪いヴィンチ地峡に近い村に住居を構えた二人は、帝国で主流派になろうとしているミスナ教をあえて棄教したり、帰依を拒み続けた。大切な友人と兄を殺した宗教という存在が許せなかったのだろう。

 雑草が生えた農地の一画を悠然と牛が草を食んで歩き、その横の区画では女性たちが、この村の唯一の生産品である作物の種を撒いている。男たちは畑を荒らすイノシシを狩りに朝から出かけている。そんなのどかな村で、老人は死んだ。

 彼の身には、大きく二つの傷痕があった。教団に反抗的な人間を処分するための紛争で、脆弱な盾を突きぬいて敵の槍が彼の肩を突き刺したときの、浅黒い傷痕。そしてもう一つは、〝ロドリゴ〟と腕にナイフで刻まれた痛々しい傷痕。彼は生前、ずっと友人をミスナ教に誘ったことを悔いていた。自分こそが、彼を殺したのだと。

 大切な友人の妹と生活を共にしたが、彼に子どもはいない。そもそも婚姻関係にもなかった。ヘリスの死後後妻となった彼女を村に招き、亡き人の思い出を語りたかったのだろう。

 ミスナという神は、棄教した老人に罰を与えはしなかった。帰依をしない彼女にも罰を与えなかった。そのことが、ロドリゴの死は神の采配であるという説の裏付けになるかどうかは、また別の話である。

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【600pv】寄る辺なき神 春瀬由衣 @haruse_tanuki

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