裁きのあとの世界

 預言者が死んだ、という一報は大陸をさざ波のように賑わした。彼が着手していた事業は、その拠点地によって存続が決まったり、白紙にされたりした。

 存続が決まった事業の責任者には、隊商を率いるリニャが臨時処置として就任した。

 その過程で、預言者の死がそれほど生々しさをもって受け止められる時期を抜けた頃、まことしやかにある噂がささやかれ始めた。それは預言者の尊厳を著しく貶める噂であるが、不思議なことに、ミスナ教の信徒すら納得して信じる傾向にあった。

 ミスナ教の示した理想郷は、確かに誰の目にも輝いて見えた。そして、廃れた世の中に心を痛めていた青年の心も、清らかだったに違いない。――ならばなぜ、神と人の仲介者であるはずの預言者が、壊れてしまったのか。

 血を分けた弟の存在、その弟が不義の子であったという事実。端的に言ってしまえば、これらがセフレタという青年を狂わせたということになるだろう。しかし。

 全知全能であるはずの神が、なぜ予見できなかったのか、という点である。神の威光を穢しかねない、預言者の変貌を知っていたならば、なぜ野放しにしたのか。

 そもそも一神教というものは、神はもちろん一体であり、多くは全知全能である。この世界の創世にも関わっていることが多く、この世のすべて、そして過去も未来も知っているとされる。ミスナ神も、その例に洩れていない。

 物を投げれば軌道がわかるように、宇宙が作られた瞬間の初期条件だけで、何千年後の人々の考えや行動すらわかってしまうのなら、セフレタが狂わぬようにすることも、ロドリゴが死なぬようにすることも、ミスナ神という神籍にある存在には可能だったはずだ。

 ここで重要なのは、信徒に「今さら教えを捨てる」という選択肢はないということ。

 必然的に、この結果さえも、神の思し召しだったのだと考えたがる。


 ミスナ教の発生以前にも、いくつかの一神教が興っては廃れた。

 その多くが、預言者の死後しばらくしての教団の増長や、組織的な他の宗教への弾圧、利益至上主義に染まり愚者の宿り木になり果てた。

 神はきっと、ヒトに絶え間ない努力を期待しているに違いない。権力にも、資金源にも、どんなものの上にも座してほしくないだろう。なにせ人間には生まれながらの罪、原罪があるのだ。神の被造物であるにもかかわらず、不完全な存在なのだ。

 神に近づくための歩みを、教えを受けた信徒たちが忘れぬように、あらかじめ、愚者が思考をとめ縋りつくだけの宿り木の芽を刈り取ったのだろう。神を描くな、預言者を神格化するなと散々忠告してもヒトは過ちを繰り返したから。

 神のご意思なのかは知らないが、結果的にミスナ教の教団というものは消滅した。預言者もまた、実直だった青年が酔狂な老人になり果てのたれ死んだだけの、ただの人間として、それほどの威光を伴わずに人々の記憶に刻まれた。


 ――だとしたら、酷な話だ。リニャはそう思った。

 あらぬスパイ疑惑をふっかけられ、教団本部に連れていかれた二人が、死ぬ定めの駒として戦場に投入されたとは思わずにいた。

 預言者セフレタの差し金だったのかは知らないが、リニャの率いる隊商は、その紛争のころ帝政オピアの要人との重要な商談のさなかにいた。

 紛争が勃発し、情報が錯綜するなか、セフレタが死んだという情報が妙に信憑性の高い輪郭を伴って浮上する。それを聞くや、リニャはすぐに商談を中止し、ヴィンチ地峡へ舞い戻る。そこで耳にした、ロドリゲス――いや、ロドリゴという青年の死。そして教団の腐った内部構造。

 もし闇の増長が加速する前にその芽が刈り取られたのだとして、そのためにロドは生まれ、実の兄の憎悪を一身に受け、実の兄を殺し殺されなければならなかったとして。――そんなんじゃ、ロドが報われない。

 帝政オピアでの商談は、上手くいっていた。商談の責任者でもあったセフレタが死んだ以上白紙にはなったが、オピアの要人のリニャに対する印象は決して悪いものではなかった。

「なんだかねえ」

 夕焼けが彼の顔を赤く染める。

 いつか朝焼けを一身に浴びながら、若いロドに昔話を聞かせたことがあった。それをリニャは懐かしんでいる。

 彼の人柄か、天性の商売勘によるものか、帝政オピアは新しい体制のリニャの隊商の商談を気前よく受けた。そして、彼らの信ずる宗教を帝政オピア内でも信仰し続けることを許した。

 それはヴィンチ地峡のごった煮の文化圏のなか、預言者セフレタの財力で教えが浸透してきたとはいえ、依然肩身の狭い思いをしていた信徒たちへの、いわば安全の担保になった。

 オピアには移民が流入した。しかし、セフレタの指揮下で手芸の内職をしていた者が多く、オピアでの新たな産業の担い手として重宝され、差別もなく暴動も起きなかった。

 その手芸というのは、家を守る主に女性をそそのかし美しい編み物を作らせた上で教団がそれを安値で買い取り、周辺諸国に高値で売りさばくというものだったから、女性たちが真に幸せだったかというとそうでもない。

「――なんだか、ねえ」

 日は暮れた。完全に隠れた太陽が最後に投げかけたわずかな光だけが空中を漂っている。そろそろ、自分も在りし日の幻想からは意識を抜かなければいけない。

「リニャ様、皇帝陛下のご到着まであと半刻となっております。そろそろご用意を……」

「わかっている」

 皇帝の許可のもと、巨大な組織の長の座を賜ったリニャだが、どうもその肩書きに馴染めずにいた。

「しかし、我々が帝政オピアに保護されてもう十年……せっかく生活も安定してきたと言いますのに、なぜここで大臣の座を降りられる決意を? 陛下も悲しんでおいでです」

 そう〝大臣〟リニャに進言するのは、農耕国家ニヴァへの援助で復讐の心をリニャにたしなめられた、サチという少年だった。その少年は成長し、リニャの教えを守り正直で嘘偽りない青年に育ったので、信徒たちが帝政オピアに保護されたときに貴族に気に入られ、いまや皇帝の侍従にまで出世した。

「慰留してくださるのは嬉しいが、俺はそんな柄じゃねえや」

「しかし――」

「急ぐんじゃなかったのか」

 サチは黙ってしまう。リニャは燕尾服を羽織り、サチを見る。サチは目を逸らし、かつての上司のために戸を開けた。

「皇帝陛下、ご到着ー!」

 声のよく通る女性は、サシャという名で、預言者による拷問をかろうじて生き残った強者だ。

 行方をくらましていたセオドア・ルイスは死んだらしい。ヘリスという商人は騒乱を生き残ったが、数年前に息を引き取った。新しい信徒も増え、かつてヴィンチ地峡にいた我々を知る者は年々少なくなっている。

「そろそろ、潮時だ」

 誰に言うでもなく呟いた言葉に、サチが振り返った。そして「そうかもしれませんね」と呟いた。

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