この宇宙のただ中で二人

 決意は人体の肉体の限界を超えた。酷いところでは肌が裂け、肉が露出している。体内の血という血は絨毯の飲み干すところとなり、肌は青黒くとても生きている人間のそれとは思えない。それでも、ロドは立ち上がった。

 王国では馴染みのないロドリゴという名に、一種の劣等感を持っていた。だから、バナージという青年と出会ったとき、違う名を、それもラーマ王国の純国民によくある名ロドリゲスを名乗ったのだろう。

 しかし、彼は自分のルーツのすべてを捨てきっていたわけではなかった。自分すら知らないルーツを捨てなかったがために、そのルーツと決着をつけなくてはならなくなったのかもしれなかった。

 糊が剥がれるような音がして、彼は久々に痛みを感じた。血糊とはよく言ったもので、それは粘着質に彼が運命から逃げるのを許さない。

「まだあいつはいないか」

 ふらふらと屋敷中をさまよい、思い出したように自分を拷問しにこの部屋にやってくる男を思う。やつは今どこを歩き何を見ているのだろう。

 自分はロドリゴでもロドリゲスでもなく、ロドなのだ、と彼は噛みしめる。気軽にその名を呼ばれ、愛された。だから、そのいい思い出と死ぬために、余計なことは消し去りにいく。

「なにか……一撃で致命傷を、与えられるものを」

 いくら自分が痛みを感じないとはいえ、死にかけているということがわからないわけではない。取っ組み合いになって、兄に勝てるとまで、楽観的になれるわけでもない。

 しかし、一撃で人間に致命傷を与えられる武器というものは、往々にして重いものだった。

 部屋の片隅にめぼしいものを見つけ、よろよろと歩み寄る。それは奇妙な短槍だった。

「これは……」

 黒曜石を岩から切り出したままといった風の穂先に、壁にもたれかかってやっとその穂先の重さに耐えているような、細い持ち手部分。誰がみてもそれは武器にはなりえない、不自然な均衡。

 ふ、とロドは笑った。折れることでしか敵に傷を与えられない槍に、死にながら兄を殺す自分を重ねたらしい。

「上等だ」

「なにがだ」

 来客は憎むべき肉親。何度目かの邂逅に、不協和音。デジャヴは永遠には続きはしない。正気を取り戻し、避けられぬ戦いの風を感じたのは、セフレタも同じだった。

 だだっ広い応接間に、並々ならぬ〝気配〟が満ちていく。

「いざ」

 その声は、どちらが先でもなく、確かに重なった。似た声だ、とロドは思った。不思議なくらい、違和感のない声だと。


 ヘリスは身を縛る、電気の走る縄を、やっとのことでほどいていた。勿論身体はボロボロになり、神経がおかしくなってしまったのか、肌が焼けただれているというのに痛みすら感じなかった。

 ただ彼を突き動かしていたのは、この事を伝えなければいけないという使命感だった。

 伝える相手は、ロドリゴの妹で、いまは男装しペルコと名乗っている人だった。

 特殊な性癖を持つ異常者であり、セフレタすら凌駕する守銭奴であると自身を売り込んだヘリスは、鉱山の所有権を奪うために哀れな女を自分のモノにしたと、周囲を簡単に信用させることができたのである。

 彼、すなわちロドリゴが愛する妹の膝を、爪で掻いた日が、計画実行の日であった。

 アーチャーを遣わしロドリゴをセフレタ傘下の鉱山から離れさせた。そして、ロドリゴと血をわけた鉱山の主を身内に囲った。セフレタの復讐心の対象ロドリゴの実妹が、セフレタ自身の身近にいる。そんな爆薬のなかにいるような緊張状態はただちに取り除かねばならぬ。

 初めは商人として生きてきたヘリスの、平衡感覚がそうさせた。灯台下暗しでセフレタがロドリゴに気づかぬうちに、彼を鉱山から離れさせなければいけない。

 しかし、彼女を娶り彼女を愛した兄の存在を深く聞くにつれ……

 死なせてはならぬ、そう強く思うに至った。

 ゆらゆらと歩を進め、やっとのことで戸を開けた。電気縄から逃れられると思っていなかったのだろう、戸は鍵すらかけられておらず、あっけなくギイと音をたてて開いた。

 血だまりがあった。彼の重要な部下である、目のよい弓使いが、その聡明な眼を潰された上で転がされていた。

 ここで悲鳴が聞こえた覚えはない。恐らく、他の場所で殺されてここに運ばれたのだろう。

「クッ……」

 〝こんなこと〟で、立ち止まるわけにはいかなかった。


 ペルコは誰もいない屋敷の中で、ただ一人クローゼットの中で息を潜めていた。

表には出ず、ひたすら夫からの合図を待っていた。

 ピーッ、ピーッ、ピーッ!

 鋭い笛の音が三つ。緊急事態発生。しかもなんらかの事情により発生からは時間が経っている。

 自分たち家族を狂わせた人間の配下で知らずに身を粉にして働き、知られてはならぬ出自を隠すために、同じく配下で働くヘリスの元に嫁いだ。

 姿を現せない忸怩たる思いのまま、夫の協力のもと彼を〝戦争〟から遠ざけようとした。けれど、彼は戦場に行ってしまった。

 実の妹である自分に対して兄が抱いていた感情に、気づかなかったわけではない。自分の要求にすべて応え、嫌がりもしない彼の眼差しは柔らかだった。それに、覚えてもいない親の顔が重なった気がした。

 やりたくもない非道を行う毎日に、安らぎを与えてくれた実の兄との関係は、間違いなくミスナ教が禁じている肉親同士の禁断の愛だった。だけれども、その宗教を広めた預言者が自分に強いていることを考えると、兄と自分が間違ったことをしているとはどうしても思えなかった。

 いつか言いたい。自分も、兄を愛していたことを。

 その機会を、ずっと待っていたのに。


 ――兄が囚われていると情報があった部屋で、兄は、その血をわけた長兄に、竹という異国の植物で作られ大きくしなる槍を大きく横に振りセフレタの腹を狙っていた。

 大きくしなるその武器は、満身創痍のロドリゴの非力を補助し、セフレタの腹を大きく裂ける威力を持っていた。しかし、そのしなりによる時間の遅れにより、肉厚な刃を二本、両手に構え腕を交差させているセフレタの、腕を開いたときにロドリゴの喉笛を切り裂ける可能性も高かった。

「兄さん!」

 声は、届かなかった。

 時間の進みが急に遅くなったように、ペルコは息を飲む。

 ボトリ、と首が落ちた。

「どうして!」

 この世界にいるものはみな兄弟であると宗教は教えた。そのくせ、兄妹が愛を育むのを異端と断じた。それならば、我々〝兄弟〟は、永遠に解りあえないではないか。

 目の前で起きている、この戦いのように……。


 ロドリゴは死んだ。ヘリスも道に迷いながらやっと駆けつけたが、蘇生すら無意味なほどの圧倒的な死であった。そして、ミスナ教の教えを神から聴いたというその人も、腹部からドクドクと血を流して、ガクリと膝をついた。

 しかし、守るべき預言者の重傷に、悲しみを抱く人間はこの屋敷にはすでにいない。

 ピーッ、ピーッ

 短く鋭い笛二つに、

 ピィィーーッ!

 長い笛一つ。

 作戦失敗の、信号だった。

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