死ぬのはいつだって持たざる者で

 さあ、どうする?

 疲労困憊のロドリゴに、預言者セフレタが投げかけた言葉はこれだった。

 百人は収容できようという広い応接間の、一目見て高級だとわかる分厚い絨毯の豊かな毛が、連日の拷問によって滴った血で赤黒く変色し、硬く、薄っぺらくなっていた。

 仲間を助けたくば完全服従を宣言せよ。さもなくばお前をここで殺す。そう高らかに、預言者のためだけに作られた高所の椅子から見下して言ったのはいつだったか。

 セフレタの屋敷には、ここ何日も人は訪れていない。長い付き合いの友人たちでさえ、気味悪がって屋敷を去ってしまった。いまこの屋敷には、一日中ブツブツと何とも聞き取れない言葉をつぶやきながら、あちこちの灯が消え、さながら廃屋のようになった薄暗い廊下を歩く老人しかいない。

 そんな中ですら、ロドは動けなかった。もう手を縛るものはなく、重りを膝の上に乗せられているわけでもない。なのに、まぶたを上下させることすら億劫だった。

 血潮は広がっては乾き、何重にも染みを作っていく。荘厳であった飾りも、天井から吊るされた照明も、すべて誰かの手入れで荘厳なまま保たれていたものばかり。預言者の威光の没落を予言するように、誰もいない豪邸が寂しい。そして応接間の重い戸をギイと音をたてて開ければ、広いはずの空間に血の臭いがムッと立ち込める。

 この部屋を訪れることだけは、セフレタは止めようとしなかった。屋敷の多くの部屋の椅子や机、本棚には埃が覆っているが、この部屋の高座だけは小奇麗にされている。

 セフレタにとって、自分を保ったまま制御下における世界は、本当はこれしきだったのかもしれない。

「さあ、どうする?」

 言っている本人すら、何のための問いなのか忘れている節があるほどの、繰り返された意味のない問い。

「貴様に従う気はない……」

 対するロドですら、口は機械的に動くだけ。従ってはならぬという、意識があったころの彼自身の思念がそうさせており、いまの彼が、これは何のための応答なのか覚えているかすら怪しかった。

 混沌のただ中にいるロドの魂は、家族の夢を見ていた。


 王国の移民排斥は、感情ではなく制度だった。

 移民の子はもちろん、移民の血を少しでも引いたものはその純国民の血の濃さから周到に階級付けられ、その階級によって受けられる保障や到達できる生活水準が細かにわけられていた。

 不貞の末に男と逃げ、王国に逃れてきたロドリゴの母は、それはそれは最下級の、触るのも憚られるほどの下の階級に置かれた。言わば、リオたちクリ族の末裔と同じ立ち位置である。

 その女は死んだ牛馬を捌いたり、罪人の処刑に立ち合い執行人への穢れを払う露払いの仕事を転々とし、最終的に、下水道の整備されていない下層民のバラック街で、糞尿の汲み取りをする仕事に落ち着いた。

 糞尿の始末をする仕事は同じ〝虐げられる者たち〟にも蔑視され、その職に就いたが最後、死体すら埋葬されずに死ぬのがお決まりとされていた。まして、子どもを養うことなど不可能である、と。感染症にかかるリスクが高い生活で、しかし、二人の子どもを母親は育て上げた。雨を凌げる屋根もない生活で、ロドリゴは懸命に妹をあやしていた。ロドリゴ本人も忘れていた遠い遠い記憶である。

 そんな折、転機が訪れる。

 恩赦であった。


 王国の最高権力者は言わずもがな王であって、その王が、皇太子にその座を譲ると公言した。

 現国王の死を伴わない政権交代は、王国にとって初めてのことであり、国民の心はわずかながらもおおらかに、寛容になった。

 不可触民とされていた下層民のうち、クリ族を覗く移民たちが、階級から解放されたのだ。

 下層民のバラック街にも下水が整備され、生活水準は大幅に向上した。

 ――それが、いけなかった。

 移民を人とも思わぬことで純国民の贅沢を養っていた国庫が、〝持たざる者〟への過度な温情により圧迫された。移民への感情は、加速度的に悪化してしまったのである。

 〝制度〟として、少し上の階級に置かれることになった家族は、努力により生活水準を制度上あげることに成功した。しかしそれは、元々その地位にいた移民や純国民から、酷い罵声を受けて、妬まれて、指をさされてのことだった。お前たちのせいで、私たちを含む全体の地位が下がったのだと、家族は糾弾され続けた。

 それが、ロドリゴの母親が弱者救済に根本的なところで嫌悪感を抱いてしまった要因なのかもしれない。


 ん、とロドリゴは息をつく。腫れたまぶたを押しのけてみたのは、見慣れてしまった応接間と、そこを出て行こうとする異父兄弟の姿。ロドリゴはまた微睡みに落ちていく……。


 ちょうど一家が借家住まいをするようになったころだった。政府は純国民の世論に応える形で、不可触民制度を復活させた。家を持つに至った者を除き、元来不可触民であった者は、元の階級に戻るよう触れがだされた。

 それはお触れだけでよかった。制度としての差別は人々の感情を麻痺させ、息を潜めて難を逃れようとしていた人々を、他ならぬ民衆が〝あるべき場所〟へ誘い、押し込めた。民衆からしたらそれは差別ですらなく、規則を守らなければという良心に則ったものですらあった。

 本棚に散らかった本を直すように、下層民の活気は整頓され、支配され、消え果てた。その有様を、崩れいく崖の上で辛うじて守られた一家は、ただ茫然と眺めるしかなかった。

 その三か月後だった。ロドリゴが奇形の少年に出会ったのは。

 家に閉じこもり、現実から逃げるように、貯蓄を崩して束の間の家族団欒を享受していた家族が、否応なく〝外の世界〟に触れたときだった。そしてその扉を開いたのは、長男のロドリゴ自身であった。

 肉が打たれる音が気になり、戸を開けた先にいた乞食の少年。距離をおいて相対した二人の子どものうち、片方は罪悪感を抱き、もう片方は感謝を抱いた。辛うじて持てる者になれた恐怖に苛まれ、似た立場の者を見殺しにした罪悪感は、ロドリゴの母を狂わせた。

 家庭は徐々に壊れていった。辛苦に耐え最下級の生活から抜け出すことを夢見ていたころの団結は、もうなかった。見ないふりしてなにもしなかったツケは毒となって家を巡り、あれほど仲のよかった家族は崩壊した。

 家賃滞納で家を追われた家族のうち、まだ幼かった妹は純国民の貴族の養子として引き取られた。両親は妹を引き取った貴族の口車に乗せられ怪しげな事業に手を出した挙句、借金を背負い、結局貴族の飼い犬に身を落とした。そしてロドは……

 錯乱した母親に絞殺されたことにされ、一人夜道に置き去りにされた。男なら妹を守れという、母親の呪いに縛られたまま、何もできずにあの鉱山に辿りついた。あの、人間の欲望を体現したような露天掘りの鉱山に。

『さあ、どうする?』

 何度繰り返されたか知れぬその問いへの答えは定まった。

 それにしても、あの父違いの兄は、知っていたのだろうか。父親をなくし独り身になった貴族の息女を、利用に値すると思い引き取ったあの商人は。

 あれが、あなたの忌み嫌う俺の実の妹だったことを。

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