ハニーラテ

羽田とも

はじまり

 ここにペットボトルがあるとする。そして、その底の側面には一円硬貨程度の穴が空いている。ポカンと口を空けたようなペットボトルである。

 ペットボトルの飲み口から水を注ぎ入れる。勢い良く入る水は次第に、元来から空いている穴から漏れ出てくる。それを指で栓をする。すると、水は漏れずにペットボトルは水で満たされる。

 しかし、そのペットボトルを手放すことが出来なくなる。それもそのはず。穴から水が漏れ出してしまい、せっかく溜めたものが無くなってしまう。些かそれは勿体ないと思う。故に手放せないのである。細かく言えば指を放せないのである。


 極端に言えば私の心はそんな感じになっている。一度何か満たされるが、しかし何処かしら穴が空いており気付いた時には空っぽになっている。

 幸せだとか、悲しみだとか、そんな物全てが流れてしまうのである。それを不幸と言うのか、はたまた脳天気と言うのか定かではないが、私個人的には淡々と降り注ぐ現状の水を満たすための術を模索しているのである。ペットボトルの蓋を常に持ち歩きながら。


 周りに流されていそうに見えて、それほど流されることなく、自分と言うのを持っているようで持っていない。それでも、なんとなく自分と言うナニかを信じていて、かといって自信はない。そんな曖昧な私の性格上、困難と言う大きな壁が目の前に立ちはだかると「まあ、どうにかなるさ」と思い、そのまま壁に背をつけて座り込んで居眠りする。

 そんな繰り返しの毎日を過ごしていて、時折どうしようもなく不安と言う波に押しつぶされそうになる。

 本当にこのままでいいの?と。


 母は良く言うのだ。

 「何事も経験だ」と。

 そして妹は「経験、経験」と言っては悪戯を繰り返し怒られる。理不尽だとばかりに五歳児は声高らかにして「言われた事をしてるだけなのに、どうしてあたしばかり怒るの」と。

 まるで、姉であるあの人は何も経験せず生きているのに、と言われているような物言いである。


 私だって何も経験していない訳ではない。大学の時もボランティア活動をしていたし、アルバイトも接客業をしていた。こうして社会人になって苦手なヒールを履きながらも、様々な事を見て触れて体感し、そして歳を重ねてきたと思う。

 しかし、私の心は何か満たされていない。ペットボトルに穴が空いているように。


 「さっきから上の空だけど」

 彼はそう言いながらもキスをしてきた。ゆっくりと、ねっとりと。彼ならではのキスの仕方で未だにしっくりと来ない。キスは他の男の方が上手いな、と内心思っている。

 「今日はそんな気分じゃなかった?」と彼は私に聞いてくれるが、そんな訳じゃないよ、と私は唇を返した。まるで、手本を見せるように。こうよ、他の男はこうするのよ、と。


 彼の部屋は甘い匂いが充満している。まるで蜂蜜が溶けているように甘くてとろみがある匂い。月に一度か二度程度しか来ない彼の部屋だが、何故かこの匂いをだけは記憶に残っている。時折街中や、ふとしたきっかけで香ると必ず彼の事を思い出す。そんな日は私から彼に連絡をする。そして、今日みたいに外で軽く飲んで、そのまま部屋へと流れ込む。

 他の男の場合は大抵、彼方から連絡してきてご飯抜きで結局ホテルに直行する。身体目的ばかりなのだが、それでも私は気が楽だと思っていた。これ以上深く考える必要もないし、サバサバした関係だ。互いに気持ちよくなり、はい、お疲れ様と言って「またね、機会があったらの話だけど」のキスをする。

 それでいいのだ、と言い聞かせる。これも経験の一つであり、私としても手放しにくいものである。何も考えずするセックスは気持ちが良いものだ。


 ブラウスのボタンを、彼は不器用にも一つ一つ丁寧に外していく。私も彼の身に委ねるようにして、外しやすいように動いていく。首に手を回して、口は相変わらず求め合って。

 彼の少しダサいTシャツを脱がして、私は彼にフックを外してもらう。こうして互いに上半身は露わになる。いつもの流れで、いつもの場面。

 「痛かったら言ってね」と彼は言いながら、手と指はゆっくりと下半身に伸びていく。相変わらず躊躇い癖のある触り方だが、何故かそれの方が感度が上がっている気がする。痛い、とすら感じることなく、不思議と身体は受け入れる体勢になっていくのだ。

 彼は私の乳房を口で愛おしそうな顔で頬張る。やけに甘噛みの多いやり方も、安っぽいトランクスからはみ出るそれも、どことなく何か他とは違うのだ。


 彼氏とは二年前に別れたままで、それ以来誰かと付き合う事はなかった。大恋愛の内大失恋してからというもの、愛だ、恋だ、そんな浮ついた気持ちが遠退き、気付けば上記内容然りの事ばかりである。故に楽だと言う理由がわかっていただけるだろう。

 大好きだった彼氏の事を未だに引っ張っているつもりはないが、それでも部屋着として使っているお揃いのスウェットは着崩されていくばかりである。


 死んだカエルのような姿になり、彼と二つに一つを楽しむ。その時には快楽ともなんともつかぬ感情が、上下運動の弾みで出てくる。

 何とも言えない気持ちよさと、何か抜け落ちていくもの。しかし、満たされていく。


 「どうして、彼なんだろう」と喘ぎ声の隙間を潜って疑問が浮かび上がってきた。

 彼の正確な年齢は知らないが、見た目は私の好みではない。雰囲気イケメンだとは思うが、まじまじ見ると普通の下か。金銭的にも決して余裕のある方ではなく、かといって貧乏臭くない。売れないバンドマンのような見た目なのに、インディーズでは売れているような空気がある。

 決して万人受けしないだろう。私ですらここまで話せるのは不思議だし、きっと彼ならではの魅力の一つなのだろう。どことなく自信ありげな態度と、それに及ばない力加減。空回りしているが、必死なのだ。

 そして、優しい。私のことを気にかける言葉。仕草。その目線の先。全てに私があり、彼は私を見越して全てを話してくれる。そこにあるのは安心感なのだろう。


 荒い息が部屋を駆け巡り、行き着く先では壁も何もかも打ち壊してしまう。きしむベッドと、カタカタ揺れる不安定な本棚と、私の心にあるペットボトル。

 満たされない思いが定まらない揺れを感じつつ、少しずつ穴から漏れ出している。ああ、やっぱり私のペットボトルは満たされることなく流されていくのだ。そんな事を思いつつ私は絶頂に。


 呆気なく激しく全てが終わる。終電も間に合う時間だ、と壁の時計に目をやりながら思う。ベッド脇に落ちている輝かない下着を手に取り、私は身に付ける。

 彼はベッドの上で仰向けになりながらも、煙草に火をつけた。ほんのりと暖かい光が部屋を一瞬だけ満たす。

 乱れた髪の毛。今朝と同じようにポニーテールにする為束ねる。茶色いヘアーゴムを口で持ちながら、両手で縛る。


 「ねえ、俺たち付き合おうよ」

 彼が煙を噴かしながら言う。その言葉は遊びで言われるような感じでもなく、ただただ純粋に感じれた。真っ直ぐな言葉の意味を受け止め切れず笑ってしまった。

 「また、キミはそう言うこと簡単に言うんだから」

 違う、私はそんな事を言いたいんではないのだ。しかし、私という自身の影が真実など覆い隠していく。ほら、徐々に水が漏れだしてきた。


 「俺はさ、キミの事を何倍も何万倍も何億倍も知らないし、キミも同じだとは思うんだけど、それでも俺は、一つだけ知ってるし確実な事がある」

 煙草を咥えつつ彼は上体を起こし、私の背中に、それを越して心に、ペットボトルに語りかける。

 「俺はキミが好きなんだ」

 私はキュッと髪の毛を縛り、そのままブラウスに袖を通す。少しベッドから離れたところに落ちているスカートを手に取ろうと立ち上がろうとした時、彼が私の腕を掴み再びベッドに座らせる。弾む私の身体と無駄に揺れる乳房。

 「キミが何を求めているかはわからないけれど、でも俺ならその穴を埋められると思う。と言うか埋めるよ」

 彼は背後から私を抱きしめて言う。その温もりと力強さ。口に咥えた煙草の煙の香り。彼の匂いも混ざる。私は目を閉じて彼の手に手を重ねる。

 「なに、今日のキミおかしいよ」と私は笑って答える。いつでもいいから、と彼はそう言って私を離してくれた。

 私は立ち上がりスカートを手にする。帰り身支度して、コートのボタンを止める。

 「じゃあ、またね」と私は言って玄関に向かう。足早に出て行く私を彼は見送りに来てくれることなく声だけで「いつでもいいから」と再び言ってくれた。


 帰り道。街路樹が私の頭の中に囁いてくる。なぜあの時すぐに返事しなかったのか、と。私も「わからないよ」と答える他無かった。しかし、本心を言えば胸の中が弾ける気がした。

 今まで身体だけの関係で、気持ちなんて二の次三の次にしてきたのだけれど、彼はずっと私の事を見てくれていたのだろう。それを思うとギュッと胸が締め付けられる。

 こればかりは「まあ、どうにかなるさ」とは思えなかった。自分で答えを見出すほかない。


 心の中から何かかが零れ落ちていく。ペットボトルの穴から落ちていくのだ。慌てて私は指でおさえる。すると、そっと見えない誰かの手が差し伸べてきて、ペットボトルをおさえてくれる。

 ペットボトルの穴を指で栓をするのは自分だけでなくていいのだ。誰かにおさえてもらい、私も誰かの穴を指で栓をしてあげればいい。満たされる為には一人だけでなく誰かの力に頼ればいい。

 少しだけ安堵感が現れる。これが答えではなくても若干の壁は打ち壊せた、だろう。


 ああ、そうだ。次の休みの朝ハニーラテを作ろう。と、私は帰りの電車で決心する。



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