第6話 峻厳の夢

 視界がぐらつく。これは誰の夢だろう。いや、彼女は今眠っていない。真っ直ぐに、彼の言う根城を目指している。そのはずだ。相棒の声が遠い。あまりに血の匂いを嗅ぎすぎたか。王城の階段は広く長い。足を踏み外さないように、ゆっくりと、着実に。きっと彼も気を悪くしているはずだ。ああだって、母さんが俺に甘すぎるから、触れようとするから。いや、これは誰の記憶だ。母さんにとって、僕は邪魔者だから、気味が悪いと言われるから。違う、これも私じゃない。記憶が白濁とする。情報量に押し流されてしまいそうだ。あと少し、あと少しでわかる。もう少し、手を伸ばせば──刹那、身体が宙に浮いた。


「ぼーっとしてんなよ」


 ぶっきらぼうな声。ああ、来たんですか。その言葉すらも喉から出ず、彼女はパクパクと口を動かした。ボスに言われて来たのだろうか、持ち上げられた身体に振動が伝わる。擦れる脚の揺れ。ああそうか、彼は脚をやられたんだ。凍傷もあるだろう。腕の力も不確かだ。


「おろして、大丈夫」

「大丈夫ってこたぁねえだろ」

「きみもね」


 階段を降りながら、身体は重力に沈んでいく。ふらつく彼を小突いたのか、そのまま落ちてしまいそうに。彼女の腕を、もう一人が引いた。足は覚束無い。それでも両腕を抱えられた安心感に、束の間の疲弊を味わう。


(エリカ、私は、あなたがいなくても、強くなれそうよ)


 ふわふわと揺れる思考。流れる記憶。見たこともない部屋で、彼は血を浴びていた。彼はオモチャに囲まれていた。呟いた言葉は正反対。私は何を言ったっけ。母の消えた空間で、父の前で、最後に何を吐き捨てたっけ。ああ、そうだ──


「私は、前しか見ない」


 男たちの腕から飛び退いた。最後の階段。着地の衝撃に足がもつれるが、それを笑う男たちには救われた。彼らの血液は、暖かい。それが例え、化物の血であったとしても。


「行きましょう。あの男はきっと、イリスの教会」


 紳士を気取る、狂気の男に、よく似合う瓦礫の教会。奇妙な歌が響く、滅びの教会。空は黒く染まり始めていた。




「遠い昔、少女はかけがえのない家族のため、愛する人をその手に掛けました。髪を毟り、目玉を抉り、心臓をくり抜き、そうしてまるで焼け野原のようになったその苗床に、黒い種を植えたのです。……わかるかな、人体を養分に育った花々がどうなるか。そう、普通の土よりもね、幾分も早く、強く、大きく育つんだ。人の身体は栄養素の塊だからね。そうして育った花を、少女はもっと欲しくなったんだ。なにせ、あまりに美しく咲き誇るものでね。彼女は栽培をし続けた。幾人も手に掛け、花園を作り上げたんだよ。それが花の国の原点。君たちは、花の苗床。強く、大きな花を育てるために、君たちは命を燃やしている。時折種が暴走を遂げてしまうようだけれどね、そんなもの大したことじゃあない。枯れた花は、摘み取れば良いのだから」


 巨大な風穴から滲み漏れる光。落ち行く太陽は、こうも輝かしいものだったろうか。祭壇に寝かせられた白髪の小さな青年を、神々しく照らしている。丁寧に手のひらは組まれ、白い花々が全身を囲うようにして飾られている。葬儀でも行うか。まるでそう見えるが、男はそうではない。


「昔話、ね。エキノプスのボスも誇らしげに語ってたよ。随分と、あんたに心酔してたみてえだ」

「ああ……初めに話したかもしれない。彼女の話だね。イリスと呼ばれる博愛の彼女」


 白い羽織を纏った男。愛おしそうに花に触れ、花弁を毟って彼の顔へ。一枚一枚、大袈裟な動作と共に飾る様は、司祭の祈祷とよく似ている。彼はストラを身に付けていない。ただそれだけだ。口ずさむ歌は、あの宗教歌。


「春を待って、雪の下。焦げた臭いと黒い雨。夜を待って、月の下。錆びた臭いと赤い雲──……ハイデは全く覚えなかったね。あの子は頭が弱いようだ」

「ハイデではありません。エリカです。死者を……私の親友を、これ以上愚弄しないでいただきたい」

「殺したのは君じゃあないか」


 肩を震わせ、男はくつくつと笑う。鼻歌は止まらない。花をちぎる。白、白、白い花。アカネの髪とよく似た白。彼女たちが纏う制服と、よく似た白。徐々に光が掠れる中で、そこだけが明るく見えた。


「道草坊やは手の鳴るほうへ。留守番坊やはお庭の裏へ──」


 男は祭壇の裏に沈む。そうして取り出した花は、唯一、白ではない。焦げた紫色の、凛と上に伸びた花。傍らの白と対照的で、彼はそれを生贄の唇に飾る。


「テメェは死体愛好か?前にここに来たとき、司祭を悪趣味だと言ってたが、なかなか負けてねぇぜ」

「君には言われたくないなぁ、酔狂のビティスくん」

「国のため、国王のため。それも偽りなんでしょう。酔狂なのはあんたのほうじゃないか」

「嘘つきのヤナギくん。君にも言われたくないなあ」


 純白の花はレースのドレス。紫の花は、彼のブーケ。血の気の失せた花嫁は、夜を運ぶ風に吹かれて輝かしい。闇に呑まれるその刹那、白いレースはパタリと閉じた。紫の花は潤いを増して際立つ。男は彼に、頬擦りした。


「君たちは私と同じだよ。私はただ、この花を愛でていたい。ただ少し、愛で方が人と違うだけ。君たちもそうだね。……無機物にしか目もくれない、ヤナギくん。アスフォデルの無機質な足は、美味しかったかい」

「何を……!」


 青ざめるヤナギ。足先に小さな瓦礫がぶつかった。


「挑発に乗るなよ、ヤナギ」

「君もそうだよ、ビティスくん。母君の散り際は美しかったかい」

「テメェ……調べやがったのか……」


 猛る彼をなだめるのは彼女だ。あの男は全てを知っている。水晶の左眼で、全てを見透かしているのだ。


「君は彼女に似ているよ、ガーベラ。冷静を装ってやいるが、その実直情的だ。君が正義に振り回されるその信念、それは誰が作り上げたと思う?」

「……あなただとでも言うのですか」


 白の正義を握り締める。この肩当ても、このマントも、彼女を包む正義という理念。瞳を細めた男に、肩当てのテープを外した。


「私と、彼女だよ」


 カランと響くエンブレム。半年前には、汚れたから捨てたっけ。見ればヤナギも無造作に投げ捨てていた。


「ならば私は今から公安の名を捨てます。私自身の正義という理性に倣い、あなたを捕縛します」

「結局公安と変わらないじゃあないか」


 男は花嫁を抱き起こす。同時に花弁がひび割れた地面に散らばった。懐から覗く種。ヤナギの二丁が火を噴いた。


「……危ないな」


 種は弾いたがしかし、男の胸は、厚い氷に覆われていた。その氷に、花嫁の頭を押し当てる。そうしてそのまま口付けた。熱く、強く。


「さて、ひとつになろう、アカネくん」


 彼の背中からは、紅い氷が聳えていた。




 花の国。その国に生きる花。種は心臓。心臓は感情に揺れ動く。命の証。愛を表すシンボル。誰かと誰かが繋がって、誰かと何かが交配して。実った果実はまた誰かの中へ。それが連鎖で人の在り方。真っ赤な種は、男の黒い口腔に飲み込まれていった。

 誰もが視線を逸らさなかった。吐き出したくなる衝動を堪え、男の挙動に目を見張る。舌舐めずり、恍惚とした顔。男はブーケを奪い、そして捨てた。

 男の手のひらから、紅い氷柱が放たれる。男は避けた、女は掠めた。血流が波打つ。頭の中で、誰かが泣いていた。誰かはわからない。アカネ、違う。暗闇にかかる虹を背に、見知らぬ女が泣いていた。


「おいカニバリスト。テメェはいつから生きてやがる。公安が発足したのは、百年以上も前だろうが」


 鉤爪に、脆い紅は砕かれる。走って刻んで投げて裂く。氷柱は散って、赤黒い雨を降らせた。


「きみのどこに正義があるのか甚だ疑問だけれど、公安とはそういう場所なんだね」


 双銃の弾が切れた。背中のポーチから畳まれた猟銃を取り出し、手早く装填する。激しくも乾いた破裂音が、煙を上げる。赤い雲。


「あなたの目的が何も見えません。あなたは、何を望んでいるのです」


 拳銃はゆっくりと悲鳴を上げる。照準を合わせようと片目を閉じれば、その視界を掠める臭い。焦げと錆び。また気分が汚濁しそうだ。


「そうだね、私は──」


 リンドウ。頭の中の女が叫ぶ。泣く。全く不愉快な、女神だ。


「花畑を見たいんだ」


 女の視界が明滅した。肩から頭へ、何かが蠢く。思わず怯んで、彼女は肩を摩った。


「……ない」


 呟いた瞬間、肉が裂けるような痛みと共に、視界を草の蔦が覆う。


「ガーベラッ!!」


 この叫び声はビティスだ。なんだ、名前、知ってるじゃあないですか。呑気に思いながら、その蔦を目で追った。裂く。咲く。開花する。


「あぁああああああッ!!」


 痛い。熱い。苦しい。女の元へ男の氷柱が迫る。それを割ったのは弾丸ではない。紫の、棘のような、小さな花。


「……アヤメ……?」


 男は確かに呟いた。この花の名ではない。そんな女神のような花ではない。これは、悪魔の花。頭の中で、その女は笑っていた。


「アヤメ……アヤメだ……アヤメ、そこに……!」


 男は駆けた。花嫁を置き去りにして。自身の氷柱の雨を浴びながら。視界に花が舞う。白い花と棘の花。二つが演舞し、そして謳う。


「太ったスズラン揺れてる頃に──真っ白スズラン泣いてる頃に──」




 教会の中で、女は歌っていた。愛する家族に囲まれながら。愛する家族が眠る中、たった一人で歌っていた。焼け焦げた臭いが立ち込める。彼女は笑うように泣いていた。足元に飾られた色とりどりの花を踏み付けて。




 紅が視界を覆う。彼女に盲目と化した男はその脚を止め、水晶の義眼は転がった。


「……アヤメ、花を、贈るよ」


 呟いて、男は血塗れのスノードロップを握る。彼女は首を横に振った。


「私は、アヤメさんではありません」


 男の口からは血液が止まらなかった。胸に刺さる鉤爪と、腹を貫いた弾丸が、彼の足元へと落ちる。


「……そうだね。彼女は、もう、いないんだ」


 ふらりと脚を揺らしながら、男は彼女たちに背を向ける。彼女の弾丸が、男の後頭部を掠めた。もう、氷の壁は現れない。


「……リンドウ」


 女は呟き、崩れ落ちる。蔦も消えていた。さっきの幻はなんだ。しかし床に落ちた花弁は、白だけではない。身体の悲鳴も残っている。肩のチップは、そこにあった。


「拒絶、か……」


 頭から血を流しながら、男は笑い、進む。心臓の穴、腹の風穴、頭の傷をそのままに、動けるはずもないのに、この化け物は、ふらりふらりと揺れ動く。そうして祭壇へたどり着けば、両手を女神の壁画に押し付けた。


「知っていたよ、ずうっと」


 彼の背後に眠る花嫁。それに添えられた眠る花々が床に落ちていった。白いドレスを脱ぎ捨てた黒服の小さな青年。瞼は固く閉じられたまま、月明かりを浴びて静かに眠る。男は彼を振り返り、胸に手を当て祈りを捧げた。そして自身を追い詰めた敵を見据える。その瞳は、未だに尖っていた。諦めたというのに。


「最初に言ったね。フィナーレは──」


 突如襲う地鳴り。カタカタと震える瓦礫。激しく突き上げられる身体。嫌な予感が寒気と同時にこみ上げる。


「派手にしよう」


 パキリ。


「逃げろッ!!」


 男二人が叫んだ。大きな両手が彼女を包み、力ない身体を持ち上げた。外へ。外へ。外へ。押し寄せる冷気に背を向けて、彼らは一目散に扉を蹴り開けた。パキリ、パチリとガラスが弾ける。砂埃は雲のよう。彼らはお庭の裏へ。漆黒の世界。ただひとつ照らす、月が綺麗だ。


「……あなたは本当に、厄介な人ね」


 ただひとり、リンドウの行動を見届けた彼女は力無くそう零す。振り向いた男たちは驚愕に言葉を失った。




「それで、彼はどうなったんだい」


 暖かな暖炉の光が黒を照らす。パチリ、パチリ。ボスは木々を投げ入れて、息を吐き出した。彼らの顔を見ればわかる。彼とて同じ。いつも望んだ結果が得られるとは限らない。答案の答え合わせも、ひとつが正解とはいえないのだ。

 あの男は透き通る氷の世界に逃げ込んだ。全てを包み込む巨大な氷壁は、まるで水晶のようにして大きな教会を形作る。唯一と、祭壇の周りは凍っていなかった。小さな頼もしいリーダーだけは。彼は本当に、リーダーを愛していたのかもしれない。大切に思っていたのかもしれない。閉ざされた氷の奥に消えてしまった男には、聞く術などないのだが。月明かりを受ける、水晶の教会は、花の街に似つかわしくないほどに質素で、しかしその存在は美しく、彼の遺した派手な様相だった。

 さて、ボスを失った精鋭たちは、その事実に驚嘆し、なす術なく慌てふためく。彼らをまとめるには、新たな椅子が必要だ。


「俺が行きますよ」


 巻莨を揉み消して、男は腰を上げる。


「オークの連中に取りなって、なるように、なるように」


 そうして女に目をくれた。白服を捨てた、黒い衣装の女に。


「だから、ボスのことは頼むぜ」

「あなたよりも動いてみせますよ」

「可愛くねえ女」


 笑う女と、残った煙を吐き出す男。拳を打ち付けあってから、男は視線を落とした。


「お前はこいつの先輩だからな、いろいろ教えてやれよ」


 小さな小さな幼い少年。ボスの手にしがみつき、何度も強く頷いた。


「頼りにしてますね、カクタス」


 深緑の髪の合間で、母親と同じ涙ボクロが際立つ。瞳を瞬き、女を真似て笑みを浮かべた。


「がんあり、す」

「喋った!喋ったわ!」


 飛び上がり、叫ぶ姉。まるで我が子を慈しむように少年に擦り寄れば、何度も頬を擦り寄せた。自分の名前を呼ばせようと、子育ての楽しみは尽きないらしい。何故なら彼は、両親の愛を知らないのだから。それなら自分たちも負けていない。思って愛する姉に視線を投げれば、呼ばれていたらしい、強く腕を引かれた。


「マフィアのファミリーには、見えないわね」

「ファミリーは家族。兄弟の成長は喜ばしいもんだぜ」

「親殺しが、家族を語りますか」

「このやろ……って、なんで……知ってんだ」


 だって前に夢で見たんですもの。笑う彼女に、男は深い息を吐き出す。どうしたものか、戯る女に嫌悪を抱かなくなるとは。


「そうだ、試したいことがあるんです」


 女は男の手を引いた。




 漆黒のコートを靡かせる。純白の花畑に浮かぶ黒は、白を映えさせる対の色。揺れる二つを背後に感じ、真新しいエプロンを身に付けた男は、ゆっくりと彼らを向く。

 ここは彼のための場所ではない。ようやく完成した、彼らの戦果。揺れる花は、人々の命。最愛だった彼女の遺した、彼らが受け継がねばならないこと。土まみれになった手で、エプロンを汚し、彼は驚きに瞳を瞬いた。


「え、え、な、なに」


 唐突な口付け。思わず久々に漏れ出た吃音に、後ろの男は噴き出していた。しかし相手の女は真剣な顔で、やはりと肩を摩る。


「夢を、もう見ないの」


 肩のチップはそこにある、らしい。女は首を傾げ眉を顰める。

 これまでの騒動の先導、即ち彼女の夢という根拠が、彼女を突き動かしていた。それがどういうわけか、リンドウを見送ってからは見ないのだという。


「え、えっと……それがどうしてこの、キ、キスになるの」

「体液を得ることで、相手の記憶を受け継いでいたようなの。だから今、見られないかと思って」

「体液……」

「きっとこのチップに、吸い寄せられていたのね」

「体液……かあ……」


 彼は項垂れていた。顔を赤らめ震えながら。堪えきれずに、見守る男はとうとう腹を抱えて笑い出した。


「だよなあ!俺も期待したっての。この女は本当に可愛くねえ!」

「ええ!?ビティスにもしたの!?うっ、僕のファーストキスがぁ……」

「ファ、ファーストキス……ッ!!傑作だなあ、おいッ」


 彼の背を叩き、男の口からは唾が舞う。白い花は、それを避けるようにして揺れていた。希望の花。氷を愛する無垢の花。訝しんでいた女だが、彼らのやり取りに合点がいくと、浅く息を吐き出した。


「それは、ごめんなさい。責任を取るわ」

「急に男らしいこと言わないでよ……」

「それなら俺のほうが先だな!」

「きみも初めてだったんじゃないかあッ!!」


 静かな花畑に、彼らは騒がしかった。まさかこんなにも馬鹿馬鹿しいやり取りが叶うとは。呆れるよりも、どこか清々しい。爽やかな風が心地よかった。

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スノウドロップ -合成獣の夢- 高城 真言 @kR_at

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