第5話 正義の夢
白い居城。公安の摩天楼に隠れるようにして、その王座はひっそりと佇んでいる。「王に会いたくば公安を通せ」とばかりに、人民が王室と関わることは全くと言っていいほどに無い。王政に誰も不満は抱いていない。何故なら問題ごとは公安が取りなっているし、税圧もなければ職にも恵まれているから。公安という職を選ばなければ、人々は比較的、平和な日常を送ることが叶うのだ。
「ガーベラ、エリカは?」
彼女の隣にいない親友を思い、彼は気まずそうにして吐き出した。彼にとってのアスフォデルがそうであったように、おそらく彼女にとっての拠り所は、親友なのだ。
「……実はね、もうひとつ夢を見たの」
唇に触れる。瞳を細める。悲しげに、思い出すように。
「エリカが、死ぬ夢」
「それって、前にずっと見ていたっていう」
キメラという親殺しの成れの果て。それに関わるようになったきっかけは、親友の死だった。半年間、その悪夢にうなされていた。きっと真実を掴めないまま、ぼんやりとした日を過ごしたから。そう、思っていた。
「違うの」
唇を噛み、目の前に連なる階段を眺めた。深い藍から、段を上がるごとに薄くなる色。頂上は白だ。城壁と同じ色。時折風に煽られながら、その高い階段に足を置く。一歩ずつ、真実は拓けていくような、視界が澄んでいくような感覚。この先で得る真実に、心は揺さぶられていた。
「公安学校時代に、あの子は死んでいた」
今日は風が強い。
その日は風が強く荒れた日だった。
幾日も前から計画されていた野外演習。学舎から数キロ離れたそこは、草と土に覆われた開けた野原。クーデターを想定した、模擬戦はそこで行われた。
木で出来た、動く的。あれが敵で、中央に何度か着弾すれば倒れる。同じチームの学生と共に、ターゲットを狙う武器は実弾だ。時折的からはペイント弾が投げ撃たれ、その印をつけられたものは再起不能として離脱する。簡単なルールだ。彼女のチームのリーダーは、エリカだった。彼女の号令で一斉射撃。止まれと言われれば姿勢を低く。普段と違って凛とした少女は、リーダーとして親友として、頼もしい限りだった。そうして演習も佳境を迎え、ターゲットからのペイント弾も激しくなる頃、野犬は紛れ込んだ。
彼女は止まれと言わなかった。一目散に飛び込んだから。敵からのペイント弾を避けながら、チームメイトは実弾を浴びせ続けた。血塗れの彼女が発見されたのは、ターゲットを全滅させた後だった。
そのとき、彼女は死んだのだ。遺言を親友に託して。そうして搬送された病院で、彼女は生命を吹き返した。ある、男の手によって。
「その男は、誰だったの」
エリカの胸に、種を突き刺した。氷のナイフで捩じ切って、埋め込んだ。衝撃に彼女が血を吐き出したとき、心臓は再び動き始めたのだ。
「あなたも、会ったことがある」
目覚めた彼女の視界に移るのは、国王。子どものようにはしゃいで、彼女の再生に興奮していた。そして隣の男の手を取る。ナイフを握った、片目の男。
「この種があれば、陛下も不死になれますよ」
「よし、すぐさま研究を始めよう!貴様が主導だ、リンドウ」
笑う男の片目は、透明な水晶のようだった。
王城の門は、彼らが近付くやいなや、自動でその大きな口を開けた。まるでここに来ることをわかっていたかのように。白い扉の向こう。艶やかな紫と金の装飾が目に痛い。表と内側のそのギャップに、怪訝な表情を隠せずにいた。と、静寂に足音がこだまする。
「あら、公安の方がいらっしゃるなんて久しいわね」
ゆったりとした淑女だ。質素な装いだが、彼らは知っている。彼女は、王妃だ。その手は、傍らの幼い少女と結ばれている。
「ヒパチカ様。突然の来訪をお許しください」
「うふふ。驚いたけれど、大丈夫よ。今日はどのようなご用件かしら」
あまりに穏やかだ。ヤナギの知る国王とは雰囲気がそぐわない。しかしどうして、幼い少女と同伴してるといえど、王妃が単独で城内を徘徊しているのか。
「国王陛下に謁見をしたく参じました」
「陛下に?まあ、火急の用件のご様子ね。暇があるかは存じないけれど、ご案内するわね」
「そんな……殿下自らだなんて」
「いいのよ。あたくし、召使いみたいなものですもの」
ああ、と思わず漏れそうになる声を堪え、彼女は頭をへりくだった。絢爛な空間に、地味な王妃。ヤナギが話した、国王の風合いが伝わる。なるほど国王は、そういう男なのだ。
「あの……殿下、そちらのご令嬢は」
ヤナギが問う。彼女も気になっていた。国王の息子、次期王の存在は周知のことだ。しかし、それ以外はベールに包まれている。この少女は10にも満たないだろう。そんな幼子もいるのか。
「可愛らしいでしょう。あたくしの、娘。といっても、義理のね」
「ということは……王子殿下の」
「そうよ。随分と年の差があるでしょう」
王妃は笑う。次期王は成人を迎えたばかりと聞く。ああこの少女も、苦労が絶えないだろう──
「あたし、おうじさまよりもおうさまがすきよ」
「あらあら」
そうでもないらしい。少女を抱き上げ、王妃は困ったように笑う。怖いもの知らずの少女は、そんな王妃に構うことなく、生意気な口を閉ざさない。
「だってね、おうじさまはおとーとがすきなのよ。あたし、あのおとーときらい。ナマイキなんだもの」
「……弟様がいらっしゃるのですか」
「ええ。聡明な子よ。つい半年前、久しぶりに陛下へお会いになっていたわ。随分と大きくなられて」
そこまで言って、辿り着いたこれまた豪勢な扉を見上げる。どこの部屋よりも大きい、入口だけでそう感じた。ここに王がいる。彼の言う、国民を顧みない国王が。
「あー!ナマイキなおとーと!」
少女が吠える。王妃の腕を抜け出して、一目散に駆け出した。その先に佇む人物に、ガーベラは目を見開く。
「あなたたちも、辿り着いたのですね」
黒い衣装に身を包んだ男たち。なんとも勢揃いだ。玉座に腰掛けた男を取り囲むようにして、しかし、それぞれの武器は構えていない。
「その口振り、なんだ?ヤナギ、とうとう口を割ったのか」
「今きみの軽口に付き合ってる暇はないから」
「言うじゃねえか」
不思議な感覚だった。心のどこかで、頼もしいと思ってしまっている自分がいる。こちらを向いた男の視線に、ガーベラは目を細める。
「……あんたも、雰囲気いい感じだな」
「お褒めに預かり、どうも」
「エリカはどうした」
「その話をしに来ました」
国王は腰を掛けたまま、笑みを浮かべている。余裕とも、嫌味とも取れる、卑しい笑みだ。少女は国王の膝によじ登る。まるで周りを気にせずに、隣に佇む許嫁たる王子すらも無視をして。
「待っていたよ。ご丁寧に全員出動とはね。で、私に何か用かね」
「アスフォデルが死んだよ」
国王を一瞥。男は表情を変えない。言ってから、ヤナギは黒服に紛れる眼帯を睨みつけた。
「まさかきみが首謀者とは思わなかった。何食わぬ顔してるけど、どういうつもり」
「首謀者……?何言ってんだ、アンタ」
勇敢なリーダーはいつも矢面に。不可解な面持ちを浮かべるのは彼だけではない。自分たちのボスが何者かに殺され、今度は仲間が疑われる。彼らの気持ちを考えるといたたまれない。しかしそれを押し退け、眼帯は不敵の笑みを浮かべた。
「首謀者って言い方は嫌だなあ。私は道を示しているだけだからね」
「リンドウ……お前まで、何言ってんだよ……?」
「アカネくんには、もう少し早く言うつもりだったのだけれど」
黒い上着を脱ぎ捨て、男は玉座へと歩む。少女は不思議そうにして彼を眺めていた。大好きな国王の膝の上、微笑む男にうっとりと頬を染める。隣の男は俯く。きっと次期王たる彼は、何かを知っているのだろう。縋るように、こちらを見つめていた。
「私たちの計画は、引いては国のためになることだよ?そうだな、表題を設けるとすらば、『不滅の防衛システム』……なんてところかな」
「それはわかりやすくて良いな」
笑う国王。膝に跨る少女も、一緒になって甲高い笑い声を上げた。その無邪気さが、今は煩わしい。
「不滅って……アスフォデルがいなきゃ、計画は破綻しているじゃないか!」
一歩、二歩。男たちに詰め寄り、彼は唾を吐き出す。当事者たる彼らの言葉を皆が待っていた。
「何を言っているのかな。実験は完璧に遂行できる。きみたちは良いマリオネットだったよ」
マリオネット。どこかで聞いたフレーズだ。思考を巡らせ、ガーベラはヤナギの腕を掴んで隣に進み出る。
「司祭の時から……その実験とやらは仕組まれていたのですね」
低い笑い声。隣の少女がビクリと肩を跳ねさせた。つられて笑う国王は、卑しく顔を歪ませていた。
「我が国民は察しが悪いのだな。貴様らは選ばれたのだ、光栄に思え」
「選ばれた?どういう意味だ、そりゃあ」
「そうでもなければ、愚息に勅諚など渡すはずがなかろう」
全ては彼らの手のひらの上。ビティスの顔が強ばるのを見て、ようやく見当が落ち着いた。彼らは計画していたのだ、随分と前から。少なくとも、半年以上も前から。その実験とやらを。
「不滅の防衛システムとはなんなのです。それがキメラと、なんの関係があるのです」
少女は膝を降ろされた。すぐさま王子が手を引くが、それを跳ね除け王妃のもとへと駆ける。項垂れて、次期王も母の元へ歩んだ。国王はそれを気にもとめない。
「キメラとは親殺したち化物どもの融合体。生けども死せり。貴様らの種は、我らが生き長らえるための極上の秘薬なのだ」
ばら撒かれた種。ヤナギが言っていた、いつも国王が口にしていたというものだろう。貴様らの種、という言葉が引っかかる。思わず肩を摩った。今、彼女に埋め込まれたチップはここにある。また、移動したのだ。
「陛下は口が軽いなあ。まあそれも、この実験が成功すれば、だけれどね」
床に散らばる種を眺め、眼帯の男は懐から木の板を取り出す。細かい文字が刻まれているようだ。
「それ……どうして……!」
「酷いなあ、ヤナギくん。成果が上がっていたならすぐに教えてくれなきゃ」
「僕は、アスフォデルのためにやっていたんだ!」
「機械狂もここまでくると滑稽だね」
文字盤を摩り、男は舌舐めずりをする。激昴するヤナギの姿に、あれはその要なのだろうと勘繰る。細かい数値、ここからでは表題すら伺えない。しかし男は笑った。
「うん。上出来だ。さて、始めようかな」
眼帯に覆われた瞳を擦る。あの下は確か、水晶の義眼。そうしてから指を舐めれば、中指を弾いた。
「おいで、ご飯だよ」
軋む扉。背後から現れた少女の姿を見て、ガーベラは泣き声を上げたくなった。わかっていたはずだというのに、どこかで認めたくなかった。彼女が見たものはすべて、正夢なのだということを。
「リンドウ……ガーベラが……わたしのガーベラがいないの……ガーベラが……わたしの、ガーベラがぁ……」
「エリ……カ」
少女は朽ち果てようとしていた。今朝会ったときは、冬季のようだった肌も、崩れ落ちてしまいそうな、装甲が剥がれてしまいそうに脆い。力無く歩む彼女に、駆け寄ってやりたかった。しかし、彼女の瞳は虚ろで、男の声を追うことしかできていない。
「ハイデ。君の大好きな大好きな大好きなガーベラはそこにいるよ。ほら、もう少し左だ。左はわかるかな?君の、種が埋まるほうだ」
種が埋まるほう、心臓。見れば、ヤナギは自身のそこを押さえていた。ビティスも、ハギまでも。彼女も。もしかして、種とは──
「ガーベラァァアッ!!」
絶叫。ぐるりとこちらを向いた少女は、そのまま彼女へのしかかった。滴る涎は、まるで獣だ。
「やめて、エリカ……ッ」
彼女の声は届かない。変わり果てた親友。二度の死を体験した親友。白い肌は鱗のように波打っていて、ぐるりと目を剥いた彼女の瞳は、泣いているようにも見えた。だから、ガーベラは彼女を剥がせなかった。彼女を思うと、抱き締めてさえやりたかった。
「ガーベラを、離せッ!」
「何してやがんだ、お前!今更情に絆されてんじゃねぇぞッ!こいつも、親殺しなんだろうがッ!」
男が二人、親友を羽交い締めにする。暴れる少女の、長い舌を吐き出す少女の、朽ちた姿に、涙が溢れた。楽に、してあげなくては。
「ふむ……なるほど、君のチップは右肩だね。ハイデ、ほら、そこだよ」
チップ、キメラの、接続部。彼女に埋め込まれた、実験の成果。ヤナギの顔色が変わる。これを、奪われてはいけないのか。
半年前の戦い。キメラはこれを奪われてから動きを弱めた。これが奴らの動力源。このチップにはきっと、誰かの心臓が捩じ込まれている。その心臓が、狂気のキメラへと変貌するのだ。そうであれば、親友がこれを手にしてしまったら──
少女は牙を剥く。ヤナギの指を噛み、ビティスの腕を裂き、彼女の肩へ。男は、高く笑った。銃声を聞きながら。
「ごめんなさい……エリカ……大好きだった」
返り血は雨のように。もうこれが、誰の血なのかはわからない。親友と、それを抑え込む彼らの傷から滴る赤。少女の爪が、肩を掠めた。自分から流れた赤を見て、少女と同じ赤を見て、ようやく彼女を抱き締めた。化物と成り果てても、彼女は人間だったのだ。愛らしい彼女は、固く瞼を閉じて、眠りについた。
「親友でも容赦なく撃ち殺す、か。君を被験者に選んで正解だったな」
「リンドウ……お前!」
吠えたのはアカネだ。惨劇に目を逸らしながら、男に詰め寄り、必死に足を伸ばす。その手の板を叩き落とし、その胸倉を掴みあげた。
「ハイデは……オレらのファミリーだろうがッ!わかるように説明しろよッ!」
「……アカネくんはすぐに先走るからなあ。でも、そういうところが、私は好きだよ」
「そういうこと言ってるんじゃねえッ!ハイデは、オレが拾ってきたんだ!お前のいないところで!お前のことだって、オレがボスに掛け合って──」
「そう。だから操りやすかった」
踵が、地に着いた。ゆっくりと腕を引き、男の顔を凝視する。彼らの後ろで、リオニーは泣き声を上げて崩れ落ちていた。
「おい、リンドウ。どういうことだ?エリカが死んだぞ」
「ああ、また種を埋めれば平気ですよ」
「はあ?不死と言ったではないか!」
「何度も蘇る、という意味での不死です」
国王は憤慨に席を立つ。その顔は赤く膨らんでいた。
「兵力としては申し分ないが、私自身には使えぬではないか!」
「陛下も死ねば、そうしてあげますよ」
「貴様ァ……国王を愚弄するか!」
思わぬ仲間割れ。思わぬ隙だ。黒と白の男二人は彼を囲む。後頭部に拳銃を、首筋に鉤爪を突き付けて。
「王サマも弄ばれてたとわかったところで、そろそろお開きにしようや」
「アスフォデルも、エリカも。人の命を弄んだことを、僕は許さない」
おお、怖い。そう言って、男は飄々と両手を掲げた。エリカを腕に抱いたまま、ガーベラは彼を睨みつける。国家防衛など、綺麗事も甚だしい。彼は、遊んでいるのだ。
「なにも私は、兵器研究だけしていたわけではないよ。命だって弄んでやいない。その証拠に、彼女とは子どもを設けたんだ」
「彼女って」
「ハイデだよ」
少女を抱き締める腕に力が篭った。彼女は身篭っていた。いつ。知らない。ずっと一緒にいたというのに。
「もう三つになる。可愛くていじらしくてね」
三年前、まだ公安学校にいた頃だ。彼女が演習で命を落とした、直後。
「蘇生された人間でも、子どもは出来る。素晴らしい成果じゃないかな」
「テメェ……それを弄んでるって言うんだよッ!」
鉤爪が喉に食い込む。それを深く貫こうとしたとき、また扉に気配を感じた。舌打ちをしてから彼は驚いていた。そこにいたのは、若い女。
「ダツラ様……!」
彼がそう呼ぶのだ、きっと彼ら組織の重鎮なのだろう。それよりも、彼女は、その女が手を引く少年に目を引かれていた。親友と同じ瞳の色を持つ、つい先程男が言った年相応の、幼子。このタイミングで、これもこの男が。
「ごめんなさい、ハギ。この子がどうしても王城に行くと聞かなくて」
「姉さん、なかなか良いタイミングだよ」
蚊帳の外にいた王妃も驚いていた。全てが全て、繋がっている。こうも続くと、気味が悪かった。
「というわけで、さあ、カクタス。お母さんの仇を討とうね」
少年は頷いた。言葉を話せないのか、真っ直ぐにガーベラを見つめ、制する女の手を振り払って。
「ああでも、一度死ななきゃいけないんだった」
いつの間に拘束を払っていたのか。少年の目の前には父親。その手には氷のナイフが握られている。何度も人の命を摘み、再生したであろう、あのナイフだ。声にならない悲鳴が喉を掠めた。この男は、我が子までも手にかけるのか、実験と称して──!
「ハギ様ッ!」
ナイフは床に転がった。同時に赤が点々と連なる。少年を抱き締め、幼いボスは小さな拳銃を男に突き付けていた。細く煙が上がっている。驚いた幼子は気を失ったようで、彼はその子を抱き上げると男に笑いかけた。その瞳は、笑っていない。
「君は、欲しがりすぎたね。貪欲は己を蝕むよ」
「ナマイキ……」
少女の声。この惨劇に顔色を変えない少女は、気味が悪かった。しかし、とうとう男の顔色は変わる。飄々とした仕草も、張り付いた笑みも消え、ゆっくりと黒と白の男たちを振り向いた。
「はあ……『不滅の家族』も望んではいけないのかあ」
「ジ・エンドだな。ここで終わらせてやるよ」
鉤爪が男を狙う。これで終わる、そう思えた。しかし
「待て!こんなんでも、リンドウは、オレの右腕なんだッ!」
アカネは諦めていなかった。寸手のところで鉤爪は止まる。男の目の前に立ちはだかった勇敢なリーダーは、それに安堵し、愛すべき右腕へと向き直った。
「なあ、リンドウ」
「アカネくん……これ以上惚れさせないでよ」
「へっ!それがオレだからな!」
照れ臭そうに、笑うリーダー。揺れるポニーテールは、どこか嬉しそうだった。
「知ってるよ。だから、大好きなんだ」
「リンド──」
ナイフはすぐに生成される。氷の刃は、赤い礫を張り付かせ、愛しの種を抉り取った。
「リン、ドウ……」
「あ、ああ……な、なん……」
揺れるエキノプス。男には笑みが戻っていた。赤く染まる腕で小さな彼を抱き上げ、凍り付く観客に微笑んで、その腕を見せつける。
「最後の花を決めたよ。これがあれば、他は……いいや」
「待て、待てよッ!」
「うるさいなあ」
吼えるビティスの足が凍る。アスフォデルを凍らせた、あの現象と同じ。残された唯一のエキノプス、リオニーは白い顔で震えていた。
「陛下はもう私に用はないね?」
「あるものか」
「うん、わかった。私は元の根城に戻るとするよ」
仏頂面の国王に笑い、男はヒラヒラと手を振るう。抱き上げたアカネの赤い斑点は、紫の絨毯を黒く滲ませる。止めなければ、しかし、今動けばビティスのように──
「なんで……アカネまで……ボス、僕……僕は……リンドウ、どうして……」
「リオン……」
少年の震え声に、遅れて来た女は胸を抱く。忘れられた存在。きっとリンドウの視界には映っていない。誰も動けぬまま、男は大きな扉に手を掛ける。
「フィナーレは派手に行こう。待ってるよ、君たち」
低く響く、軋む音。閉じられた扉を見つめ、誰もがすぐには挙動を取れなかった。ただ、一人を除いては。
「……そうか……リンドウは……国王に、命令されてたんだ……じゃあ、ボスも……アカネも…………お前の……、お前のせいでェエエエエエッ!!」
唐突な慟哭。目の前に落ちていたリンドウのナイフを掴みあげ、少年は国王へ駆ける。驚いた王は慌てて逃げ惑うが、絢爛華美な長衣が足を引く。
「リオン!あなた、何を!」
糸が切れたように跳ねる王妃。国王に腕を引かれ、戸惑いながら彼の前に躍り出た。瞬間、また、絨毯は黒く染まる。悪夢は終わらない。止まらない。傍らの王子は、嗚咽と共に吐瀉した。
「リオン……君まで、親殺しになるなんて……」
幼子を抱いたまま、少年は兄を見る。崩れる王妃と、笑う国王。この国は、腐っている。
国王の浅ましい笑い声。崩れ落ちる妻を見て、眉を釣り上げていた。今しがた母を殺めた少年は、嗚咽を上げながら、床に散らばる血液塗れの種を貪っていた。親殺しはこうなってしまうのか。まるで知性を感じさせない、獣に成り果てたうら若き少年。白い肌を伝う涙だけが、人間じみている。それが、やけに奇妙だった。
「リオン……」
そんな少年の姉は顔を覆い、地面に伏した。これもリンドウは図っていたのだろうか。敢えて彼をここに残したことによって、この惨劇を続けようとしたのだろうか。腕の中の親友を床に寝かせ、彼女は拳銃を握り締めた。脚を凍り付かせた男は、鉤爪で必死に削っている。今ここで動けるのは彼女と、相棒の彼だけだ。
「ヤナギ」
「うん、公安の名にかけて」
逞しい背中を見せてくれる彼に、場違いにも笑みが零れる。各々の拳銃を引けば、少年は呻き声を上げた。細く息を吐き出し、涎を滴らせ、起き上がった姿は四つん這い。鋭い牙が、唇を割いていた。
「リオニー、リオン、獅子、か」
「この手は半年前に経験済みね」
あのときのように長い舌に巻かれることはない。目の前の男が、足でまといを装うこともない。弾の装填を確認し、同時に引き金を起こした。四足で少年は跳ねる。滴る唾液をそのままに、絨毯を抉れば、その牙をこちらに──ではなかった。
「リオン……ッ」
無防備な姉のもとへ。首筋に、深く突き刺さる。
「姉さんッ!!」
「ダツラ様ァッ!!」
悲痛な叫びがこだまし、獣は鳴いた。
「リオン……大丈夫、大丈夫よ……怖くない、ひとりじゃないわ」
女はそのまま彼を抱き締めていた。突き刺さる牙はどくどくと脈打ち、彼女のそれを吸い上げる。規則正しく背中を叩き、撫で、少年を落ち着かせようと唄う。
「姉……さ……」
少年の瞳から溢れる涙は止まらない。牙を引けば、そこから滴る赤を必死に拭い、何度も彼女に瞬いた。姉は笑う。自らのボスに笑いかけるときと同じように。最愛の弟を思うように。
「寂しい思いをさせていたわね。だからそっちに行ったのでしょう」
「だっ……て……姉さんが、ぼく、僕を見捨て……てぇ」
「見捨ててなんかないわ」
「僕は、姉さん、好き……なのに」
「ごめんなさい。私は、ハギが好きだから」
「そんな、の……知ってる……だか、ら……嫌いなんだぁ……」
「そうね」
女に跨ったまま、少年は彼女の鎖骨に額を押し付ける。ハギは静かに見つめていた。手の中の小さな拳銃を握り締めながら。しかし、女は彼に首を振った。
「疲れたでしょう、リオン」
「うん……」
「いろんなことがあったものね」
「うん……」
「おやすみ、できる?」
「うん、おやすみ、して」
銃声。同時に、ガラスの割れる音。ようやく氷を砕けた男は、女の元へと駆け寄った。
「ダツラ様……お怪我は」
「見てわかるでしょう?もう、ボロボロよ。すっごく痛い」
「……リオニーは」
「眠ったわ」
ハギを見れば、瞳を伏せていた。身内の始末。彼らの鉄則なのだろう。上げたままだった拳銃を下ろし、公安の二人は目を見合わせる。ハギとその姉に頭を下げれば、先刻男が立ち去った扉を目指す。血も涙もない、男のもとへ。
「ビティス、動けるね?」
「ええ、そりゃあもちろん」
幼子を床に寝かせ、少年は姉へと歩む。冷たく果てた兄の頬に触れ、黙祷を捧げてから。
「お二人とリンドウを追ってくれないかな。ここは、私に任せて」
「いやしかし……」
「私は、陛下にお話があるんだ」
上司の笑顔は恐ろしい。顔を顰めた国王に笑い、優しい声音で呟いた。
「この街に、いられなくしてあげるよ」
王妃の亡き骸はそのままだった。
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