第4話 王者の夢

 彼女の母は、優秀な公安委員だった。彼女と同じ白い制服に身を包み、日夜市民のためにと奔走していた。

 彼女の父は、大衆食堂を切り盛りする料理人だった。彼女はそこから学校に行く通っていた。毎週三の日が定休日。父と母が揃うことは、殆どなかった。

 たまに二人が揃う夜、家族三人で食卓を囲う夜。彼女はその日が嫌いだった。厳粛な母と、頑固な父。三人の間に会話はない。黙々と食事を済ませ、床に就く。それだけの事務的な日が、幼い彼女にとって苦痛だった。


「お前はあいつに似ているから、きっと公安が向いている」

「あなたはわたしに似ているから、公安を目指しなさい」


 そうして別の日に言われた台詞が偶然にも一致した。それが根拠となり、彼女は今の立場にある。

 父母の勧めで入学した公安学校。なんとなく将来が決まったことに安堵したその日、母は急逝した。

 父に呼ばれて大きな病院に駆け付けたとき、母の手は酷くかぶれていて、可哀想だと父は柔らかな手袋を嵌めさせた。母の唇は異様に赤かった。洒落っ気のない母がグロスを塗っている。これを死化粧と言うのだろうか。父は泣いていなかった。彼女も泣かなかった。そうして彼女は公安の寮に入った。その日から、父には会っていない。

 そんな昔話を思い出したのも、この夢のせいだ。


「手が痒い」


 言って、夢の中で彼女は手の甲を掻く。辺り一面の白い花。この痒みは、彼らの花粉だろうか。真っ白な絨毯の上で彼女は座り込んでいて、手は真っ赤に爛れていた。


「これを使いなさい」


 白いベロアが手渡される。真っ赤な唇と、動かない顔。まるで彫刻のようにそこに佇む女は、彼女を見ているのかもわからない。遠く、寂しい瞳をしていた。夢の中で、話し掛けられるなど思ってもみなかった。


「ここで亡くなった人は多い。きみもそうなのか」


 淡々と続ける女と視線が合う。その瞳に反射した姿を見て、思わず後ずさった。


(ああ、これは──)


 爛れた手を見て、自然と笑みが零れる。なるほどそうか、彼女は最後に、この女と会ったのか。そうして右脚のホルダーに手を掛けた。


「やめておきなさい。わたしはもう、そういうことはしないの」


 女は酷く疲れた声をしていた。どこからか、銃声が鳴り響く。彼女のものではない。白い花は、紅に染まった。


「痒い……痒い……痒い……」


 唇が止まらない。目の前に倒れた女に跨って、そのベロアを噛みちぎった。




「──ガーベラ!」


 視界を覆う黒。それを払い除ければ、泣きそうな少女の顔が寸前に迫っていた。窓の外は黒。まだ、日は昇っていない。


「……エリカ」

「ガーベラ!よかった……すごく、うなされてたよ」

「そう……」


 頭の整理が追いつかなかった。夢の中で、彼女は母の姿をしていた。間違いがない。懐かしい、赤い髪の凛とした女性。母はあのあとどうなった。そうか、あのあと病院に運ばれたのだ。何故。


「ガーベラ?」


 それよりも、相手の女だ。あれこそ間違いようがない。つい昨日出会った、笑顔を張り付かせる女。どことなく雰囲気は違ったが、あのベロアは同じだった。彼女は紅蓮に染まっていた。あの女も、そうだったのだ。


「ねえ、ガーベラ。だいじょうぶ?」


 夢の中の女は、失意に押し潰されているように見えた。一体何の。彼女が言った「そういうこと」とは何なのか。母は公安委員。その前に現れるとしたら、同僚か、もしくは。白いベロア、花畑。ほとばしる鮮血。徐々に頭が冴え、眼前の少女を押し退けた。


「エリカ」


 あの女も、あの司祭も、あの化け物も。死は、始まりなのか。


「あなたは、親殺しじゃあ、ないわよね」


 驚いた彼女に、唇を塞がれた。




 白い壁は延々と続く。この先へ、彼女は足を踏み入れたことがない。必要がないからだ。手前のホワイトポストで、彼女の任務は終了する。そのボックスこそが上司であり、その内側には、彼女を採用した上層部がいるとされている。誰も彼らを見たことなどはない。一人なのか複数人なのか、それすらもわからない。誰も気にもとめない。各部署それぞれの箱からは的確に支持が下され、数字的な掲示もきちんとそこに浮かび上がる。だから、彼女も気にしていなかった。気にしないように、されていた。無人の空間で、どくりと心臓が脈打った。


「ガ、ガーベラ……?」


 響く足音、動揺する声。それに振り向き、彼女は笑みを浮かべる。


「待っていたわ、ヤナギ」


 驚く彼は、背後を振り向いていた。取って食いやしないのに。たった一日が、やけに長く感じる。それほど、彼の吃音が懐かしかった。


「あなたがよくここに来ているの、知っていたから」

「そ、そうだっけ……え、えっと、ど、どうしたの?エ、エリカは……」

「夢を見たの」


 言葉を遮り、彼に歩む。昨夜の夢の話。明け方に目覚めた彼女の話。彼の瞳は、揺れた気がした。彼は、信じてくれる。そんな根拠の無い自信が、この口を動かしている。親友には話そうと思わなかった。親友だから、親友なのに。唇が震える。あの子は、あんな子じゃあなかった。


「そ、その人は、エキノプスのボス……なんだよね」

「そう」


 短く答えれば、彼の困惑は目に見えた。それでも彼女は続ける。吐き出さなければ。この不可解を消化しなくては。この奇妙な案件の、根底を見つけ出さなくては。焦燥感、違う。


「……きみは、それを、真実だと思うんだよ、ね」

「司祭のこと、キメラのことがあるから」

「それが、根拠」

「そう」


 男は考える。頼りない眉を下げて。その表情に胸が高鳴った。彼は何を言い出してくれるだろう。何を見つけてくれるだろう。曖昧な根拠を軸に、彼女は静かに期待する。


「だとしたら、なんで彼女は……にわかには、信じられない。……あ、ちょ、直接、聞いてみるしか、な、ないね」


 そう、その言葉を待っていた。したり顔に笑う女に、彼は空笑いを零す。

 キメラの実験はなんのために行われたのか。キメラは親殺しの成れの果て。


「彼女ならば、知っているかもしれない」


 母が死んだのは、もう八年も前なのだから。




 白い花が咲き誇る部屋。つい先程水を得たらしい花々は、潤った花弁をしなだれていた。小屋に揺れる花と同じだ、と彼は部屋を眺める。それらに囲まれて、彼女は公安の来訪に驚いていた。無理もない。彼がここを訪れるのは初めてのことで、あの白い空間以外で顔を合わすのは、もう随分となる。彼は硬い表情を崩せなかった。彼女の前では何も着飾る必要はない。そうであっても、隣で彼女を睨む女には、気弱な男であらねばならない。彼に釣られるようにして、彼女の視線が動いた。そうして女の姿を見れば、張り付いた笑みが一層深まる。


「随分と早く、お返事を聞かせてもらえるようね」

「今日はそれではありません」

「……では、何かしら」


 彼女はそのままの調子で花を揺らした。ギシリと、鋼の軋む音が響く。

 ここへ来る途中、彼女の部下と出会した。約束を取り付けぬままにアジトへ押し入る彼らを、聡明な部下が許しはしない。相棒が夢の話をすれば、諍いになるかと思いきや、彼の反応は素直だった。思い当たる節があるのか。ヤナギにはなかった。彼女は穏やかで、優しくて、まるで女神のような人で、彼の唯一の拠り所なのだから。


(ごめん、ごめんよ、アスフォデル。不信がれば、僕たちの計画は破綻してしまうから──)


 心の中で言い訳を。穏やかな女神はその笑顔のまま、戸の向こうに視線を投げた。


「きみもいらっしゃい。みんなで話しましょう」


 実直で、明晰な、幼い部下。何食わぬ顔で、戸を押し開けるが、その呼吸は不安定だった。


「ねえボス。こいつらが言うこと、嘘だよね」


 リオニーと名乗る少年は、初めて会ったが誰かに似ている気がした。声に焦燥感が滲んでいる。気怠そうな眼のまま、愛すべきボスへ詰め寄る。まるで母に縋る幼子のように。


「一体何を言われたのかしら」


 穏やかな笑みのまま、彼女は少年の頭を撫でると、公安を向いた。ガーベラの表情は崩れない。真一文字に結んだ唇は緩まない。


「え、えっと」


 代わりに言おうかと口ごもった。しかし何を言う。ガーベラは夢を見たんだ、と。そんな戯れ言を、彼女に話せるものか。


「夢を見たのです」

「夢?」


 頭を抱えた。実直な女は真摯に事実を述べていく。淡々と、探るように。そうして最後には、核心を決まり文句のようにして。


「あなたは、親殺しですね」


 彼女は溜息を吐き出した。やめて、アスフォデル、何も言わないで。


「……そうよ」

「え……」


 予想に反して、彼女は素直に返した。それが事実だとして、何故彼女は親殺しの実験を。聞きたいのに、詰め寄りたいのに、彼の立場が邪魔をする。


「この時世、親殺しなんて珍しくないものよ。きみの周りにも、いるかもしれない。わたしは父を殺した。母は、そうね、覚えていない」


 そう来たか、と女の顔が僅かに引きつった。しかし、相手も淡々と述べるのであれば、好都合だ。


「あなたが一度死んだというのも、親殺しの特性なのですか」

「……違うわ」


 展開が読めない。彼女も、彼女も。ハイテンポで繰り広げられるやり取りに、ヤナギは必死に思考を繋ぐ。きっと傍らの少年も同じだろう。女たちを交互に見比べて、時折顔を曇らせる。


「だってね、リオニー。あなたの弟は死んでないものね」

「!……うん」


 弟。その言葉にようやく気付く。紫の瞳、白い肌。ああ、彼も、そうなんだ。


「……ハギさん、ですか」

「お前たちが親殺しを憎むなら、仲良くしてるコモンリードの連中も憎むべき」


 女は答えなかった。彼も、ガーベラの隣で言葉を噤む。憎いか、その感情は抱いていなかった。少なくとも、彼は。


「……では、何故あなたは再生したのです」

「救ってくれる人がいた。それだけのことよ」


 その言葉に一番驚いた。彼女の恩人、そんな話聞いたことがなかった。彼女は、今日はよく喋る。


「その人物が、キメラの首謀者ですか」

「……なるほど、あなたが知りたいのはそれなのね」


 少年は首を傾げていた。キメラの件は、極小数に限られた情報だ。あの事件に関わったコモンリードと、彼ら二人と、あとはそれの首謀たる上層部しか知り得ない。


「私がそれに関わっているという根拠は?知っているという裏付けは?まさかそれも、夢で見たから、じゃあないでしょうね」

「おっしゃる通り」

「……きみは随分と自己都合な人なのね。夢で見たから、だなんて。私の意見は無視かしら」


 安い挑発だ。彼女がそれに返答したことで、関係性は明白なのだ。もっとも、ヤナギはその関係も知っている、つもりだった。彼女の笑顔の裏の困惑が、手に取るようにわかる。


「そう……そういうことなのね」


 反応のない二人に、彼女は諦めたようだった。細い息と共に、笑顔が消える。


「ヤナギ、話しておやりなさい。私たちの正義を」

「えっ……」


 思わぬ飛び火。慌てて隣の彼女を見るが、その瞳は穏やかだった。あの通路にいた時点で、彼女は知っていたとでも言うのか。巻莨に燻る男の顔が脳裏を過ぎる。


「私に押し付けるだなんて、きみらしくない」

「アスフォデル……きみも、きみらしくないよ」


 歪む顔。その顔が悲しかった。まるで舞台を降りた陰険な女優。役を捨て、素面に戻った女は、もう女神とは呼べない。


「……そう、きみは、嘘をつくのね」

「僕は!……僕は、アスフォデルが好きだよ」

「信じられない」

「僕もだ」


 彼にとっての唯一。彼にとっての居場所。足がぐらつくような感覚だった。口にしてしまえば余計に。隣の彼女に腕を支えられ、ようやくフラついていたことに気が付くほどには。


「あなたたちの知っていることを、話してください」


 彼女がそう告げた時、愛する人は氷に包まれて──砕けた。


「え……?」


 ガラスが割れるような、繊細な音と共に、彼女の姿は崩れ去る。冷たい氷の破片が、白い花々に降り注いだ。


「──アスフォデルーーーッ!!」


 白い花は赤に染まる。残された義足。彼女の肉体は、欠片になった。




「僕たちは、見捨てられたんだ」


 白い空間で、彼は呟く。何も無い白い部屋。

 ポストの通路のその先の、そのまた奥の螺旋の果て。無言で彼が突き進むものだから、彼女も何も言わずに背中を追った。しかし辿り着いたその部屋は、全くの無の空間で、押し入った瞬間の彼の言葉に、悲愴が肌を撫でた。


「ここで、彼女と会っていたのね」

「……うん」

「他にも誰か?」

「国王がいたよ。そこにあったソファに腰掛けて、いつも種を食べていた」


 指差す場所には何も無い。白く反射する床は、擦れた汚れだけが目立つ。確かにそこにあったのだ。彼は今、嘘をついていない。


「国王が首謀者なのかしら」

「どうだろう。あいつは、国民を顧みないけど、頭が悪いから」


 言葉に覇気がない。いや、いつもあったとは言えないが、それでも彼の作る吃音は、生気があった。


「他には?」

「いない。僕は会ったことがない。国王とアスフォデルは、会っていたと思う」

「それが首謀者」


 ヤナギはある一点に歩む。何も無い壁だが、そこを殴り、押し、そして項垂れた。


「……王城への扉も鎖されてる」

「ふふ、同じことを考えていたわね」

「え?」


 彼に歩み、その手を握る。豆だらけの手のひらは、彼が職人である証だ。真実に蓋をしていた、自身を偽っていた彼。しかし、その技量は嘘ではない。


「国王陛下のもとへ行きましょう。真実を知るために」


 彼女はもう、親友を縋る感情の女ではなかった。




 黒の部屋で、アカネは衝撃的なその言葉に声を出せずにいた。目の前で震える少年は、彼の愛すべき、守るべき仲間。泣きそうな声で、潰れそうな身体で、つい先程起こったという事実を口早に告げる。

 同盟組織の崩壊。ハギとビティスは視線を交わす。見えない敵がいるとでもいうのか。もうひとつの老舗組織オークの名が上がる。いや、違う。彼らではない。人一人を氷漬けにするなど、人間のできる所業ではない。


「親殺しだな……」


 やっと呟いたアカネの言葉に、一同は頷く。間違いがない。司祭の能力のそれと、原理は似ているだろう。自然界に存在するものを操る能力。まるでおとぎ話の魔法だが、現に存在しているのだ。


「ビティス」


 ハギの一言。彼は頷き、悲観する出向連中を割り入る。その後ろにはボスも続いた。驚く彼らに、少年は笑う。


「我々が勅諚を賜った地に、出向くとしようか」


 懐かしい場所だ。半年前、あの騒動のあとに、摩天楼の隣へ足を運んだ。確か相手は歓迎していなかったが、確かに彼らを認めたのだ。そうして今の黒服を統べろなどという悪条件をも取り付けて。彼ならば、もしかしたら、と期待する。


「私たちも行かせてくれないかな」


 震える仲間の肩を抱き、眼帯の男が口を開いた。彼らの瞳は、絶望に揺れていたが、報復相手の情報は欲しいだろう。小さな拳銃を握りしめ、幼いボスは、笑顔で受け入れた。

 さて、戦争が起きるかもしれない。

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