逃れ忍者
小笠原寿夫
第1話
雨音の鳴る中、ひた走る男が居る。誰も彼を、咎めない。雨音と足音が、夜の静けさを斬る。男は、ひたすらに、しかも、がむしゃらに走る。彼の名を、次郎という。人は、彼の名を知らない。我を忘れて走る男は、それでも尚、西へと向かう。
次郎は、我が名を忘れている。着物には、雨による重みと、黒ずんだ汗が、入り混じっている。西に何があるのか。次郎は、まだ知らない。追うものは居らず、嘲るものすら居なかった。次郎には、小さな息子が居た。まだ、名も無い頃に、養子に出され、丁稚奉公をしていると、風の噂に聞いたことがあった。
雨音が鳴り止んだとき、地面を叩く足音は、砂利と共に、軽快さを失っていった。
日が昇る頃、お天道様だけが、彼を見ていた。徐々に乾いてくる灰色の着物が、袖の脇の部分だけ、破れていることに気づいているのは、次郎だけだった。ほつれた糸を縫ってくれる者のことは、遠い記憶の中に仕舞い込んでいた。
更に、西へ向かうこと一刻。彼は、漸く、名を思い出した。
服部次郎守重清。戒名、伊佐美半五郎清時。
史実は無い。実在していたことを、お天道様は見ていた。お天道様が向かってくる様に次郎は、感じていたが、実際にはお天道様に向かって、走っていた。遠い遠い記憶の中に、彼は、母を見ていた。噛み砕いた毒袋を、しがみながら、彼は、のたれた。
その死骸を発見したものは、その躯に、一葉の手記を拾い上げた。雨により、それは滲んでいる。彼が残した手記には、こう書かれていた。
末世に生きる殿へ送る。我、宝埋めし、所在を知るなり。隠れ蓑の中に在り。
服部次郎守重清。
その史実は、ない。ただ、お天道様は、全てを知り尽くしている。
ただただ、照りつける日光だけが、城へ辿り着けなかった男の躯の臭いを掻き消してくれた。
逃れ忍者 小笠原寿夫 @ogasawaratoshio
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